08
父の言葉に、母親は、ひどく傷ついたように眉を寄せた。その美しい瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
「あなた…。どうしてそんな酷いことを言うの…? 長い間、辛い闘病生活を送って、やっと娘たちに会えたというのに…。私が誰だか、本当に分からないの…?」
その哀切に満ちた姿は、誰が見ても悲劇のヒロインだった。父の方が、常軌を逸しているように見える。エリュガードでさえ、困惑した表情で父と母親を交互に見ている。
だが、父は怯まなかった。彼は、震える手で、エルザから受け取ったばかりの古書を強く握りしめている。
「黙れ…! なぜだ…。なぜ、今になって私たちの前に現れた…! お前は…お前だけは、決して会ってはならない存在だったはずだ! 俺が、この十年間、全てを捨てて辺境の村にいた理由が、分からないとでも言うのか!」
父の支離滅裂な叫び。しかし、その言葉の断片が、私の頭の中で恐ろしいパズルを組み上げていく。
『魔女には気をつけろ』――ハーヴェスト公爵の最後の忠告。
『魔女の血を引く、最後の器』――悪魔がエルザをそう呼んだ。
『お前がどう足掻いても、魔女の後継者に勝つことはできない』――父が、私に下した冷徹な宣告。
そして、エルザから託された、"魔女"に関する研究記録。
点と点が、繋がり、一本の線を結ぶ。今まで見えなかった、全ての謎の答え。父が私達を守るために、どれほどの覚悟で穏やかな日常を演じてきたのか。その理由。
血の気が、引いていく。足元から、奈落の底へ引きずり込まれるような感覚。
まさか。そんなはずはない。でも、それ以外に、この状況を説明できる答えはなかった。
――私達の、お母さん。彼女こそが、全ての元凶。父が最も恐れ、ハーヴェ-スト公爵がその生涯を賭して追い続けていた、伝説の"魔女"なのだと。
私が、その絶望的な真実にたどり着き、声にならない悲鳴を上げようとした、まさにその時だった。
ザシュッ。
空気を切り裂く、鈍く、湿った音。
世界が、突如としてスローモーションになった。私の目の前で、鮮やかな深紅の飛沫が、まるでスローモーション映像のように宙を舞った。それは、太陽の光を浴びて、残酷なほど美しくきらめいていた。
血しぶきだ。
誰の? どこから?
ゆっくりと、私の視線がその発生源へと向かう。
信じられない光景が、そこにあった。
父が、立っていた。その胸の中央から、びっしょりと血が流れ出している。その顔は、驚愕と、苦痛と、そしてほんの少しの安堵を浮かべて、真っ直ぐに私を見つめていた。
そして、父の背後。
父の心臓があった場所から、すっと引き抜かれた、血に濡れた白い腕。その腕の持ち主は、先ほどまで悲劇のヒロインを演じていた、私の母親だった。
彼女の顔から、慈愛に満ちた母親の仮面は、綺麗さっぱり剥がれ落ちていた。代わりに浮かんでいたのは、歪で、残忍で、この世のどんな悪意よりも純粋な、底知れない愉悦に満ちた笑みだった。ニヤァ、と三日月の形に歪んだ唇が、声もなく嗤っている。
「お…とう…さん…?」
私の唇から、か細い疑問が漏れた。
父の体が、糸の切れた人形のように、ゆっくりと前へ傾いだ。その最後の視線は、確かに私とメアリーを捉えていた。その唇が、声にならない言葉を紡ぐ。
『あい…してる…』
ドサリ、という重い音を立てて、父の体は石畳の上に崩れ落ちた。
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いよいよ、序章のクライマックスです。続きも見たいという方は、ブックマークと評価をお願いします!!