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『異世界転生でアイドル目指します。』  作者: 星空りん
第三章 声にならない願い
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69 夜を裂いた願い

 ぱち、と光が一つ弾けた。

 手首の枷が緩む。

 マルシェの指が自由になる。

 彼女はためらわず、セレスティアの手を握った。

 細い指。冷たいのに——あたたかい。


「行こう」


 マルシェの口がそう言った。

 セレスティアは頷いた。


 衛兵が迫る。

 刃が光る。

 術者の呪文が、空気を重くする。


 ——夜の女神。

 ——ノクティア。

 ——わたしたちを、包んで。


 風が反転した。

 塔の四方から吹き寄せた風が、壇の上で渦を作る。

 雪のない冬の風が、黒い絹の布みたいに二人の肩にかけられ、刃の軌道をやわらかく逸らした。

 術式の糸が、湿った空気に絡め取られて重くなり、詠唱が一呼吸遅れる。


「追え! 封結界を閉じろ!」


 評議官の怒号が、広場の石を震わせた。

 聖都を覆う封結界——聖都から“闇”が出ていかないように、あるいは“闇”が入ってこないように、二重三重に張り巡らされた法の膜。

 それは、本来なら、どんな「夜」でも打ち破れないはずの厳牢。


 けれど——。


 セレスティアは、知っていた。

 彼女の内側にいる「夜」は、結界の外に疎まれる何かではない。

 結界の設計図の隙間に、最初から書き込まれていた「余白」だ。

 人の祈りがほんの少しだけ呼吸できるように刻まれた、小さな余白。

 そこへ触れる鍵は、命令では届かない。

 触れられるのは、祈りだけ。


 石段を駆け降りる。

 観衆が割れる。

 罵声、悲鳴、呼吸の寄せ波。

 誰かが手を伸ばす。誰かが石を投げる。その小石は風に押し返され、塔の影をころころと転がるだけだった。


 回廊の階下、北に向かう裏門へ。

 そこは物流の通用口。儀礼の行列が使う立派な広門ではない。

 小さくて古い。だからこそ、目を配る者が少ない。


「止まれ!」


 門番が槍を構えた。

 セレスティアは立ち止まらない。

 その代わりに、息を吸う。

 胸の奥の小さな灯に手をかざすみたいに、そっと言葉を置く。


「——ごめんなさい。今だけ、目を閉じて」


 槍の穂先に張り付いていた寒気が、ふっと溶けた。

 門番の瞼が一瞬だけ重くなる。

 眠らせたのではない。ただ、夜の気配で、昼の目を柔らかく包んだ。

 彼は自分が瞬きをしたことにすら気づかず、槍先を下ろしかけ、それから何かを思い出したように慌てて構え直した。

 ——その一拍の余白で、二人は門を抜ける。


 外へ出た瞬間、風は牙を剥いた。

 聖都を囲む高い壁の外側では、冬の嵐が待っていた。

 黒い雲が低く走り、空は昼なのに夜の色を深めている。

 砂混じりの雪が頬を叩き、視界に針をまく。


(行ける——)


 確信ではない。

 でも、行くしかない。

 マルシェの手が震えている。冷えと、恐怖と、そして——笑い。

 彼女は確かに笑っていた。

 走りながら、泣きながら、笑っていた。


「ねえ、セレスティア」


 風に千切れながら、マルシェの声が届く。


「いつかさ、今日のことを、笑って話そうね」


「うん——」


 声が掠れる。

 けれど、言えた。

 約束は、祈りと同じだ。

 いちど言葉にしたら、きっとどこかへ届いてしまう。


 追っ手の足音が、壁の内側から湧き上がる。

 鐘が鳴り、犬が吠え、空に印が描かれる。

 封結界が閉じる。

 視界の縁に、淡い金の膜が走る。

 行く手を遮る光の壁——聖都の境界。


 セレスティアは立ち止まらない。

 結界に向かって右手を差し出す。

 今度は壊さない。

 祈る。

 結び目をほどく祈り。

 誰かの苦しみに触れたときだけ鳴る、小さな鍵の音。


(——ここにも、余白がある)


 見えないはずの文字が、見えた。

 設計者の手が、最後にためらって残した小さな余白。

 法を強くしすぎないように、息ができる隙間。

 人の間でしか見つけられない種類の、やさしさの跡。


 指先で、その余白の端をそっと摘む。

 ノクティアが、内側から添える。

 夜の名を持つ声が、低く優しく囁く。


 ——ありがとう。


 膜が、音もなくほどけた。

 縦に一筋、暗い水のような通路が現れ、雪と風の渦がそこへ吸い込まれる。

 光の壁の内と外が、ひと呼吸だけ混ざり合い、次の瞬間にはまた別々の世界に戻る——その刹那。


「今!」


 二人は駆けた。

 風に背を押され、足元の雪が舞い上がる。

 外へ。

 聖都の外へ。

 命令の祈りの外へ。


 背後で、封結界がばちんと音を立てて閉じた。

 追っ手の叫びが遠ざかる。

 鐘の音が壁に反射して、薄く、遠くなる。


 立ち止まったとたん、膝が笑った。

 息が喉で引っかかる。

 マルシェが肩で息をし、笑いながら泣いて、セレスティアに抱きついた。


「生きてる——!」


 耳元で、熱い言葉。

 セレスティアも笑っていた。

 涙と雪で濡れた頬に、風が冷たすぎる。

 けれど、その冷たささえ、今は愛おしい。


「行こう。遠くへ。夜が隠してくれるうちに」


 ノクティアが、胸の中で頷く。

 闇は、隠すためだけにあるのではない。

 種が芽を出すまでのあいだ、守るためにある。


 雪原の向こう、森が黒い縁取りになって波打っている。

 そこまで行けば、追っ手の足は鈍る。

 野営地の火の跡も、焚き木のありかも、二人はよく知っている——わけではない。

 けれど、知っていく。

 祈りが、道の名を教えてくれる。


 最初の一歩を踏み出す。

 そのとき——背後から、空を裂くような音がした。


 振り向けば、塔の天辺に黒雲が巻き、稲妻めいた白い線がひとすじ走って消えた。

 宗政評議会の中で、誰かが叫び、誰かが祈り、誰かが剣を抜いた。

 聖都の心臓部が騒がしい。


 セレスティアは、目を閉じた。

 胸の奥で、そっと言う。


「——神さま。置いてきたものを、いつか取りに戻ります。

 でも今は、どうか。追ってくる人の“憎しみ”だけ、少しだけ静めてください。

 それで、十分です」


 風が、頷いた。

 夜が、昼の中で、もう一度だけ呼吸した。


 マルシェの手を握り直す。

 二人は、雪の道を走り出した。

 後ろに長く続く足跡は、すぐに風に消される。

 消されても構わない。

 足跡は、祈りの中に残るから。


 どこか遠くで、歌が聴こえた気がした。

 いつかの村で、冷たい朝に火を起こしながら口ずさんだ、あの名もない歌。

 セレスティアは小さな声で重ねる。

 歌は、誰かのためにある。

 そして今は、自分のためにも。


 夜の女神が、胸の中で微笑む。


 ——行こう。

 ——異端と呼ばれる祈りを、希望と呼ばれる光へ。


◇ ◇ ◇


 森に入ると、風の音は枝々に割られて、世界の音が細かくなった。

 足元の雪は浅く、ところどころ土が覗いている。冬の終わりかけの匂い。

 息が白く、指が痺れる。

 それでも、走れる。

 走ることに、理由がある。


 やがて、古い倒木の陰に、風よけになりそうな窪みを見つけた。

 そこに身を寄せると、二人は同時に座り込み、しばらくは言葉もなく呼吸だけを交わした。


 マルシェが先に口を開いた。


「……ほんとうに、割ったんだね。あれ」


「うん」


「痛く、なかった?」


「少し。でも、怖くはなかった」


「そっか」


 彼女は笑った。軽く、肩で。

 そして、少し真面目な顔になる。


「ねえ、セレスティア。わたし、信じてるって言ったよね」


「うん。ずっと、力になってくれた」


「ううん、それもだけど……もうひとつ。

 わたし、あなたが——」


 言いかけて、マルシェは首をかしげ、言葉を探すように空を見た。

 枝の間から見える空は厚く、冬と春の境を誰かが指でなぞったみたいな曖昧な灰色だった。


「あなたが“わたしたちの夜”なんじゃないかって、ずっと思ってた」


「……夜?」


「うん。怖いものじゃない夜。休むための、包むための、祈るための夜。

 あなたの中にあるそれは、きっと誰かの中にも同じようにあって、

 名前をつけられずに見過ごされてきただけで……」


 彼女は言葉を切り、頬に手を当てて笑う。


「上手く言えないや。ごめん」


「ううん。——分かる気がする」


 セレスティアは胸の中に手を当てた。

 鼓動の上で、ノクティアが静かに頷く。

 わたしはわたしの夜。

 夜は、だれのものでもなく、だれのものでもある。


 風が窪みの上を撫で、枝が鳴った。

 遠くで、犬の吠える声。

 追っ手は、まだ諦めていない。


「行こう」


 立ち上がる。

 足元の雪が小さく鳴る。

 マルシェが頷き、二人で森の深い方へと歩き出す。


 この夜は、長い旅の一歩目だ。

 宗政評議会は彼女を「断罪すべき聖女」と呼ぶだろう。

 人々はやがて、彼女を「ノクティアの化身」と呼ぶかもしれない。

 けれどセレスティアは知っている。

 祈りは、呼び名のためにあるのではないことを。


 ——誰かの“怖さ”を、少しだけ軽くするために。

 ——自分の“夜”を、誰かの“灯り”と分け合うために。


 雪の匂いに混じって、どこかで焚き火のにおいがした。

 森の向こうに、小さな人里があるのだろう。

 そこにも、祈れない夜がある。

 そこにも、名前を持たない痛みがある。


 セレスティアは歩調を少しだけ速めた。

 夜が、背中を押す。

 祈りが、足元の道を柔らかくする。

 マルシェの手はまだ冷たい。

 だが、その冷たさは、もう怖くない。


 息を吐く。

 白い霧が、すぐに風にほどけて消える。

 消えても、祈りは残る。

 胸の中に。

 ふたりの間に。

 やがて、誰かのあしたに。


 ——行こう。

 夜とともに。

 希望を、探しに。


――第三章『声にならない願い』、完。

 ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

 第三章は、セレスティアとマルシェの小さな旅立ちで幕を閉じました。


 雪の道に残した足跡はすぐに消えてしまうけれど、祈りのようにどこかに残っていく――そんな気持ちで書いたお話です。


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