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神影(しんえい)改訂版  作者: 礎衣 織姫
第十三章 完結
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20.祈り

 その夜、シュウヤは泰善のうめき声で起きた。朱の紋様が痛むのだろうと思い、左腕に触れる。と、泰善がうっすら目を開けた。額には汗が浮かんでいる。少し青ざめた様子は、シュウヤの不安を煽った。それはすべての死を消化するために生きた、あの地獄のような年月を思い出させる。

「大丈夫か?」

 揺れる心を抑えつつ尋ねると、泰善は苦しそうに息をもらした。

「……正直なところ、思わしくない」

「おい!」

「一度、始点界へ戻ろう」

「わ、分かった」

 シュウヤは急いで身支度を整え、机に書き置きを残した。帝人か寅瞳か、誰かそのあたりに宛てたものである。

『泰善と始点界へ帰る。落ち着いたらまた来る。シュウヤ』


 書き置きを手にして眉をひそめ、小首をかしげたのは沙石だった。

「え、なんだよ急に」

「どうかしたんですか?」

 一緒にシュウヤの部屋を訪れた寅瞳が尋ね、沙石は書き置きを手にしたまま振り返った。

「始点界に帰るって。戻っては来るらしいけど」

 葡萄酒の瓶を抱えていた寅瞳は、少し残念そうな顔をした。

「そうですか。せっかく喜んでいただけると思ったのに」

「あいつ、そんなに葡萄酒好きなの?」

「ええ——というか、葡萄酒しかお召し上がりになりません」

「なんで?」

「飛鳥様は生きるために飲食する必要がありません。ですから食に関する欲求がないんです。でも唯一、これだけはお求めになりました。理由は分かりませんが、とてもお気に召していらしたので、何かあるんでしょう」

「……答えに、なっているような、いないような」

 沙石は寅瞳から書き置きへ視線を移し、溜め息をついた。

「ま、いねえんじゃしょうがねえな。出直すか」


 それから一週間後。

 シュウヤは一人で天上界を訪れ、帝人、寅瞳、沙石、空呈、燈月の五人を自室へ呼んだ。呼ばれた五人は互いの顔を見合っていたが、シュウヤが肩で大きく息を吐いて唸ったので、一斉に注目した。

「いったい何の用だ」

 人を呼んだ割にはなかなか用件を言い出さないシュウヤに、しびれを切らせた帝人が聞いた。するとシュウヤは近くの椅子を引き寄せ、五人と向かい合うように座って、再び唸った。

「理想郷が流転の理に完全に支配されたのは一瞬だった」

 そう語り出すシュウヤに対して、帝人は眉をひそめた。今更その話をする理由をはかりかねたのだ。

「それが?」

「あまりにも急激な変化で、世界が負った傷を修復するのは——それまで流転の支配力を抑えていた泰善にとってもキツイ作業だった。ただでさえ、核の痛みを請け負っていたからな」

 帝人は沈黙した。ほかの四人もしばし息を止めた。請け負った痛みの激しさは、かの紋様が示していた。言われなくても理解しているつもりだが、改めて指摘されるといたたまれないのだ。

 シュウヤも彼らの気持ちが分からないわけではなかったが、あえて感傷にはひたらなかった。泰善のためにも言わなければならないと腹をくくっているからだ。

 シュウヤは膝の上で拳を固く握った。

「結晶石を復活させて核の加護を利用したり、地獄を吸収させたりして、あいつなりになんとかバランスを保とうと努力はしたんだ。けどやっぱり、生に対して死がないっていうのは致命的らしくて、泰善は……自分の死で贖えないかと試行錯誤したらしいんだ。結論からいうと界王の死はこの世の消失と同等以上の対価だから、無理だってことになったんだけど」

「ちょっと待てよ」

 口を挟んだのは沙石だ。シュウヤが語る内容にはいろいろ納得いかない様子である。

「オレたちはこれ以上あいつを犠牲にしようなんて思っちゃいないけど、理想郷ってあいつの死で確立したんだったよな? そん時なんでこの世は消失しなかったんだ?」

「あれは肉体を滅ぼしただけだった。肉体の死は天上界に生きる者のすべての死を請け負うことと対等だったってだけのこと。同じことができれば問題ないさ。また泰善が何万年も苦しめば終わる。だけどここにはもう対価になる死がない。あいつの身を滅せるものは何もない。だから差し出せるものが純粋な『死』になる。でもこれは比重が重すぎて使えないからどうしようって話だよ。分かりやすく言うとな」

 シュウヤの台詞には皮肉がたっぷりと込められている。だが反論できない悔しさに、沙石は拳を握ってややうつむいた。

「……それで、今どうしてんだよ」

「苦しんでるよ。止まらない崩壊を無理やり止めてんだから、そりゃそうだろ。何も消化しない内に請け負い続けてるんだ。なのに身を滅ぼす力にはならない。ただ苦しいだけだ。不毛だよ」

 沙石は血の気をなくした顔で寅瞳を見た。寅瞳は真っ青になって体を小さく震わせていた。記憶がある者のつらいところだ。

 沙石はシュウヤに向き直った。

「最後の手段は? あの、残さなかったものってやつ」

「それは俺も聞いてみた。でも泰善は、なんの活路も見出せないままあれやったら、本当に終わりだって言うんだ」

 沙石は途方に暮れて口をつぐんだ。代わりに発言したのは帝人だ。

「それで貴殿は、我々に何を求めている。そのような話を持ってきたからには、何かしろと言うんだろう」

「そりゃあ何かしろとは言いたいよ。けど泰善にできないことをお前らができんのか? できないだろ? だからとにかく——」

「とにかく?」

「祈ってくれ」

「は?」

「祈りには力がある。それが神の祈りなら、なおさら。だから祈ってくれ、泰善のために。お前らが自分たちのためじゃなく、泰善のために祈れるなら、何か奇跡が起こるかもしれない」

「でも奇跡は、飛鳥様にしか起こせません」

 寅瞳がか細い声で意見すると、シュウヤはゆっくりと視線を流して寅瞳を見据えた。

「泰善にしか起こせないなら、泰善に起こさせるんだ。俺は迷わない。はっきり言うぞ。この天上界に生きる者すべてに、泰善のために魂を差し出せってな。そうじゃなきゃ奇跡なんか起きない。泰善は自分のために奇跡なんか起こさないからな。それはお前のほうが分かっているはずだろう、寅瞳」

 シュウヤの強い物言いに、寅瞳は切迫したものを感じて顔を強張らせた。

「そんなに良くないんですか? 飛鳥様」

「あの苦しみようは理想郷確立以来だよ」

 シュウヤが吐き捨てた言葉には、積年の恨みにも似た怒りがあった。界王に縋ってばかりで己の身を削らぬ神々への激しい恫喝である。

 寅瞳の目に涙が溢れた。

 それはシュウヤの怒りに共感する悲しみと、己の不甲斐なさに対する悔恨と、泰善が抱える痛みへの涙である。

「私の魂で良ければ差し上げます。それで少しでも飛鳥様の苦しみが解かれるなら、いくらでも」

「お前の魂だけじゃ足りない。神王たるお前の魂でもな。だからみんなに訴えるんだ。今必要なのは何か、明確に示せ。できるだろ? それくらい。泰善がやってることに比べりゃ簡単だ」

「おい、言い方!」

 喧嘩を売るようなシュウヤの口調を沙石がたしなめると、シュウヤは椅子を鳴らして立ち上がった。

「お前に言い方注意されたくないな!」

「うっせー! 寅瞳がかわいそうだろ!?」

「これでも抑えてるほうだ! 本当は天上人の奴ら一人ずつぶん殴って歩きたいくらい腹立ってんだ、俺は!」

「だからって横暴だろ!? ちったあ冷静になれよ!」

「なれるかよ! こっちはあいつが苦しんでるのを毎日見てんだぞ! 一世界の傷を平然と請け負う男が、始点界に戻らなきゃ耐えられないくらい切羽詰まってるんだ。それがどれだけのことか、お前には分かんないのか!」

 シュウヤの言葉が深く胸に刺さった沙石は、ぐっと押し黙った。泰善が究極浄化によって痛みを緩和しているらしいことは、シュウヤの行動で分かる。そのシュウヤの手当ても追いつかず、より強力な究極浄化の力がある場所に戻らなければ耐えられない痛みとなると、想像を絶するものであることは明らかだ。突発的とはいえ、それを忘れて楯突いたことを、沙石は後悔した。

 帝人は、自己嫌悪にさいなまれる沙石を見兼ねて一歩進み出た。そうでなくとも、彼にはこの状況を収拾する責任がある。

「天上人が一人残らず魂を差し出してくれるとは思えない。特に第四、第五居住区の者は神としてあまりにも未熟だ。道を示したところで期待はできないぞ」

 帝人の現実的な意見に少し頭を冷やしたシュウヤは、もう一度肩で深く息をした。

「それでもやれよ。そのくらいのことやってくれなきゃ、俺はどうにもお前らを許せそうにない」

 同じ過ちを、一度ならず二度までも繰り返しているのだと、シュウヤの目は訴えている。そこに宿る怒りと悲しみを、帝人は理想郷を確立した者として、無条件で飲み込まねばならなかった。

「分かった。やってみよう」


 とはいえ現実は甘くない。帝人らの提案は、第四、第五居住区の者どころか、初っ端なの大講堂でつまずいた。

「そりゃあ魂を差し出しても惜しくない美貌ですけどね、実際に出せと言われても困ります」

 慎李が言うと、周囲にいた烈火や暑旬恵、琴京、成柢が同意してうなずいた。

「それで奇跡が起こるという確証はないのでしょう?」

 暑旬恵が不安そうに聞き、烈火は腕組みして唸った。

「そもそも魂を差し出せだなどと——結局、彼らの目的は天上界の支配だったのでは?」

 そういう見解もあるだろうと予想していた帝人は、努めて穏やかに反論した。

「言って来たのはシュウヤ殿だ。界王自らの申し出ではない。だいたい、誰がそのために核の痛みを請け負い、身を削って天上界の歪みを修正する。壊れゆくものを支配して何になる」

 それにうなずいたのは成柢だ。

「なるほど。善意だという自信がおありか」

「まあな。己の身を投げ打って理想郷を叶えさせてくれた男を信じないわけにはいかない。現に天上界は崩壊寸前のところを救われた。そして何事もなく動いている。だが実態は、依然として界王が世界の傷を請け負い、崩壊を防ぐだけでなく、修復を重ねている。朱の紋様がどれほど深く刻まれようと——だからシュウヤ殿は、我々に魂を差し出せと言って来た。そうでもしないかぎりやめないと分かっているのだ」

「限界に来ているというわけか」

「そのようだ」

「しかしな、魂を差し出した後はどうなる? それで解決すると断言できるのならまだしも」

「成柢殿、このたびの申し出は我々の未来を救うためのものではない。シュウヤ殿はあくまで界王を救いたいのだ」

 成柢は溜め息とともに、顎をつまんだ。

「界王、か——どうにも記憶がな。あれほど強烈な美貌の持ち主は二人とおらぬ。私たちは本当に忘れてしまったのか? 本当はこれが初めての出会いではないかと思えてならぬ」

「忘却の力とはそういうものだ。魂を抉るような経験すら忘れ去ってしまう」

 成柢はゆっくりと帝人を見つめ、意味深な笑みを浮かべた。

「そのような経験が、おありのようだ」

 帝人は成柢を見つめ返した。なんだかんだと結局、自分をよく見ている女だと。恋情ではない。一人の家族を思うような気持ちだ。初めて会った時から変わらない彼女の優しい一面に、幾度助けられたか分からない。

 帝人はそんな昔を思い出しながら、正直に打ち明けた。

「記憶が戻ったわけではない。だが寅瞳殿の心を視ていると、そこに私がいる。界王と向かい合っている、私が」

「ほう?」

「あの光景を視ていると分かる。忘却の力は界王の愛によって放たれたのだと。私と民の心が救われるように、迷いなく使われたのだと」

 成柢は眉をひそめた。

「いったい何を?」

 いったい何をしたのかと、彼女は問う。忘却の力に頼らなければ救われないようなこととは何なのか、と。

 帝人は深く息を吐いた。言葉にするには勇気がいった。そして、

「……殺した」

 と呟き、目を閉じた。

「渡された漆黒の剣で、刺すように命じられた。すべての死を預けろと。私は躊躇したが、界王がそれを許さなかった。剣は界王の胸を貫き、この世に忘却の力が押し寄せた」

「もうよい」

 成柢は思わず帝人に寄り、腕をつかんだ。

「いらぬことを聞いた。申し訳ない」

 成柢の言動で自分が泣いていることに気づいた帝人は、手の甲で涙を拭った。

「……記憶が戻れば、みな魂を差し出すだろうか」

 成柢は手を放し、困ったような顔をした。

「分からぬ。すべての者が関わったわけではないだろうしな」

「死を預けた相手だ。関わりがなかったなどとは言わせない」

「そうは言っても、記憶もなく、直接関わった経験もない者の反応は冷たかろう」

「ではどうすれば」

「不服と思われるかもしれないが、まずは提案だけ公布して、様子見というのは? 賛同する者、異を唱える者、いろいろ出て来る。そうして天上界が混乱すれば、再び界王が現れ、何か講じるはず。貴殿が信じるような男なら、きっと」

「また頼るのか」

「記憶の鍵であるなら、どのような状況であろうと出て来てもらわねば話にならぬ」


 凪間成柢の案に乗った帝人は、界王のために魂を捧げる覚悟を民に求めた。多くの者は戸惑い、すぐに結論は出せなかった。

「かつてすべての死を請け負い、理想郷に導いた支配者が、再び天上界を救うべく来臨し、苦境に立たされている。これを助け乗り越えるには、天上人が魂を捧げる覚悟で祈らなければならない」

 そう聞かされても、彼らにとっては突如現れた存在である。その者のために己の命の源である魂を捧げるというのは、ひどく抵抗があった。

 それはわずかに記憶を残す唐市らも同じだった。

 束尚、成々、梓とカフェのテーブルを囲んだ唐市は、頬杖ついて眉間にシワ寄せた。

「つーか、将軍でも苦戦してるって状況を、俺らが魂かけて祈ったところで何か変わるのか?」

「変わるって信じてんだろ?」

「うーん、たぶん将軍にはスゲー世話になってると思うから、力になれるんならなりたいけどなあ」

 髪をワシャワシャとかき分ける唐市を見て、束尚は意地が悪そうに口の端を上げた。

「自信がねえんだろう」

「うっ」

 唐市は頬を紅潮させ、束尚を睨んだ。

「あんたはどうなんだよ?」

 束尚は肩をすくめた。

「やっぱり記憶が戻らねえことにはな。信じてないわけじゃあねえが、本当にはっきりとこの心で確信できねえと」

「そらみろ、人のこと言えるか」

「思い出って、案外重要ね」

 梓の発言でみなシンとした。

 永治の言葉に偽りはないと信じても、流転の世に転じた瞬間の激震に天上界が耐えることができたのは界王のおかげだと分かっていても、顔も知らない相手を想うことは困難である。

 四人は次の言葉も見つからず、黙って目の前のコーヒーや紅茶を飲んだ。


***


「記憶……が、どうしたって?」

「だから、戻したらどうだって話」

 シュウヤはベッド脇で泰善の腕に両手を置き、鎮痛剤役を果たしながら言った。

 痛みに耐えるのに必死で、話を半分うわの空で聞いていた泰善は呆れた顔をした。

「戻したからって、別に何も変わらないぞ? まあ、放っておいてもそのうち戻るだろうが」

「え、戻んの?」

「一応、俺の支配下に置かれているからな」

「いつ?」

「さあ。百年か二百年か、そのくらいだと思うが」

「遅っ」

 泰善は眉をひそめた。シュウヤの反応に疑問を持ったのだ。そもそも何故いま記憶の話をするのかと。

「遅いと何か不都合でもあるのか」

 やや訝るように問われ、シュウヤはギクリと肩を揺らした。帝人らに指示したことは内緒だ。もし悟られれば、雷が落ちるだけでは済まない。

「い、いや、やっぱりさ、早くみんなに思い出してもらいたいじゃないか」

「たとえ五百年かかっても、天上人にとってはあっという間だろう」

「いやあ、それはかかりすぎだって」

「だが、たいした問題じゃない」

 シュウヤは黙って泰善の顔を見つめた。泰善はしかめ面をして、まぶたを閉じた。

「何が言いたい」

「……お前のたいした問題ってなんだよ」

「天上界の行方、それに尽きる」

「俺にはお前がこんなことになってるほうが大問題だ」

「それと記憶と何の関係がある」

「あいつらはお前のことを理解する必要がある」

「何故」

「分からないけど、なんか変わるかも知れないじゃないか」

 泰善は溜め息ついて目を開けた。

 シュウヤが何を願い、求めているのか——それを読み解く時、決して逃れられない運命をたどることになると知っている。ゆえに視たくはないのだが、何を企んでいるか言いそうもないので、やむなく覗いた。そして初めて心が折れた。

「仕方のない奴だ」

 泰善のひと言に、シュウヤは目を丸めた。

「は?」

「お前の願いを聞くことは、俺の欲を優先するのと同じだ。本当は耳を傾けるべきではない。だがお前の苦しみを無視できるほど、俺も気丈ではない」

「え?」

「昇華への道は九九・九パーセント。それ以外の道は、〇・一パーセントだ」

「な、なに?」

 唐突すぎてシュウヤは困惑したが、泰善は構わず、ある決意を秘めて宣言した。

「残さなかったものを刻む」

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