03
公爵は、まるで埃を払うかのように軽く肩をすくめた。「用水路で見つかったのは、私のドッペルゲンガーだ。敵を欺くには、まず味方から。そして、時には己の死さえ利用する。お前も知っているはずだ、ケイン。それが"奴ら"と渡り合うための常套手段だと」
その言葉は、あまりに現実離れしていたが、今まさに命を救われたという事実の前では、どんな突飛な話も真実味を帯びてしまう。公爵の隣で、娘のエルザが安堵と混乱の入り混じった涙を流していた。
「お父様…! ご無事で…!」
「心配をかけたな、エルザ」
公爵は娘の頭を一度だけ撫でると、鋭い視線を私達に向けた。「ここはもう安全ではない。敵は、この隠れ家さえも嗅ぎつけた。すぐに移動する。私のセーフハウスへ」
有無を言わさぬその言葉に、私達は頷くしかなかった。こうして、十四歳の私が体験した、奇妙で、かけがえのない十日間の謎解きの日々が幕を開けたのである。
*****
公爵のセーフハウスは、モハラ市街の喧騒から離れた、古い貴族街の一角にある屋敷だった。蔦の絡まる石壁と重厚な鉄の門は、外界からの侵入を拒むように固く閉ざされている。しかし、一歩足を踏み入れると、そこには手入れの行き届いた庭園と、温かみのある調度品で満たされた、穏やかな空間が広がっていた。
「ここならば、奴らの目も届くまい。少なくとも、しばらくな」
公爵はそう言うと、私達にそれぞれ部屋を割り当てた。私とメアリー、そしてエルザは同じ階の隣り合った部屋を使うことになり、三人の間にはすぐに不思議な連帯感が芽生えた。
最初の日々は、緊張と安らぎが同居する、奇妙な時間だった。父は公爵と書斎にこもり、何時間も地図や古い文献を広げて議論を交わしていた。その横顔には、村にいた頃の穏やかさはなく、"狩人"としての鋭い光が戻っていた。
私達子供たちは、そんな大人たちの世界から少し離れた場所で、それぞれの時間を過ごした。メアリーはエルザにすっかり懐き、まるで本当の姉妹のように彼女の後をついて回った。エリュガードは、猟師の息子としての本能からか、屋敷の警備システムに興味津々で、公爵に質問攻めにしては呆れられていた。
私は、エルザと多くの時間を過ごした。彼女は、貴族の令嬢らしく淑やかでありながら、その瞳の奥には、私と同じように、何かを見通すような強い光を宿していた。そして、彼女が時折見せる高度な魔法の片鱗は、私の中の前世の記憶を刺激した。
「シャーナは、魔法に興味があるの?」
ある日の午後、庭のテラスで二人でお茶を飲んでいると、エルザが尋ねた。
「うん、少しだけ。でも、エルザみたいに上手じゃない」
「そんなことないわ。あなたの中には、とても大きな力を感じる。ただ、まだ眠っているだけ」
エルザの言葉は、私の心の奥底にある、誰にも言えない秘密を見透かしているようで、少しだけ怖かった。
食事は、いつも六人全員でダイニングテーブルを囲んだ。それは、まるで本当の家族のような光景だった。公爵は厳格な態度の奥に、時折、私達子供に向ける優しい眼差しを隠していた。特に、娘のエルザに向けるそれは、深い愛情に満ちているように見えた。
しかし、エリュガードだけは、公爵に対して警戒を解いていなかった。
「なあ、シャーナ。あの公爵様、なんだか変だぜ」
三日目の夜、部屋を訪ねてきた彼が囁いた。
「何が?」
「食事を全然食わねえんだ。いつも紅茶を飲むだけで、料理にはほとんど手をつけてない。それに、エルザさんのことを見てる目が、なんていうか…父親の目じゃねえ。獲物を見るみてえな、じっとりとした目だ」
「考えすぎよ。エリュガードは心配性なんだから」
私はそう言って笑い飛ばしたが、心のどこかで、彼の言葉が小さな棘のように引っかかっていた。エリュガードの洞察力は、獣の気配を探るのと同じように、人間の本質的な部分を捉えることがあったからだ。
*****
五日目の朝、事態は動いた。公爵が、書斎に全員を集めたのだ。テーブルの上には、一つの古びた革のトランクが置かれていた。
「これは、私のドッペルゲンガーが持っていた遺品だ。警察内部の協力者に回収させた」
公爵の言葉に、空気が張り詰める。父さんが息を呑んだ。
「奴は、一体何者だったのですか?」
「分からん。だが、敵であることは間違いない。奴らは、"魔女"に与する者たちだろう。この遺品の中に、奴らのアジトや目的を探る手がかりがあるかもしれん」
トランクの中には、ありふれた旅人の所持品が入っていた。着替え、数冊の本、安物の万年筆、そして銀の懐中時計。一見しただけでは、何も特別なものは見当たらない。
「手分けして調べよう」
父さんの提案で、私達はそれぞれの品を手に取った。私は、数冊の本をパラパラとめくってみたが、ただの風景画集と詩集だった。メアリーは着替えの匂いを嗅いで「変な匂いしないよ!」と無邪気に報告する。
エリュガードは、懐中時計を手に取り、じっと耳に当てていた。
「…おかしいな。この時計、動いてないのに、かすかに音がする」
彼は器用に裏蓋を開けると、その内側に、米粒ほどの大きさの小さな傷が、規則的に並んでいるのを見つけた。
「モールス信号か…?」
父さんが呟き、紙とペンを取ってその符号を書き写し始めた。
一方、エルザは万年筆を手に取り、その構造を調べていた。
「お父様、この万年筆、インクカートリッジが妙です。普通のガラス製ではなく、何か特殊な合金で作られているようですわ」
彼女が軽く魔力を込めると、カートリッジが淡い光を放ち、その内側に螺旋状の微細な文字が浮かび上がった。高度な魔法で封印された情報だった。
「解読できそうか?」
公爵の問いに、エルザは静かに頷いた。「時間をいただければ…」
その間、父さんは懐中時計の裏蓋にあったモールス信号の解読を終えていた。
「…ダメだ。意味のない文字列の羅列だ。『A-Z-T-H-O-T-H』…何かの固有名詞か?」
その時、私はふと、詩集のあるページに、ごく薄い鉛筆の跡で、小さな印がついていることに気がついた。それは、特定の単語の上に付けられていた。
「お父さん、これ…」
私がそのページを指さすと、父さんはハッとした顔で、先ほどの文字列と詩集を見比べた。
「そうか…アナグラムだ!」
父さんは、詩集から印のついた単語を拾い出し、並べ替えていく。そして、解読できた言葉を見て、顔をこわばらせた。
『ヤツはニセモノ カギはケイン』
部屋がしんと静まり返る。全員の視線が、父さんに注がれた。
「鍵…? 私が、鍵だというのか…?」
父さんの声が震えていた。その時、公爵がゆっくりと口を開いた。
「ケイン。お前に渡した、あの封筒だ」
喫茶店で、公爵が父さんに託した封筒。父さんはハッとして、懐からそれを取り出した。
「だが、これは殿下から…」
「ドッペルゲンガーは、私がケイン、お前に何かを渡すことまで読んでいたのかもしれん。そして、お前が持っている"それ"こそが、奴らが狙う"鍵"だと勘違いした。だから、お前への警告を残した。偽物である俺を信用するな、そしてお前自身が鍵なのだ、と」
公爵の推理は、あまりに理路整然としていた。ドッペルゲンガーは敵でありながら、組織を裏切り、父さんに警告を残そうとしていた…? 混乱する私達をよそに、公爵は父さんに封筒を開けるよう促した。
父さんが震える手で封を開けると、中から出てきたのは、一枚の羊皮紙だった。そこに書かれていたのは、暗号化された文章と、一つの紋章。
「これは…王家の紋章…?」
エリュガードが呟いた。私の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。前世の記憶が、その紋章を知っていた。それは、ヘルクの…私の夫であった国王が使っていた、古い王家の紋章だった。
「そうだ」と公爵が重々しく頷いた。「これは、六年前の"モハラ聖堂殺人事件"の真相に繋がる、唯一の手がかりだ。殺されたのは、当時の国王に仕えていた神官だった。そして、神官は死ぬ間際、王家に伝わる秘宝のありかを、この暗号に残した。その秘宝こそ、"魔女"を封印するための…」
その時、ずっと万年筆のカートリッジの解読を続けていたエルザが、か細い声を上げた。
「…解けました」
彼女の額には汗が浮かび、顔は青ざめていた。
「カートリッジに封印されていたのは…一つの名前でした」
彼女は、震える声でその名を告げた。
「"ザック・ハーヴェスト"……お父様の、名前です」