07
やがて、全ての準備が整った。私達は、屋敷の重厚な鉄の門の前に立った。エルザが、見送りに来てくれた。別れの時が来たのだ。
「ケイン様、これを」
エルザは、一冊の分厚い革張りの書物を父に差し出した。
「父が遺した研究記録の一部です。"魔女"に関する、最も重要な記述がされているもの。今はまだお渡しすべきか迷いましたが…あなたが持っていた方が、安全かもしれません。いつか、これがあなたの力になってくれることを信じています」
父は、黙ってそれを受け取ると、深く頭を下げた。
「メアリー、元気でね」
エルザが屈むと、メアリーはわっと泣き出し、その首に強く抱きついた。
「エルザお姉ちゃん…! 死んじゃいやだよお…!」
「大丈夫よ。私は、死なないわ」
エルザは優しくメアリーの背中を撫で、そして、最後に私の方を向いた。私達は、言葉を交わす代わりに、強く、強く抱きしめ合った。温かい体温と、かすかな花の香りがした。
「必ず、また会おうね、シャーナ」
「うん。必ず」
私達は、固い約束を交わした。これが、今生の別れにならないことを、心の底から祈りながら。エルザに背を向け、私達はモハラの喧騒の中へと歩き出した。蔦の絡まる屋敷の門の前で、たった一人、気高く立ち続けるエルザの姿が、だんだんと小さくなっていく。さようなら、私のたった一人の、特別な友達。どうか、あなたに光の導きがありますように。
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エルザと別れた私達は、村へ帰るための合乗り馬車が発着する広場へと向かっていた。モハラの大通りは、相変わらずの活気に満ち溢れていた。行き交う人々の陽気な話し声、荷馬車の車輪が石畳を叩く音、露店の呼び込みの声。それらの全てが、まるで違う世界のできごとのように、私達の意識の表面を滑っていく。十日間の悪夢が嘘だったかのように、世界は日常を続けていた。
その、どこか現実感のない喧騒の中を歩いていると、ふと、メアリーが私の袖を引いた。
「ねえ、シャーナお姉ちゃん。村に帰ったら、エリュガードのお母さんのパイが食べたいな。それから、川で水遊びもしたい。お父さん、またお魚たくさん釣ってくれるかな?」
そのあまりに無邪気な言葉が、張り詰めていた私達の心を、ほんの少しだけ解きほぐした。父の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「ああ、もちろんさ。腕によりをかけて、お前たちが食べきれないくらい釣ってやろう」
「本当? やったあ!」
メアリーの歓声が、灰色の世界に、ほんの一瞬だけ色を与えた。そうだ、私達には帰る場所がある。ささやかでも、幸せな日常が待っている。もう二度と、危険なことには関わらない。父も、きっとそう決意しているはずだ。エリュガードも、少しだけ安堵したように肩の力を抜いた。
このまま、何事もなく村へ帰れる。そう、誰もが思い始めた、その時だった。
雑踏の中から、信じられないほど優しく、そして、心の最も深い場所を揺さぶる、懐かしい声が聞こえた。
「……シャーナ…? メアリー…?」
空気が、凍った。
私とメアリーは、まるで操り人形のように、ぎこちなく声のした方へ振り返った。父とエリュガードも、足を止めていた。
人通りがなくなった通りでただ一人、不気味な女性がこちらへ歩み寄ってくる。少しやつれ、着ている服も質素なものだったが、その顔立ちは、記憶の奥底に焼き付いて離れない、あの優しい面影そのものだった。緩やかに波打つ栗色の髪。慈愛に満ちた、柔らかな眼差し。私達が三歳の時に、病で村を離れ、そのまま行方が分からなくなっていた、最愛の母。
「……お母…さん…?」
メアリーのか細い声が、震えながら漏れた。
女性は、私達の姿を認めると、その美しい瞳にみるみるうちに涙を溜め、はっと息を呑んだ。
「まあ…! シャーナ、メアリーなのね…! こんなに、こんなに大きくなって…!」
その声、その仕草、全てが記憶の中の母親と寸分違わなかった。彼女は、ふらふらと私達に歩み寄ると、震える両手を広げた。
「お母さんよ…。ずっと、ずっとあなたたちに会いたかった…! 病が治って、あなたたちを探して、ようやく…ようやく会えた…!」
その言葉は、長年の渇望を癒す甘い蜜のように、私とメアリーの心に染み渡った。信じられない。夢を見ているようだ。でも、目の前にいるのは、紛れもなくお母さんだ。会いたくて、会いたくて、夜中に何度も泣いた、大好きなお母さん。
「お母さんっ!」
堰を切ったように、メアリーが叫んだ。彼女は、母親の胸に飛び込もうと、力強く地面を蹴った。私も、理屈ではなかった。ただ、母の温もりが欲しくて、その懐かしい香りに包まれたくて、無意識のうちに一歩、また一歩と足を踏み出していた。エリュガードは、あまりに突然の出来事に、ただ呆然と立ち尽くしている。
私達の小さな家族が、ようやく一つに戻れる。失われた時を取り戻せる。幸福の絶頂が、すぐそこまで来ていた。
その、瞬間だった。
「待てぇええええええっっっ!!!!!」
父の、喉が張り裂けんばかりの絶叫が、モハラの喧騒を切り裂いた。それは、単なる制止の声ではなかった。恐怖、驚愕、後悔、そして狂気にも似た絶望が入り混じった、魂そのものの叫びだった。
私とメアリーの足が、縫い付けられたようにその場に止まった。何が起きたのか分からず、恐る恐る父の方を振り返る。
そこに立っていたのは、私の知らない男だった。顔は父のものだが、その表情は、今まで見たどんな顔とも違っていた。血の気は完全に失せて蒼白になり、大きく見開かれた目は、目の前の母親を、まるでこの世で最も恐ろしい何かを見るかのように睨みつけていた。悪魔と対峙した時の比ではない。あれが恐怖と怒りだとすれば、これは、根源的な、抗いようのない運命に対する絶望そのものだった。
「シャーナ!!! メアリー!!! そいつに近寄るな! そいつは、お前たちのお母さんじゃない!!!」
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