04
九日目の夜。
屋敷の空気は、鉛のように重かった。
ドッペルゲンガーの遺品から見つかった二つの手がかり。『ヤツはニセモノ カギはケイン』という警告と、万年筆に封じられた『ザック・ハーヴェスト』という名前。
これらは、何を意味するのか。
父さんは、自室にこもって考え込んでいた。公爵から受け取った羊皮紙の暗号と、ドッペルゲンガーの警告。二つの情報が、彼の頭の中で矛盾したまま渦巻いているようだった。
私は、心配になって父さんの部屋を訪ねた。
「お父さん…」
「シャーナか。どうした?」
父さんの目は、ひどく淀んでいた。親としての気遣いではなく、一つの巨大な謎に囚われた男の目だった。
「大丈夫…じゃないよね」
「…ああ」
父さんは、力なく笑った。「何もかもが、分からん。殿下は、"魔女"を封じるための秘宝だと言った。だが、ドッペルゲンガーは、俺に警告を残した。そして、奴の遺品には殿下の名前が…。まるで、殿下自身が危険だとでも言うように…」
その言葉に、私はエリュガードの忠告を思い出した。『食事を食わねえ』『父親の目じゃねえ』。そして、私自身が感じていた、公爵に対するほんの些細な違和感。
彼は、娘であるエルザを名前で呼ばず、いつも「娘」と呼ぶ。
彼は、父との昔話をする時、微妙に事実と違うことを言うことがあった。父は昔の仲間への情からか、それを指摘しなかったが。
彼は、「魔女」という言葉に、異常なまでの憎悪を剥き出しにする。まるで、個人的な怨恨でもあるかのように。
点と点が、繋がり始める。ドッペルゲンガーは、敵だった。だが、彼が本当に警告したかった相手は、"魔女"ではなかったとしたら?
「お父さん」
私は、意を決して言った。「ドッペルゲンガーが残した警告文…『ヤツはニセモノ』っていうのは、ドッペルゲンガー自身のことを指してるんじゃなくて…」
「……」
「今、私達と一緒にいる、ハーヴェスト公爵殿下のことだとしたら?」
父さんの顔から、サッと血の気が引いた。彼は私の両肩を掴んだ。その力は、恐怖に震えていた。
「馬鹿なことを言うな、シャーナ。殿下は、俺の命の恩人であり、かつての師だぞ。それに、エルザ嬢もいらっしゃる。父親が偽物だなどと…」
「でも、考えてみて。ドッペルゲンガーは、お父さんに警告を残そうとした。公爵殿下を殺して、彼になりすました。それは、公爵殿下が持っていた『何か』――お父さんに渡すはずだった『何か』を奪うためじゃなくて、お父さんを『偽の公爵』から守るためだったとしたら?」
「……!」
「そして、ドッペルゲンガーの遺品に『ザック・ハーヴェスト』の名前があった。それは、彼が『ザック・ハーヴェストは敵だ』と伝えたかったからじゃないの?」
父さんは、言葉を失っていた。私の突飛な仮説が、彼の中で無視できない可能性として芽生え始めたようだった。彼は、懐から取り出した二つのもの――本物の公爵から受け取った封筒と、ドッペルゲンガーの警告文のメモ――をテーブルに並べ、じっと見つめていた。
そして、十日目の夜が来た。
嵐の前の静けさのように、その日の夕食は穏やかに進んだ。公爵は上機嫌でワインを嗜み、私達の未来について語っていた。
「この戦いが終われば、ケイン、お前も王都に戻ってこい。お前の力が必要だ。娘たちも、エルザと共に最高の教育を受けさせよう」
その言葉は、優しさに満ちていたが、今の私には、獲物を囲い込もうとする罠のようにしか聞こえなかった。
食事が終わり、一同が暖炉のある談話室で寛いでいた、その時だった。
父さんが、静かに立ち上がった。その顔には、一切の迷いが消えていた。彼は、ゆっくりと公爵の前まで歩いていく。
「殿下」
父さんの静かな呼びかけに、公爵はにこやかに顔を上げた。「どうした、ケイン」
「長年、あなたに仕えてきました。あなたの厳しさも、優しさも、誰よりも知っているつもりです」
父さんは、一呼吸置いた。そして、凍てつくような、しかし確信に満ちた声で、言い放った。
「お前は、さては…公爵殿下じゃねえな?」
その瞬間、談話室の空気が凍った。メアリーとエルザが息を呑み、エリュガードが戦闘態勢に入るのが分かった。
公爵の顔から、笑みが消えた。
いや、消えたのではない。その形を変えたのだ。人間の浮かべるそれではない、歪で、底知れない愉悦に満ちた笑みへと。
「クク…ククク…。アハハハハハハ!」
甲高い、耳障りな笑い声が部屋に響き渡る。公爵の姿が、陽炎のように揺らめき始めた。その瞳は、もはや人間のそれではなく、燃えるような紅蓮の光を宿していた。
「気づくのが遅すぎたなァ、ケイン! 十日間もくれてやったというのに! あの役立たずのドッペルゲンガーが、余計な置き土産を残したか!」
声色も、口調も、もはやハーヴェスト公爵のものではなかった。それは、地の底から響くような、冒涜的な響きを帯びていた。
「き、さま…! いったい何者だ!」
父さんが叫ぶ。
偽物の公爵――その悪魔は、心底楽しそうに唇を舐めずりした。
「我がか? 我は、"魔女"が憎くてたまらない、ただの悪魔よ」
彼は、絶望するエルザを一瞥した。
「この娘の魂は、極上の味がする。"魔女"の血を引く、最後の器だからなァ。それを手に入れるためならば、公爵の一人や二人、喜んで喰らってやるとも」
悪魔の体から、黒い瘴気が立ち上る。重厚だったはずの屋敷が、まるで張り子のように軋み始めた。圧倒的な力の差。私達は、まんまと悪魔の巣に誘い込まれたのだ。
「そしてケイン。お前が持つ、その古びた羊皮紙…。それこそ、我が主が探し求める、この世界を絶望に染めるための、最後の鍵よ」
悪魔は、ゆっくりとこちらに手を伸ばす。その指先が、空間を歪ませていく。
父が私達の前に立ち、命を賭して時間を稼ごうとするのが分かった。しかし、もう逃げ場はない。
ささやかな幸せを願っただけの私達の日常は、こうして、本物の絶望によって完全に喰らい尽くされようとしていた。私の前世の記憶も、父の覚悟も、この絶対的な存在の前では、あまりに無力だった。