69 夜を裂いた願い
ぱち、と光が一つ弾けた。
手首の枷が緩む。
マルシェの指が自由になる。
彼女はためらわず、セレスティアの手を握った。
細い指。冷たいのに——あたたかい。
「行こう」
マルシェの口がそう言った。
セレスティアは頷いた。
衛兵が迫る。
刃が光る。
術者の呪文が、空気を重くする。
——夜の女神。
——ノクティア。
——わたしたちを、包んで。
風が反転した。
塔の四方から吹き寄せた風が、壇の上で渦を作る。
雪のない冬の風が、黒い絹の布みたいに二人の肩にかけられ、刃の軌道をやわらかく逸らした。
術式の糸が、湿った空気に絡め取られて重くなり、詠唱が一呼吸遅れる。
「追え! 封結界を閉じろ!」
評議官の怒号が、広場の石を震わせた。
聖都を覆う封結界——聖都から“闇”が出ていかないように、あるいは“闇”が入ってこないように、二重三重に張り巡らされた法の膜。
それは、本来なら、どんな「夜」でも打ち破れないはずの厳牢。
けれど——。
セレスティアは、知っていた。
彼女の内側にいる「夜」は、結界の外に疎まれる何かではない。
結界の設計図の隙間に、最初から書き込まれていた「余白」だ。
人の祈りがほんの少しだけ呼吸できるように刻まれた、小さな余白。
そこへ触れる鍵は、命令では届かない。
触れられるのは、祈りだけ。
石段を駆け降りる。
観衆が割れる。
罵声、悲鳴、呼吸の寄せ波。
誰かが手を伸ばす。誰かが石を投げる。その小石は風に押し返され、塔の影をころころと転がるだけだった。
回廊の階下、北に向かう裏門へ。
そこは物流の通用口。儀礼の行列が使う立派な広門ではない。
小さくて古い。だからこそ、目を配る者が少ない。
「止まれ!」
門番が槍を構えた。
セレスティアは立ち止まらない。
その代わりに、息を吸う。
胸の奥の小さな灯に手をかざすみたいに、そっと言葉を置く。
「——ごめんなさい。今だけ、目を閉じて」
槍の穂先に張り付いていた寒気が、ふっと溶けた。
門番の瞼が一瞬だけ重くなる。
眠らせたのではない。ただ、夜の気配で、昼の目を柔らかく包んだ。
彼は自分が瞬きをしたことにすら気づかず、槍先を下ろしかけ、それから何かを思い出したように慌てて構え直した。
——その一拍の余白で、二人は門を抜ける。
外へ出た瞬間、風は牙を剥いた。
聖都を囲む高い壁の外側では、冬の嵐が待っていた。
黒い雲が低く走り、空は昼なのに夜の色を深めている。
砂混じりの雪が頬を叩き、視界に針をまく。
(行ける——)
確信ではない。
でも、行くしかない。
マルシェの手が震えている。冷えと、恐怖と、そして——笑い。
彼女は確かに笑っていた。
走りながら、泣きながら、笑っていた。
「ねえ、セレスティア」
風に千切れながら、マルシェの声が届く。
「いつかさ、今日のことを、笑って話そうね」
「うん——」
声が掠れる。
けれど、言えた。
約束は、祈りと同じだ。
いちど言葉にしたら、きっとどこかへ届いてしまう。
追っ手の足音が、壁の内側から湧き上がる。
鐘が鳴り、犬が吠え、空に印が描かれる。
封結界が閉じる。
視界の縁に、淡い金の膜が走る。
行く手を遮る光の壁——聖都の境界。
セレスティアは立ち止まらない。
結界に向かって右手を差し出す。
今度は壊さない。
祈る。
結び目をほどく祈り。
誰かの苦しみに触れたときだけ鳴る、小さな鍵の音。
(——ここにも、余白がある)
見えないはずの文字が、見えた。
設計者の手が、最後にためらって残した小さな余白。
法を強くしすぎないように、息ができる隙間。
人の間でしか見つけられない種類の、やさしさの跡。
指先で、その余白の端をそっと摘む。
ノクティアが、内側から添える。
夜の名を持つ声が、低く優しく囁く。
——ありがとう。
膜が、音もなくほどけた。
縦に一筋、暗い水のような通路が現れ、雪と風の渦がそこへ吸い込まれる。
光の壁の内と外が、ひと呼吸だけ混ざり合い、次の瞬間にはまた別々の世界に戻る——その刹那。
「今!」
二人は駆けた。
風に背を押され、足元の雪が舞い上がる。
外へ。
聖都の外へ。
命令の祈りの外へ。
背後で、封結界がばちんと音を立てて閉じた。
追っ手の叫びが遠ざかる。
鐘の音が壁に反射して、薄く、遠くなる。
立ち止まったとたん、膝が笑った。
息が喉で引っかかる。
マルシェが肩で息をし、笑いながら泣いて、セレスティアに抱きついた。
「生きてる——!」
耳元で、熱い言葉。
セレスティアも笑っていた。
涙と雪で濡れた頬に、風が冷たすぎる。
けれど、その冷たささえ、今は愛おしい。
「行こう。遠くへ。夜が隠してくれるうちに」
ノクティアが、胸の中で頷く。
闇は、隠すためだけにあるのではない。
種が芽を出すまでのあいだ、守るためにある。
雪原の向こう、森が黒い縁取りになって波打っている。
そこまで行けば、追っ手の足は鈍る。
野営地の火の跡も、焚き木のありかも、二人はよく知っている——わけではない。
けれど、知っていく。
祈りが、道の名を教えてくれる。
最初の一歩を踏み出す。
そのとき——背後から、空を裂くような音がした。
振り向けば、塔の天辺に黒雲が巻き、稲妻めいた白い線がひとすじ走って消えた。
宗政評議会の中で、誰かが叫び、誰かが祈り、誰かが剣を抜いた。
聖都の心臓部が騒がしい。
セレスティアは、目を閉じた。
胸の奥で、そっと言う。
「——神さま。置いてきたものを、いつか取りに戻ります。
でも今は、どうか。追ってくる人の“憎しみ”だけ、少しだけ静めてください。
それで、十分です」
風が、頷いた。
夜が、昼の中で、もう一度だけ呼吸した。
マルシェの手を握り直す。
二人は、雪の道を走り出した。
後ろに長く続く足跡は、すぐに風に消される。
消されても構わない。
足跡は、祈りの中に残るから。
どこか遠くで、歌が聴こえた気がした。
いつかの村で、冷たい朝に火を起こしながら口ずさんだ、あの名もない歌。
セレスティアは小さな声で重ねる。
歌は、誰かのためにある。
そして今は、自分のためにも。
夜の女神が、胸の中で微笑む。
——行こう。
——異端と呼ばれる祈りを、希望と呼ばれる光へ。
◇ ◇ ◇
森に入ると、風の音は枝々に割られて、世界の音が細かくなった。
足元の雪は浅く、ところどころ土が覗いている。冬の終わりかけの匂い。
息が白く、指が痺れる。
それでも、走れる。
走ることに、理由がある。
やがて、古い倒木の陰に、風よけになりそうな窪みを見つけた。
そこに身を寄せると、二人は同時に座り込み、しばらくは言葉もなく呼吸だけを交わした。
マルシェが先に口を開いた。
「……ほんとうに、割ったんだね。あれ」
「うん」
「痛く、なかった?」
「少し。でも、怖くはなかった」
「そっか」
彼女は笑った。軽く、肩で。
そして、少し真面目な顔になる。
「ねえ、セレスティア。わたし、信じてるって言ったよね」
「うん。ずっと、力になってくれた」
「ううん、それもだけど……もうひとつ。
わたし、あなたが——」
言いかけて、マルシェは首をかしげ、言葉を探すように空を見た。
枝の間から見える空は厚く、冬と春の境を誰かが指でなぞったみたいな曖昧な灰色だった。
「あなたが“わたしたちの夜”なんじゃないかって、ずっと思ってた」
「……夜?」
「うん。怖いものじゃない夜。休むための、包むための、祈るための夜。
あなたの中にあるそれは、きっと誰かの中にも同じようにあって、
名前をつけられずに見過ごされてきただけで……」
彼女は言葉を切り、頬に手を当てて笑う。
「上手く言えないや。ごめん」
「ううん。——分かる気がする」
セレスティアは胸の中に手を当てた。
鼓動の上で、ノクティアが静かに頷く。
わたしはわたしの夜。
夜は、だれのものでもなく、だれのものでもある。
風が窪みの上を撫で、枝が鳴った。
遠くで、犬の吠える声。
追っ手は、まだ諦めていない。
「行こう」
立ち上がる。
足元の雪が小さく鳴る。
マルシェが頷き、二人で森の深い方へと歩き出す。
この夜は、長い旅の一歩目だ。
宗政評議会は彼女を「断罪すべき聖女」と呼ぶだろう。
人々はやがて、彼女を「ノクティアの化身」と呼ぶかもしれない。
けれどセレスティアは知っている。
祈りは、呼び名のためにあるのではないことを。
——誰かの“怖さ”を、少しだけ軽くするために。
——自分の“夜”を、誰かの“灯り”と分け合うために。
雪の匂いに混じって、どこかで焚き火のにおいがした。
森の向こうに、小さな人里があるのだろう。
そこにも、祈れない夜がある。
そこにも、名前を持たない痛みがある。
セレスティアは歩調を少しだけ速めた。
夜が、背中を押す。
祈りが、足元の道を柔らかくする。
マルシェの手はまだ冷たい。
だが、その冷たさは、もう怖くない。
息を吐く。
白い霧が、すぐに風にほどけて消える。
消えても、祈りは残る。
胸の中に。
ふたりの間に。
やがて、誰かのあしたに。
——行こう。
夜とともに。
希望を、探しに。
――第三章『声にならない願い』、完。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第三章は、セレスティアとマルシェの小さな旅立ちで幕を閉じました。
雪の道に残した足跡はすぐに消えてしまうけれど、祈りのようにどこかに残っていく――そんな気持ちで書いたお話です。
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