21.神々の贖罪
それで何が変わるのか、何も変わらないのか、泰善にも分からなかった。この世が始まる前から存在し続けてきた彼にとっても、未知で未経験なことだからだ。唯一言えるのは、シュウヤの心が憎しみに蝕まれていくのを阻止することはできる、ということだ。
シュウヤは泰善が良いと思うことを善とし、悪いと思うことを悪とし、愛するものを愛し、大事にしてきたものを大切とした。そういう男であるから、天上界を救いたいという気持ちは十二分に持っている。しかしそのために泰善が苦しむことを承知しないので、板挟みになってもがいてしまうのだ。そこから救い出す道はもはや、ひとつしか残されていない。
とはいえ、シュウヤが抱く理想郷を否定することができない反面、終わることのない流転の世界を創造することが不可能である以上、肯定もできない。板挟みになっているのは泰善も同じだった。
帝人の発言で発現したシュウヤが想い描く理想郷の構想は、まだ下書きすらできない絵空事である。そよ風に吹かれただけで消えてしまう脆いシャボン玉のようだ。初めてこの世に空間を現した時のような手応えもなく、時間という概念が芽生えた時のひらめきが訪れるような気配もない。この世が完全に無で、究極に孤独だった幼い頃の不安が蘇るほど、途方もなく真っ白なのだ。
その一方で肉体の死に至らない痛みも深刻である。死に直結すれば請け負ったものの三割程度を消化できるため、すぐさま転生すれば事なきを得るが、現実はそうではない。痛みに耐えかねて意識が途切れる瞬間、この世は終わりとなるだろう。つまりはシュウヤの見立て通り、請け負うのは限界に来ているのだ。
ただシュウヤの心を見るまで決心がつかなかっただけである。それほどまでに新世界を実現する自信がないのだ。だがもうそんな言い訳も通用しないと、泰善は目を閉じて溜め息ついた。
***
「最後の手段は延命処置に他ならない」
泰善は帝人らに前もって伝えた。
「しかし今はこの方法に頼るよりほかない。これを行うことで、明日起こるかもしれない昇華を七万四千八百六十九年、遅らせることができる。その限られた時間で何ができるのか分からないが、やってみるしかないだろう」
かつて理想郷を叶えた祭壇の中央に立ち、その身をシュウヤに支えられながら告げる。場に集まった上位天位者らは、泰善の美しさに釘付けになりながらも、耳を傾けた。
「その期限は、いったいどのように……」
帝人が質問すると、泰善は苦笑いした。
「この天上界のすべての死を消化するのに費やした時間だ」
そう聞いて動揺した帝人のことは見て見ぬふりをして、泰善は右腕を上げ、振り下ろした。
瞬間、泰善の足元から黄金に輝く紋様が一気に広がった。あっと驚くのが先か、息が止まるのが先か。紋様はとどまることなく周囲の大地を埋め尽くし、なお広がり続けた。恐ろしいほど緻密で美しいが、それは紛うかたなき死の印章——理想郷確立の際に残さなかったもの、すべての死を消化するのに費やした時間、その答えである。
およそ三十分で祭壇の対極まで達した印章は、大海と大地に隙間なく刻まれ、天上界を余すところなく包み込んだ。寅瞳の死の印章でも直径三メートルほどであることを踏まえると、その巨大さは計り知れない。いや、もはや比較対象にすらならないだろう。完全な球体を成す死の印章など、見聞きした者はいない。
この天上界の地に立つ者は誰であれ、刻まれた印章に目を奪われ、心を支配された。第五居住区にある未熟な神ですら意味を理解し、大いなる力を畏れ、慈悲深さに落涙した。ゆえに、より深く理解する者は跪いた。
絶大な愛の前には、誰もが無力である。界王の内から放出される力が愛に由来するものであり、個々の神々が有する力のすべてがその恩恵であると知る時、あらゆるものが等しく平らになるからだ。
やがて天上界の民は一人残らず地に伏せ、後悔にむせび泣いた。滲むように浮き上がってくる記憶の断片——それは死のない世界を実現するために、この大いなる愛の源を絶った瞬間である。恐ろしく、そして罪深い。
神々は己の手が汚れていることに気付き、見えない刃で魂を引っ掻いた。生も死も、愛があるからこそ美しく、魂に輝きをもたらす。それを知る神が、その真理に背を向けたのだ。にもかかわらず理想郷は叶えられた。ただ与えるだけの愛の力でもって、界王が許したからだ。
神としての英知。魂の記憶。それらが胸の奥から湧き出でる。天上界の民は居てもたってもいられず、自発的に祈りを捧げた。最高位から御触れがあった時は戸惑いしかなかった彼らだが、今は一切のしがらみを捨て去った。
いつものようにカフェテラスに集まっていた唐市らも同じだ。彼らは椅子から離れて地面に直接座り、迷いなく祈った。思い出などなくても良かった。地に隙間なく描かれた黄金の紋様が何もかも語っているからだ。
春の日差しのように暖かく降り注ぐもの、風のように掴み難いもの、幾億光年も先で光る星のように遠い存在。だが常に胸で輝き続ける尊いもの。それは界王によって発現し、それによって界王は発現した。完全なる輝きと絶対的な価値、究極の美とすべてを超越する力——この全次元を凌駕する愛こそが界王なのだ、と。
***
神々の祈りは最高位のもとに寄せられた。思念を読み取る能力によるものである。おかげで帝人はしばらく偏頭痛に悩んだが、界王のために捧げられた純粋な祈りは、その心を救った。今なら寅瞳の望むとおり、魂の願いをみな聞き入れられるのではないかと。
しかし意外にも、界王こと飛鳥泰善が首を横に振った。
「死の印章の解放は、半強制的に悟りを開かせる。強引に昇華させる行為と近い。そのせいで民の魂は多大なエネルギーを消耗している。今は控えたほうがいい」
これまで抱え込んでいた死の印章を解放したことで多少痛みが引いたらしい泰善は、それでもシュウヤを側に置きながら、自室の長椅子に腰を下ろし、背もたれに片腕をかけて足を組んだ。
「魂の最初の願いが何であれ、今生の想いと重ならないのなら、無理はしないほうがいい」
様子は美しいが、なんとなくふてぶてしさを感じる態度に、帝人は懐かしさを覚えた。消された記憶が反応しているのだろうという解釈はしたが、目を離せないでいる感情は少々危険であると判断して、意識的に視線をそらせた。
「時間が必要なら待ちます。それで……今後、貴方はどうなさるおつもりで?」
「少し休む。あとは考える」
「……何を、考えるのですか?」
「新世界の理を。せめて下絵くらい完成させなくては、今回の決断の代償を払えない」
「決断の代償、とは?」
「昇華へのリスクを承知の上で、死の印章を解放し、この世を正常な流転の理の軌道に乗せた。つまり、わずかな可能性に賭けたのだ。その博打に巻き込んだ代償は払われなければならない」
帝人は戻すまいと思っていた視線を戻し、唖然とした。泰善はこの上まだ犠牲を払うと言って譲らないのだ。その信念が到底曲がりそうにないと思えるのは、どこかで界王という男の性根を知っているからに違いない。
「下絵は……できそうですか」
「いや」
帝人のわずかな期待を泰善は素気なく葬った。
「シュウヤが願う理想郷は俺のためにあると言っても過言ではない。つまり自分のために何かを創造しなければならないわけだが、そういうのは試したことがないので、どこから手をつければいいのか分からない。まだ闇の中で、あるかないかも定かでない一本の糸を探っている段階だ」
真面目に悩む泰善を眺め、帝人はその者が本当に別格の存在であることを思い知らされた。
いかに崇高な神とて、完全に我欲を捨て去ることは難しい。最高位の己も、神王の寅瞳も、核の中心に立つ大龍神も、神界を治めていた大御神も、みなどこかで自己を防衛し、身に置き換えた願望を有している。だが泰善は、世の中のすべてを創造し破壊しうる力を持っているにもかかわらず、自身のために使うことを考えたことがないのだ。
この尊い魂を廃絶しようなどと、過去の神々はなぜ思ったのか。
帝人は考えて、欲深い思考を持つことの恐ろしさに震えた。
欲は重大な罪を犯させ、多くの者を不幸にし、身を蝕む。だが貪っているあいだは気が付かない。しゃぶり尽くして飽きた頃、ふと顔を上げた時に気付くのだ。周囲に広がるのは陰鬱とした景色で、美しいものが何もないことに。
帝人はふと、まだこの男の正体が知れない時に、永治が口にした言葉を思い出した。
〝我が王よ、この世の神が地獄に堕ちるべき罪を負っているのは明らかです。救いの手を差し伸べるつもりがおありなのでしたら、どうぞ静観なさっていてください。すべての死は貴方が持ち去った。ならば生きながら地獄を見るのも定めでしょう〟
今なら痛いほど理解できるその言葉を、あの時に言えた永治が羨ましく思えた。彼は自分の力で記憶を引き出し、自分の目で真実を見つめ、自分の脳で悟りを得たのだ。神にとってそれがどれほど大切なことか——帝人は胸にある天位と己を比べて恥じた。到底釣り合わない、と。
しかしそのように深刻な帝人の心を見透かした泰善は、苦笑して言った。
「お前が一位にふさわしいと決めて宝玉を授けたのはこの俺だ。自信を持ってくれなければ困る」
帝人は目を見開き、次の瞬間には耳を真っ赤にして泣きそうな顔をした。光栄と思うと同時に、その優しさが「昔と変わらない」と感じることができて、心から嬉しかったのだ。
***
その夜、帝人のもとに燈月と大御神が訪ねてきた。記憶の再生によって双子の兄妹であることが判明した二人は、寅瞳と同じ想いに目覚めている。魂がこの世に現れた時に抱いていた、最初の願いにある真の目的を果たさんとする志だ。
二人の顔を見て、帝人は戸惑いの表情を浮かべた。
「現実的ではない」
何も告げないうちに否定する帝人を、二人は驚いて見やった。
「昇華してみなければ分かりません」
硬い口調で意見する燈月を、帝人は静かに眺めた。
「いや、分かる。昇華すれば確かに、今よりは崇高な存在になれるかもしれない。だが真の目的に達するほどの高潔さが我々にあるだろうか」
「ないと申されるか」
大御神が言い、帝人は大きく息を吐いた。
「界王の死の印章の上に立ってなお、己は潔白だと自信を持って言えるのか? 私は言えない。そんなこと、口が裂けても言えないだろう」
そう言って、燈月と大御神を交互に見つめた。
「神々は目測を誤ったのだ。昇華したぐらいではどうにもならない」
「お言葉ですが、昇華は魂の最終形態です。神々の魂が昇華することは、そういう意味でも重大な……」
「それ以上に界王が崇高だとしたら?」
燈月の言葉を遮った帝人の声は強かった。そしてその眼差しは射るように鋭く光った。
「膝元どころか足元にも行けない。行ければ奇跡だ。それほど界王という存在は遠い。昇華してみて足元にも及ばなかった時の絶望を想像してみろ。何も取り返しがつかず、まったく救いがない」
燈月は言葉を失って口を開閉させた。帝人があまりに熱を込めて断言するので、気圧されたのだ。
「……何か、あったんですか?」
やっと絞り出した声で質問を投げると、帝人は少し思いつめた目でうなずいた。
「界王は、我々が思うより遥か高みにいる。それは想像を絶する。神々が一人残らず血の滲むような努力をして純粋な昇華に努めたとしても、おそらく上手くはいかない」
「では一体どうすれば」
「——奇跡を……シュウヤ殿が言うように、奇跡を願うしかない。最大限の努力の上に奇跡の力が働かなければ、目的はなし得ない。どちらが欠けても駄目だ」
「奇跡……は、確か界王にしか起こせないはず」
「そうだ。だからシュウヤ殿は起こさせると言って我々に祈りを要求した。しかし、それで起こさせることができるという保証はない」
燈月は息を飲み、しばし沈黙した。
昇華することは神にとって無駄ではないだろう。だが願いを叶える力にはならないと帝人は言う。それが絶望でなくてなんなのだろうか。とはいえこれ以上、神々のワガママに界王を付き合わせるわけにもいかない。願いは叶わなくとも、界王への償いは必要だ、と。
燈月の心を読み取った帝人は、ゆっくりと目を向けた。
「そのとおりだ。我々は償わなければならない。せめてそれだけは、成し遂げねばならない」
「どうすれば……」
「難しい問題だ。答えは最期まで出ないかもしれない。だが残された時間は、すべて界王のために費やそう。界王がそのすべてを我々のために費やしてきたように。今はそれしか言えない」
燈月と大御神はうなずくように、静かに目を閉じた。