05
父の言葉が、悪魔の嘲笑によって打ち砕かれる。談話室の豪奢な調度品が、まるで悪夢の一場面のように歪んで見えた。偽りの公爵――その正体である悪魔の体から立ち昇る黒い瘴気は、見る者の生存本能を直接削り取るような、冒涜的な圧力を放っていた。その瞳に宿る紅蓮の光は、地獄の業火そのものだ。
「き、さま…! ハーヴェスト殿下に何をした! いつからだ! いつから殿下を…!」
父、ケインの震える声は、怒りよりも深い絶望に染まっていた。師を、友を、目の前で得体の知れない何かに成り代わられていたという事実。その途方もない罪悪感と無力感が、彼の肩に重くのしかかっていた。
悪魔は、まるで極上の芝居を鑑賞するように、うっとりと父の苦悩を眺めている。
「いつから、だと? フン、愚問だな。貴様がこの街に戻ってくる、ずっと前からよ。奴はな、ケイン。お前のことをずっと探していた。弟子であり、唯一無二の友であったお前のことをな。"魔女"の手から世界を、そして何より"魔女"の血を引く我が娘を救うために、お前の力が必要だと信じて疑わなかった。実に、哀れな男よ」
悪魔は、隣で震えるエルザの顎を乱暴に掴み、くいと持ち上げた。エルザのサファイアのような瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「お、お父様を…返して…!」
「返す? ククク…もう喰った。魂の髄まで、な。だが、この娘の魂はまだだ。最高純度の"器"だからな。我が主…偉大なる"魔女"が降臨なされるための、最後の贄。その魂を穢し、絶望の中で喰らうのが、我に与えられた至上の悦びよ!」
その言葉が、父の心の最後の箍を弾き飛ばした。
「――黙れ、外道が」
父の纏う空気が、変わった。村の穏やかな父親の仮面が剥がれ落ち、辺境で名を馳せた"狩人"の顔が姿を現す。その眼光は、悪魔の業火を凍らせるほどの、絶対零度の殺意に満ちていた。
「シャーナ、メアリー、エリュガード! 俺から離れるな! エルザ嬢もこちらへ!」
父の号令一下、私達は彼の背後へと駆け寄る。エリュガードは、懐から猟師用のナイフを抜き放ち、警戒態勢を取った。しかし、そんなものが悪魔に通用するはずもない。
「ホォ…? やる気か、人間。この我を相手に。面白い。存分に足掻いてみせよ。貴様の絶望が、この娘の魂をより一層美味くする!」
悪魔が指を鳴らすと、屋敷中の家具が生き物のように動き出し、私達に襲いかかってきた。椅子が、テーブルが、本棚が、牙を剥く獣と化す。
「させるかァッ!」
父が右手を前に突き出す。詠唱はない。ただ、圧倒的な意志の力だけで、彼の前に不可視の障壁が展開された。家具の猛攻が、見えない壁に阻まれて激しい音を立てる。しかし、父の額にはたちまち汗が滲んだ。悪魔の力は、あまりに強大すぎた。
「ケイン! 魔法だけが能じゃねえだろう!」
エリュガードが叫ぶ。その言葉に、父はハッと我に返った。そうだ、彼は魔法使いである前に、狩人なのだ。
「すまんな、エリュガード! シャーナ、メアリーを頼む!」
父は障壁の維持を解くと同時に、床を蹴った。悪魔が操る家具の隙間を、まるで流れる水のようにすり抜けていく。その動きは、もはや人間のそれではない。長年の経験によって磨き上げられた、獣を狩るための体捌き。
「小賢しい!」
悪魔が腕を振るうと、黒い瘴気が鞭となって父を襲う。しかし、父はそれを最小限の動きで躱し、距離を詰めていく。懐に潜り込みさえすれば、勝機はある。悪魔自身も、この肉体が元はただの人間であることを知っているはずだ。
父は、ダイニングテーブルの下を滑り込み、悪魔の死角へと回り込んだ。そして、腰に下げていた狩猟刀を抜き放ち、アキレス腱めがけて閃光のような一撃を放つ。
「グッ…!?」
悪魔が、初めて苦悶の声を上げた。肉体を乗っ取っていても、物理的な損傷は避けられない。体勢を崩した悪魔に、父は追撃の手を緩めない。心臓、喉、眉間。人体の急所を的確に、かつ無慈悲に狙い続ける。
「この…虫ケラがァァァ!!!」
逆上した悪魔が、周囲一帯に衝撃波を放った。私達は壁まで吹き飛ばされ、父も体勢を崩して後方へ跳ぶ。だが、その顔には確かな手応えがあった。
「どうした、悪魔。その程度か? それとも、師匠の体を使いこなせていないだけか?」
父の挑発に、悪魔の理性が焼き切れた。
「黙れ黙れ黙れェ! 人間風情が、我を語るなァ!」
悪魔の体から、さらに濃密な瘴気が噴き出す。もはや公爵の面影はなく、その姿は異形の怪物へと変貌しつつあった。鋭い爪、山羊のような捻じくれた角、そして背中からは、蝙蝠のような禍々しい翼が生え始めた。
「まずい…! あいつ、完全に肉体を支配する気だ!」
父の顔に焦りの色が浮かぶ。完全に悪魔の姿となれば、物理攻撃も通じなくなるかもしれない。そうなれば万事休すだ。
「決める…!」
父は覚悟を決めた。懐から、銀に輝く十字架を取り出す。それは、神聖な魔力を帯びた、対魔族用の切り札だった。しかし、これを使うには、全神経を集中させる必要がある。ほんの一瞬、無防備になる。
父が悪魔の隙を窺い、全魔力を十字架に込めようとした、まさにその刹那だった。
「――ヒッ!」
悲鳴は、メアリーのものだった。
悪魔の姿が、一瞬でメアリーの背後に移動していた。その長い爪が、メアリーの細い首筋に突きつけられている。
「動くな、ケイン」
悪魔の声は、先ほどまでの激情が嘘のように、冷え切っていた。
「……メアリーッ!」
父の動きが、完全に止まった。その顔から血の気が引き、狩人としての鋭い光が消え失せ、ただ娘の身を案じる父親の顔に戻っていた。
「おのれ…! 卑怯だぞ!」
エリュガードが怒りに震えるが、下手に動けない。
「卑怯? ククク…これが我らのやり方よ。最も効果的な手段を選ぶ。それだけのことだ」
悪魔は、メアリーの耳元で囁いた。「良い匂いがするなァ、小娘。恐怖に染まった魂の匂いだ。姉も美味そうだが、まずはお前から喰ってやろうか?」
「いやあああ! お父さあん!」
メアリーが泣き叫ぶ。その声が、父の心を抉った。武器を捨て、両手を上げる。完全な降伏の意思表示だった。
「分かった…! 娘には手を出すな。俺の命でよければ、くれてやる。だから、その子を…!」
「命乞いか? つまらんな。だが、いいだろう。まずはその忌々しい十字架を捨てろ。そして、お前が持つ"鍵"…あの羊皮紙をこちらへ渡せ」
絶望的な状況。誰もが、もう終わりだと思った。父が、ゆっくりと懐の羊皮紙に手をかけた。私達の未来が、世界そのものの運命が、今、悪魔の手に渡ろうとしていた。
その、あまりに残酷な静寂の中で。
父は、ふと、何かを思い出したように、天を仰いだ。そして、掠れた、震える声で、歌い始めた。
「……ねむれ…ねむれ…わが子よ…」