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『異世界転生でアイドル目指します。』  作者: 星空りん
第三章 声にならない願い
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68 夜を裂く声、覚醒の祈り

 冷たい呪文の言葉が、首の輪を撫でる。

 セレスティアの体が、す、と軽くなった。

 意志の入る余地が、指先から、足先から、そぎ落とされていく。

 息を吸いたくても、吸うタイミングすら術式に管理され、肺が自分でないみたいに勝手に膨らみ、鎖骨の下で機械のように収縮する。


(やめて。お願い。お願いだから——)


 喉は開くのに、声にならない。

 代わりに聖環が答える。静かに、確実に。


 銀の円の中、セレスティアの足は半歩前へ。

 右手が持ち上がる。掌がこちら側ではなく、マルシェへ向く。


 視界の隅で、評議官が微笑んだ。

 笑みは薄い。紙の端が捲れるみたいな、乾いた笑顔だ。


「聖句第六節——『闇を照らすは光にあらず。秩序を照らすは法である』。聖女、執行を」


 神殿語の古い響きが、ひと呼吸ごとに世界を冷やす。

 観衆の息が止まる気配。塔の上では旗が風を掴み損ね、ぱさりと落ち着いた。


 掌が熱を帯びた。

 見たくないのに見える。指先に集められる光の式。

 それは癒しの魔法に似ていた。似ているのに、違う。

 癒やすために織ったことのある構文の、たぶん三番目にくるはずの音を、わざと外したような歪み。

 ——「痛みを奪う」ではなく、「痛みの意味を奪う」。

 ——「命を撫でる」ではなく、「命の輪郭を消す」。


(祈りじゃない。これは、呪い)


 そう叫ぼうとした瞬間、違うものが胸の中で動いた。

 今にも砕ける心の表面を、踵で撫でるみたいにそっと触れてくる感触。


 マルシェが見ていた。

 鎖に繋がれたまま、眉根をわずかに緩めて、喉だけで。

 声にならない言葉。——「だいじょうぶ」。


 だいじょうぶなんか、ない。

 目の前で、あなたを——私が。


 右手が上がり切る。肘が伸びる。

 構文が鎖骨の奥で、かちりと音を立てて結ばれる。


(止まって。いや。止まって。止まって……!)


 聖環が答える。——「実行」。


 光が落ちる、寸前。




 ——泣かないで。


 声だった。

 最初は、風の勘違いかと思った。塔の角にぶつかって戻ってきた風が、耳の形をなぞったのだと。

 でもそれは、耳ではなく、胸骨の裏で響いた。

 音なのに、言葉の形をして。

 知らない声音なのに、あまりにも、よく知っている響きで。


 ——泣かないで、セレスティア。


 あたたかい。

 夜を包む毛布の重みみたいに、静かで確かな重みが胸の奥へ置かれる。


(……だれ?)


 ——いいえ。正しく呼ぶなら、こう。


 喉の乾きが、ふっと和らいだ。

 掌に集められた光が、一瞬、わずかに揺らぐ。術式が呼吸を忘れ、麻痺した指がかすかに震える。


 ——泣かないで、わたし。


 瞬間、世界の輪郭が変わった。

 壇の石の冷たさが、かかとの皮を通して伝わり、観衆の息づかいの揺れが回廊の柱の影にぶつかって砕けるのを感じた。

 遠くの鐘楼で、まだ鳴らされてもいない鐘の金属臭い冷たさまで——嗅いだ。


 鼓動が、遅く大きく打つ。

 一拍ごとに、体の内側へ黒い絹を垂らすように静けさが満ちる。


(……あなたは、だれ?)


 ——ノクティア。


 名前が、落ちた。

 それは夜の名。闇の女神の名。

 ずっと遠くの神殿の壁に彫られた文字でしか知らなかった名前が、初めて肌の内側で音になった。


 ——あなたの外に在ったわたしは、いつかの祈りでしかなかった。

 ——でも、いま、あなたの内に在るわたしは、祈りではなく、呼吸。


 泥の底に引かれていた足の裏に、地面の感触が戻る。

 術式で固められていた肘の関節に、ひっそりと隙間が生まれる。

 鎖骨の内側で結ばれていた構文の結び目が、細い針先でつつかれたみたいに——ほどけた。


 聖環が反射的に拘束を強める。

 首の後ろで輪が軋み、皮膚に冷たい痛みが走る。

 だが、その緊締を包むように、黒い絹の手がそっと添えられた。


 ——怖がらないで。

 ——あなたは、あなたの祈りを知っている。

 ——それは命令ではない。

 ——それは、いつだって、誰かの痛みに触れるために、あなたが開いた灯り。


 掌の光が、ばらばらと崩れた。

 糸に戻る。音に戻る。

 癒しの三番目に置くはずの音が、正しい場所に帰ろうと微かに震え、命令の枠組みの外側にすり抜ける。


(祈れる……? 今、ここで? 私が……?)


 ——祈って。

 ——これは断罪の儀ではない。

 ——これは、あなたの祈りを取り戻す儀式。


 評議官の眉がひくりと動いた。

 術式の監視結晶に揺らぎが出たのだろう。後方の術者たちが慌てて印を結び、聖環の出力を上げる。

 しかし輪はすでに、内側から別の「呼吸」で満たされていた。

 ノクティア——夜の名を持つ何かが、セレスティアの呼吸に合わせて、輪の内側をひとつずつ撫でていく。


 ——わたしを、あなたは外に祀ってくれた。

 ——今度は、内に置いて。

 ——わたしは、あなた自身。

 ——あなたの涙が名を与えた、あなたの闇。


 涙が、落ちた。

 悔しさでも、恐怖でもなく——安堵だった。

 体の奥に、長い時間締め切っていた部屋があったのだと知った。

 その部屋の扉を開ける鍵が、自分の声で作られていたことに、やっと気づいた。


 マルシェが、その涙を見ていた。

 鎖の向こうで、そっと首を振る。

 「泣かないで」と口が言う。

 セレスティアは微笑んだ。

 「うん」と、唇が返した。


 評議官の声が鋭く割れる。


「出力を上げろ! 聖環は神殿直轄の術式だ、逸脱は許されん!」


 術者たちが一斉に詠唱を重ねる。

 聖環が焼けるように熱くなり、皮膚の下で血潮が逆流する。

 だが、次の瞬間——聖環の金属が、ほんのわずか、低く鳴いた。


 その音は、誰にも聴こえなかったかもしれない。

 けれどセレスティアにははっきり分かった。

 それは「祈り」の音だった。

 金属の輪が、命令の器具から、祈りの輪へと——ほんの一瞬、形を変えた。


 黒い絹が、指先から首筋へ。輪の外郭に沿って、すべる。

 縫い目を探る仕立て屋の手のように、やさしく、確かに。


 ——あなたの手で、解いて。


 右手が、勝手に上がったのではない。

 今度は、上げた。

 自分で。

 輪の接合部にふれる。熱い。けれど、怖くない。


 評議官が叫ぶ。

 衛兵が駆け寄ろうとする。

 だが、塔の天辺で、雲が裂けた。

 太陽ではない。

 夜が、昼の中で、ひとひらだけ裏返ったみたいに。

 風が、塔の角を逆向きになでた。


 ぱきん、と細い硝子が割れる音がした。

 輪の継ぎ目に走った一本の亀裂が、蜘蛛の巣のように広がる。


 ——終わりにしよう。

 ——命令の祈りを。

 ——あなたがあなたのために閉じていた夜を。


 金属片が、ひとつ、落ちた。

 足元の銀の円の上に当たり、澄んだ音を立てる。

 続けざまに、もうひとつ、もうひとつ。

 首の後ろの重みがふっと軽くなり、冷たい風が素肌を撫でた。


 聖環ノクティア——破断。


 観衆のざわめきが、驚愕の声に変わる。

 術者たちの詠唱が崩れ、衛兵が剣に手をやった。

 評議官の顔から血の気が引き、唇が何かを叫ぶ。

 鐘楼の鐘が、誰の合図もなく鳴った。


 セレスティアは、一歩踏み出した。

 銀の円の外へ。

 命令の線の外へ。


 掌は——光を集めなかった。

 代わりに、音を、空気を、祈りを、集めた。

 胸骨の裏側でひとつずつ明かりを灯すみたいに、母の咳の夜に覚えたあの手順で。

 小さく、小さく、でも確かに。

 「痛みの意味」を奪う術ではなく、「痛みの孤独」を奪う祈りを。


「——神さま」


 空気が、その響きを受け取って

 今度は声になった。、広場の隅々まで運んでいく。


「どうか、この人の“怖さ”だけを、少し、軽くしてください」


 光は、ほとんど見えなかった。

 けれど、風が変わった。

 壇の上に、ひとつの風が生まれ、マルシェの頬を撫で、汗の塩味をさらっていった。

 少女の肩からこわばりが落ち、胸の上下がゆっくりになる。


 マルシェが笑った。

 今度は、はっきりと。

 鎖のまま、首だけで深く、深く頷く。


「——信じてるから」


 声は、出ていないのに、確かに聞こえた。

 セレスティアの胸の奥で、何かがひとつの季節を終わらせ、次の季節の窓を開けた。


 塔の上で、空が鳴る。

 冬の雲が裂け、黒い縁取りのような雲間から、夜の色が一瞬覗いた。

 昼なのに。

 どこまでも灰色の、昼の底で、夜が呼吸した。


 評議官が手を振り下ろす。

 衛兵が飛び出す。

 術者が新たな拘束を編み上げる。


 セレスティアは、走った。

 マルシェへ。

 枷の前へ。

 鎖の光に指を差し入れ、結び目を探す。

 術式を壊す力を集めるのではない。ただ、祈りの息で、固くなりすぎた結び目を温める。

 固まった蝋を溶かすみたいに。

今回のセレスティアは、ただ命令を拒んだのではなく、

初めて――「自分が選ぶ祈り」を差し出しました。


それは奇跡というより、ただ隣に寄り添うような、小さくてあたたかい救い。

マルシェの“信じてる”という答えが、それを確かなものにしてくれたのだと思います。


……でも、その選択が許されるはずもなく――。

次回は、塔の上の逃走劇が始まります。

どうか最後まで見届けていただけたら嬉しいです。


もし少しでも続きが気になったら、

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一緒にセレスティアの物語を見守ってくださいね。

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