01
これは、十四歳だった私が、父さんに連れられて、妹のメアリー、そして幼馴染のエリュガードと一緒に、生まれ育った辺境の村を後にし、ツングースカ王国の大都市モハラを訪れた時の話だ。
街の喫茶店で、私達は少し背伸びをして、甘くもビターな紅茶や珈琲を味わっていた。テーブルに広げられた新聞の記事を眺めていると、ふと、ある見出しが私の目に飛び込んできた。
『未解決事件"モハラ聖堂殺人事件"――六年目の亡霊』
その不吉な響きが、私の心を鷲掴みにする。「お父さん……これ、何?」。自分でも気づかないうちに、声が潜んでいた。
「……ああ、まだ捕まってないらしいな」。父さんは気のない返事をしながら、珈琲をすする。その横顔は、この街の喧騒にまだ馴染めていないようだった。
私の潜めた声が、かえって静かな店内に緊張を走らせたのかもしれない。ふと、隣のテーブルから、重たい視線を感じた。その沈黙を破ったのは、その視線の主だった。
「ケインか? その声、やはりお前だったか」
声のした方に目を向けると、黒いシルクハットを目深に被り、漆黒のスーツに身を包んだ男の人が立っていた。コツコツと床を鳴らす革靴の音まで、どこか不機嫌に聞こえる。まだ八歳のメアリーは、その人を物怖じせずに見上げ、無邪気な声を上げた。
「パパ…あの黒いおじさん…だあれ? なんだかこわあい…」
その一言で、父さんの顔から血の気が引いた。椅子を蹴立てるように立ち上がると、声にならないほどの息を呑み、まるで王様にでも会ったかのように深々と頭を下げる。
「も、申し訳……ありません…! メアリーが大変失礼を…! 何卒ご容赦ください、ハーヴェスト公爵殿下…!」
公爵殿下…? 聞いたこともない爵位に、私とエリュガードは顔を見合わせる。父さんより、ずっと偉い人みたいだ。父さんの震える肩が、事の重大さを物語っていた。どうしよう、私達、この街から追い出されちゃうかも……。
私の不安が膨れ上がった、その時。公爵と呼ばれた男の人――ハーヴェスト殿下は、静かに、しかし有無を言わさぬ迫力で父さんを窘めた。
「ケイン。公共の場で騒ぐなと、昔から教えているはずだが?」
その低い声は、しかし、どこか懐かしむような響きを帯びていた。
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「会計は銅貨3枚分です! お客様! またのお越しを!!」
店員の軽やかな声に送られて、私達は店の外へ出た。父さんとハーヴェスト殿下の間に流れる空気は、先ほどまでの緊張が嘘のように和らいでいたが、それでも会話の内容は決して楽しいものではなかった。
「……で、お前はなぜモハラに? 王都にお前がいると聞いて、探し回ったぞ。まさか、あの忌まわしい事件から六年経った今、ようやく戻る気になったか」
「いえ、そういうわけでは…。ただ、娘たちに一度大きな世界を見せてやりたいと思いまして」
父さんの言葉を、殿下は鼻で笑った。「守るものができると、人は臆病になるものか」
その時、エリュガードが私の袖を引いて囁いた。
「なあ、シャーナ。さっきから、向かいの通りの角にいる男…ずっと俺たちを見てるぜ。ただ見てるだけじゃねえ。あの男、"狩人"の目をしてる」
彼の視線の先には、確かに帽子を目深にかぶった男が立っていた。エリュガードは村で一番の猟師の息子で、獣の気配や視線に人一倍敏感で、少し衝動的だった。しかし、彼は衝動性や敏感さ意外にもある特性を持っていた。
それは、大人にも負けない洞察力である。実際、私達はその計り知れないほどの洞察力に、何度か救われている。そして、その洞察力は、前世の私の夫にそっくりだった。この王国の前代の国王だった…私のかつての夫ヘルクに。ーーまあ、気のせいか。そう思った私は、妹の方を見る。すると、妹は、私ではなく、その公爵殿下と目が合った気がして、私は咄嗟に父さんの後ろに隠れる。
そして、父さんたちの会話はまだ続いていた。
「実は、今から20分後に仕事の約束がある。長話はできん」
ハーヴェスト殿下はそう言うと、懐から一通の封筒を取り出し、父さんに押し付けた。「これは、かつての師として、最後の頼みだ」と、真剣な眼差しで付け加えて。
父さんが息を呑んで何かを言いかけるのを、殿下は手で制した。「まさか、まだ"奴ら"を追って…?」という父さんの声は、私には聞き取れないほど小さかった。
「万が一、俺の身に何かあったら、これをこの店の主人に渡せ。そうすれば、娘のエルザに繋がる。……あの子を、頼む」
「いいか、ケイン。これはただの忠告だ。――"魔女"には気をつけろ。奴らは、もう動き出している」
そう言い残し、彼は人混みの中へ消えていった。エリュガードが言っていた男の姿も、いつの間にか見えなくなっていた。
その言葉の意味を私達が知ることになったのは、それから三日後のことだった。ザック・ハーヴェスト公爵殿下は、モハラ聖堂の近くの用水路で、冷たくなった姿で見つかった。
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「――"六年前の殺人鬼"、再びか――」
宿屋で広げた新聞の朝刊の一面に躍る衝撃的な見出しに、私達は言葉を失った。ハーヴェスト殿下の死は、事故ではなく殺人事件として報じられていた。
「……帰ろう。すぐに村へ」
父さんが絞り出すように言った。その顔には、後悔と恐怖が色濃く浮かんでいた。誰もがその言葉に頷き、重い空気の中で荷造りを始めた、その時だった。宿の扉が、控えめにノックされた。
父さんが訝しげに扉を開けると、そこには涼しげなワンピースを羽織った、私と同じくらいの年の少女が立っていた。
「あの…失礼します。ケイン様でいらっしゃいますか?」
凛とした、しかしどこか震える声。彼女は固く拳を握りしめている。
「父がお世話になりました。私、ザック・ハーヴェストの娘、エルザと申します」
父さんがハッとして、懐に仕舞ったままの封筒に無意識に手をやった。
「どうして、ここが…」
「父は、あなたのことをずっと気にかけていました。モハラでの滞在先も調べていたようです。父の遺品の中に、あなたの宿の名が…」
エルザと名乗った少女は、懇願するように私達を見つめた。
「父のことで…どうしてもお話したいことがあります。人目がある場所では…。父が信頼していた場所へご案内させてください」
その一言に、私達は為されるがまま、彼女の後についていった。案内されたのは、三日前に殿下と会った、あの喫茶店だった。店の主人はエルザを見ると深く頷き、黙って奥へと続く扉を示した。
厨房の奥には書斎のような休憩部屋があり、その中央に、場違いなほど大きな古時計がぽつんと鎮座していた。その古びた美しさに私達が目を奪われていると、エルザは私達に向き直ってこう言った。
「……これから、信じがたいものをお見せします。どうか、心を強く持ってください」
その言葉に、父さんが絞り出すような、少し強張った声で答えた。
「お嬢さん。お父上が亡くなられたことは心からお悔やみ申し上げる。だが、私達はもう関われない。見ての通り、私には守るべき子供たちがいる。これ以上、危険に首を突っ込むのはごめんだ」
「お気持ちは分かります。……でも、もう手遅れかもしれません」エルザは悲しそうに顔を歪めた。「父は、あなた方に会った直後に殺されました。犯人は、きっと見ていたのです。父とあなた方の接触を。だから…犯人は、あなた達が父から何か重要な"鍵"を託されたと思っているはずです」
ひりつくような空気が流れる。エリュガードが言っていた、あの"狩人"の視線。ハーヴェスト殿下の最後の言葉。全てが一本の線で繋がっていく感覚に、背筋が凍った。
「俺達が殺されると? それをどう信じろと?」父さんの声には、守るべきものを持つ者の切実さが滲んでいた。
しかし、エルザはその問いには答えなかった。すっと古時計に向き直ると、私が瞬きをする間に、彼女は呪文を唱え終えていた。
「解錠魔法" ロストエデン・クロニクル"」
放たれたのは、美しくも、身の竦むような冷たい魔力の塊。時計の扉が、静かに開いた。あまりに高度な魔法と、彼女の才能に私達が驚愕する中、彼女は古びた時計の中を指し示し、サファイアのように青みがかった瞳で私達を見た。
「"真実"は、この先にあります」
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