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クロニクル・エヴァーガーデン  作者: ロクト
第一部 悲しき冒険譚の始まり編
6/20

06

それは、歌と呼ぶにはあまりに拙く、音程も定からない、ただの呟きだった。しかし、その旋律には、どこか聞き覚えのある、懐かしい響きがあった。

悪魔が、訝しげに眉をひそめる。

「何だ、その歌は…。気でも狂ったか、ケイン」

だが、父は歌うのをやめない。その声は、次第に力を取り戻していく。それは、彼が幼い私やメアリーを寝かしつける時に、いつも歌ってくれた子守唄だった。しかし、ただの子守唄ではない。その歌詞は、父と、彼の師であるハーヴェスト公爵だけが知る、特別な意味を持っていた。

「エデンの園で…夢を見て…黄金のリンゴを…ふたつ…」

その一節を聴いた瞬間、悪魔の体がビクンと大きく痙攣した。

「グ…ア…アア…!? こ、の歌は…! やめろ…! 我の頭の中に…入ってくるなァ!」

悪魔は、メアリーを突き放し、自らの頭をかきむしり始めた。その紅蓮の瞳が、激しく明滅を繰り返す。ケインは、涙を流しながら、それでも歌い続けた。それは、師との思い出を、その魂に直接語りかけるような、祈りの歌だった。

「ひとつは友に…ひとつは娘に…銀のナイフで…分け合って…」

『やめろと言っている!!!』

悪魔の絶叫と、もう一つの、威厳のある低い声が、その肉体の中から同時に響き渡った。

『――ケインか…?』

師匠マスター!!!」

父が叫ぶ。悪魔の顔が、陽炎のように揺らめき、一瞬だけ、私達が知るザック・ハーヴェスト公爵の苦悶に満ちた表情が浮かび上がった。

「すまなかったな…ケイン。我が、不覚だった…」

公爵の声だった。悪魔に乗っ取られた魂の奥底から、彼は必死に語りかけてきていた。

「師匠! 今、助けます! だから…!」

「…もう、手遅れだ。我が魂は、もうこいつと混じり合いすぎた。引き剥がすことはできん。…だがな、ケイン。一つだけ、道は残っている」

公爵の顔が、再び悪魔のそれに歪む。

『させるかァ! この肉体は我のものだ!』

『黙れ、悪魔め! この命、貴様なんぞにくれてやるものか!』

二つの魂が、一つの肉体の中で、壮絶な主導権争いを繰り広げている。公爵の姿と悪魔の姿が、目まぐるしく入れ替わる。その光景は、あまりに凄惨だった。

そして、ついに。

悪魔の動きが、完全に停止した。その顔に浮かんでいたのは、紛れもない、ザック・ハーヴェスト公爵の、穏やかな微笑みだった。彼は、ゆっくりと自分の胸に視線を落とし、そして、震える私達を見つめた。特に、娘であるエルザの姿を、愛おしそうに。

「エルザ…強く、生きるんだぞ。お前の中には、"魔女"の血だけでなく、私という光も宿っているのだから…」

「お父様…? いや…! いやです! 死なないで!」

エルザが泣き崩れる。

公爵は、最後に父の方を向いた。その目には、深い感謝と、友への信頼が宿っていた。

「ありがとうな。ケイン…」

彼は、悪魔へと変貌していた自らの右腕を、ゆっくりと持ち上げた。その長く鋭い爪が、月明かりを浴びて妖しく光る。

「長生きしろよ」

その笑顔のまま。

彼は、一切の躊躇なく、その長い爪を、自らの心臓に深く突き立てた。

ザクリ、という、生々しい音が響き渡る。

「……ッ!!」

時が、止まった。

公爵の体から、黒い瘴気が悲鳴と共に霧散していく。紅蓮の光を放っていた瞳は、元の穏やかな色を取り戻し、しかし、その光は急速に失われていった。

「お父様ああああああっっっ!!!!」

エルザの絶叫が、静まり返った屋敷に木霊した。

ザック・ハーヴェスト公爵の体は、糸の切れた人形のように、ゆっくりと床に崩れ落ちた。その口元には、 ほのかな笑顔が浮かんでいた。まるで、最後の戦いに勝利し、安らかに眠りについた英雄のように。

悪魔は、死んだ。しかし、それは同時に、父の師であり、エルザの父親であった、一人の偉大な男の死を意味していた。

父は、ただ立ち尽くしていた。その手には、まだ羊皮紙が握られている。守るべきものは守った。しかし、失ったものはあまりに大きすぎた。

私の、十四歳の夏に体験した、奇妙で、かけがえのない十日間の謎解きの日々は、こうして、愛する者の尊い犠牲という、あまりに重い真実と共に、幕を閉じたのだった。


****

公爵の亡骸は、屋敷の主寝室に静かに横たえられていた。悪魔の禍々しい形質は消え失せ、その顔には死闘の末の安らぎさえ浮かんでいるように見えた。しかし、自らの手で心臓を貫いたその姿は、あまりに痛ましく、凄惨な真実を物語っていた。降り注ぐ朝の光が、部屋の埃をきらきらと照らし出し、死の静寂をより一層際立たせている。まるで、世界から色が失われてしまったかのような、灰色の夜明けだった。

私達は、誰一人として言葉を発することができなかった。父、ケインは壁に寄りかかり、虚空を睨んだまま微動だにしない。その目は深く落ちくぼみ、一夜にして十年も歳をとってしまったかのようだった。友を、師を、その腕の中で失ったのだ。いや、正確には、彼が歌った子守唄が、師に自決を選ばせた。その罪悪感は、彼の魂を内側から蝕んでいるに違いなかった。震える指先で、彼は何度も懐の羊皮紙に触れた。友が命を賭して守ろうとしたもの。悪魔が渇望した「鍵」。それは今や、鉛のように重い、呪いの遺品と化していた。

エリュガードは、壊れた家具の残骸のそばに立ち、窓の外を鋭く監視していた。彼の猟師としての本能が、この静寂こそが嵐の前の不気味な凪であると告げているのだろう。その背中には、年不相応な緊張感が張り詰めていた。メアリーは、私の腕の中で小さな体を震わせ、しゃくりあげていた。昨夜の恐怖と、敬愛していた「黒いおじさん」の死が、八歳の心にはあまりに重すぎたのだ。

その重苦しい沈黙を破ったのは、この悲劇の最も大きな被害者であるはずの、エルザだった。彼女は、一晩泣き明かしたのだろう、目は赤く腫れていたが、その背筋は驚くほどまっすぐに伸びていた。彼女はゆっくりと父の亡骸に近づくと、その冷たくなった手にそっと自分の手を重ねた。

「お父様…」

凛とした声が、静かな部屋に響く。

「あなたの娘であることを、誇りに思います。あなたの戦いは、あなたの光は、私が必ず受け継ぎます。だから…どうか、安らかにお眠りください」

涙は、もう流れていなかった。そのサファイアの瞳には、悲しみを乗り越えた先にある、鋼のような決意の光が宿っていた。彼女は、父の死を悼むだけでなく、その死の意味を理解し、自らの宿命として受け入れたのだ。"魔女"の血を引く者として、父が命を賭して守ろうとした世界のために戦うことを。

その気高い姿に、私達はただ圧倒された。父が、ゆっくりと顔を上げた。

「エルザ嬢…すまない…。俺が…俺がもっと早く気づいていれば…!」

「いいえ、ケイン様」エルザは静かに首を振った。「あなたは、父の魂を救ってくださった。悪魔の慰みものになることから、父の誇りを守ってくださったのです。心から、感謝しています」

その言葉は、父の心を救うにはあまりに優しすぎたが、それでも、凍てついていた彼の表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。

「…帰ろう」父が絞り出すように言った。「すぐにでも、村へ。ここは、もう私達がいるべき場所ではない」

誰もが、その言葉に無言で頷いた。このモハラという街は、私達からあまりに多くのものを奪い去っていった。エルザとの別れは辛いが、彼女には彼女の戦うべき場所があり、私達には帰るべき場所がある。父は、私達子供たちを守ること、それだけを考えているようだった。

「出発の準備をしよう」

父の言葉を合図に、私達は重い体を引きずるようにして、この忌まわしい屋敷を去るための支度を始めた。私の胸の中では、前世の記憶が疼いていた。かつて、私も王妃として、愛する夫ヘルクの死を看取った。国を守るための、彼の尊い犠牲。エルザの気丈な姿と、父の深い悲しみが、あの日の記憶と重なり、胸を締め付けた。また、大切なものを失ってしまった。その喪失感が、灰色の朝の光の中で、じっとりと心を濡らしていた。

****

荷造りは、黙々と進められた。と言っても、元々が短い旅のつもりの軽装だ。すぐに終わってしまう。その手持ち無沙汰な時間が、かえって私達の心に重くのしかかった。会話はない。ただ、衣類を畳む音、革袋の留め金を閉める音だけが、虚しく部屋に響いていた。

私は、エルザの部屋のドアをそっとノックした。彼女もまた、一人で身の回りの整理をしているようだった。

「シャーナ…」

私を見ると、彼女は少しだけ微笑んだ。その気丈な笑みが、私の胸を締め付ける。

「もう、行ってしまうのね」

「うん…。お父さんが、一刻も早く村に帰るって」

私達は、窓辺の椅子に並んで腰掛けた。窓の外では、モハラの街がいつもと変わらない喧騒を始めている。昨夜、この屋敷の一室で、世界の運命を揺るがすほどの死闘が繰り広げられたことなど、誰も知らない。

「エルザは、これからどうするの?」

私の問いに、彼女は迷いなく答えた。

「父の遺志を継ぐわ。この街には、父が築き上げた、"魔女"と戦うための組織がある。信頼できる協力者も。これからは、私が彼らを率いていかなければ」

十四歳の少女が背負うには、あまりに過酷な宿命だった。私は、どんな言葉をかければいいのか分からなかった。

「シャーナ」エルザは、私の手をそっと握った。「あなたの中には、とても大きな力を感じる。それは、私が持つ魔法の才能とは、また違う種類の、もっと根源的な力。ただ、まだ眠っているだけ。…今は、その力を無理に目覚めさせないで。あなたには、私のような生き方をしてほしくない。村に帰って、メアリーやエリュガードと、幸せに生きてほしい」

その言葉は、私の心の奥底にある秘密を優しく包み込むようだった。彼女には、私の中に前世の記憶があることまで見えているのかもしれない。

「ありがとう、エルザ。でも、もし何かあったら…絶対に、一人で抱え込まないで。私達は、友達でしょう?」

「ええ、もちろんよ」

エルザは、サファイアの瞳を潤ませながら、力強く頷いた。私達は、短い間だったけれど、同じ悲劇を乗り越え、確かに魂で繋がったのだ。

階下では、父とエリュガードが最後の準備をしていた。エリュガードは、父の消耗しきった様子を心配そうに見つめていた。

「親父さん…本当に大丈夫か? 少し休んだ方が…」

「平気だ」父は短く答えた。「お前こそ、ありがとうな、エリュガード。お前の洞察力がなければ、俺達はもっと早くに奴の罠に落ちていたかもしれん。…これからも、シャーナとメアリーを、頼む」

「当たり前だろ」

エリュガードはぶっきらぼうにそう言うと、顔を背けた。彼の耳が少し赤くなっているのを、私は見逃さなかった。

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