65 聖女の檻、祈りのかたち
第二聖堂は、聖都の中心にそびえる白亜の建築群のひとつであり、宗政評議の場として知られていた。
神殿よりも実務的な空気を纏い、内部は厳粛で、静寂に満ちている。
セレスティアが通されたのは、その最奥に位置する円形の会議室。
中央には演壇があり、その周囲をぐるりと囲むように、高位神官や政治顧問たちが座していた。
その最上段。ひときわ高い席に座していたのは――
「聖女セレスティア。……ようこそ」
重く、威厳ある声。
宗政評議長・マルティアス・クレヴィン。
老いた外見ながら、澄んだ双眸と整えられた銀髪。立ち上がらずとも、空間に圧を与えるような存在感。
事実上、教皇ともいえるこの男が、今日の場を導くというのか。
「先日の祈祷における行動について、我らは“公的な聖女としての適格性”を審議せねばなりません」
マルティアスの言葉は柔らかく、それでいて有無を言わせぬ響きを持っていた。
セレスティアは一歩、演壇へと進み出る。
自分の足音だけが、静寂に響く。
そして、視線を逸らさず、まっすぐに告げた。
「……わたしは、命を救いたいと願い、祈りました。形式ではなく、命に向き合う祈りを」
議場の空気がわずかに動いた。
「それは、教会の統制を無視したということですか?」
中段に座していた若き神官が声を上げた。
「違います。無視したのではありません。……ただ、“それだけでは足りなかった”のです」
彼女の言葉は、聖なる壁のように閉ざされた議場へ、ひとつの風穴を開けるように響いた。
マルティアスの目が細められる。
「“足りなかった”……と?」
「はい。規定の祈祷には、誰かの命に触れる“温度”が欠けています」
「形式だけでは届かないものがある。だから、わたしは祈ったのです。“聖女”としてではなく、“セレスティア”として」
数名の神官が顔をしかめた。
「……あなたは、自らの祈りを“個”の領域に持ち込むつもりか?」
別の神官が、あからさまな不快の色をにじませながら問う。
「祈りは、常に“個”から始まるものです」
「それが女神に届き、やがて“救い”として形を成すのだと、わたしは信じています」
「教義に従わない祈りは、異端と紙一重です」
その声には警告の色があった。
そして、誰もがその言葉の重みを理解していた。
“異端”。
それは、ただの規律違反ではない。
神の名のもとに“罪人”とされ、社会から葬られる烙印。
だが、セレスティアは怯まなかった。
「それでも、祈ります」
「誰かの命が、救いを求めている限り、“わたし”の祈りは止まりません」
「……たとえ、この“聖環ノクティア”がわたしを縛っても」
彼女の手が、再び首元の冷たい金具に触れる。
「これは制御の象徴。でも、わたしの心までは縛れません」
マルティアスが、わずかに目を閉じた。
「……ならば、問います」
「その祈りが、教会の意思と食い違ったとき、あなたは“どちら”を選ぶのですか?」
その問いは、まさに審問であった。
セレスティアの瞳が、揺れることなく彼を見据える。
「わたしは、“命”を選びます」
「それが女神ノクティアの御心であると、信じているからです」
議場に、長い沈黙が落ちた。
その沈黙は、承認でも拒絶でもない。
ただ、彼女の存在が、“規律”と“信仰”の狭間に生きているという、その事実を突きつけていた。
このあと、宗政評議会がどのような判断を下すのか。
それはまだ、決まっていない。
だが、確かなことがひとつあった。
――セレスティアは、もはや“ただの聖女”ではない。
枷をつけられたまま、なお自らの祈りを選ぶ“異端”の聖女。
それが、今ここに立つ彼女の姿だった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、セレスティアは再び聖女寮の自室へと戻されていた。
けれど、それは“帰還”というにはあまりにも静かすぎて――まるで、“軟禁”に近いものだった。
見張りの神官が扉の外に立ち、室内には外界の音ひとつ届かない。
まるで世界から切り離されたような空間で、セレスティアはひとり、祈りの石を手に、椅子に座っていた。
(あの場で、わたしは……“宣言”してしまった)
異端ともとれる言葉。
けれど、心は不思議なほど静かだった。
恐れは、なかった。
むしろ、あの瞬間から初めて、自分の“祈り”に誇りを持てた気がしていた。
女神ノクティアが、沈黙の奥で何かを感じ取ってくれた気がして。
そのときだった。
扉の外で、足音が止まる音がした。
鍵が静かに開き、顔をのぞかせたのは――
「……あなた」
中に入ってきたのは、聖都近衛の副長を務める青年、ルディス・フレイだった。
「大丈夫か」
短く、けれど真摯な問い。
「わたしなら、大丈夫。でも……あなた、ここに来ていいの?」
「ああ。宗政評議の判断が下るまで、誰も君に直接触れることは許されていない。だから、僕は“触れない”」
苦笑を含んだその声に、セレスティアの頬が緩んだ。
ルディスは彼女の前に膝を折り、少しだけ顔を伏せる。
「……君の祈りを、僕は見ていた。あの子の命が救われた瞬間も、母親の涙も……全部」
「なら、あなたも“異端を見た”のね?」
「いや。あれは、“奇跡”だったよ」
彼の言葉は、まるで自らの信仰を再確認するような、穏やかな響きを持っていた。
「君のような祈りが、もっとあっていいと思う。けれど……それが“制度”に触れると、教会は動かざるを得ない」
「わかってる。でも……」
セレスティアは首を振った。
「わたしは、もう戻れない。誰かの意志に従って、枷のまま祈るだけの聖女には」
その言葉に、ルディスは少しだけ瞳を伏せた。
だが次の瞬間、まっすぐに彼女を見据えて言った。
「……君が祈り続ける限り、僕は君を信じる」
その短い言葉が、どれほどの力を持つのかを、セレスティアは知っていた。
支えを求めていたわけではない。
けれど、それでも。
誰かが“わたし”としての祈りを信じてくれることが、どれだけ心強いかを。
ほんの一瞬、目の奥が熱を帯びる。
だが、涙はこぼれなかった。
(もう、泣かない)
(わたしの祈りが、誰かの命に届く限り)
(わたしは、歩いていける)
◇ ◇ ◇
その夜、セレスティアはひとり、窓辺で静かに星を見上げていた。
聖都の夜空は、雲もなく澄んでいた。
高い塔の影が聖女寮を覆う中、彼女は小さくつぶやく。
「……ノクティア様。わたしの祈りは、間違っていませんでしたよね?」
応える声はない。
けれど、胸の奥に、やわらかな温もりが広がる。
その感覚こそが、答えだった。
“祈りは、従属ではない”
“祈りは、わたしの意志で選び取るもの”
そう信じることで、彼女は、また歩き出す力を得ていた。
たとえ、教会がそれを“反逆”と呼ぼうとも。
たとえ、この身に枷が嵌められ続けようとも――
その祈りは、確かに、未来へと繋がっている。
静かなる反逆の祈りは、今も、夜の空に捧げられていた。
◇
けれど、その小さな“反逆”も、すぐに見逃されなくなった。
祈りによって癒された者がいたこと――そして、その奇跡が、セレスティア自身の意志から生まれたものだったことは、すぐに教会全体へと伝わった。
「聖環による制御下で起きた祈りではない。これは、危険な兆候です」
「意志を持った祈りなど、再現性が担保できない。我々の教義に背く行為だ」
そう断じられた彼女は、速やかに“聖女寮の自室”から隔離され、
《監視強化処置》として、現在の“聖女の檻”――魔術結界で封じられた個室へと移された。
それは、名目こそ“保護”とされていたが、実質的な“拘束”だった。
◇ ◇ ◇
夜の祈りも、もう許されていなかった。
――たとえ、それが、誰にも見られぬ部屋の中であったとしても。
セレスティアは、かつて自室の片隅にひざをつき、ひっそりと祈りを捧げていた。誰の指示でもなく、誰の承認も得ず、ただ自分の心に従って。手を組み、目を閉じ、名もなき誰かの痛みに想いを寄せた、その時間。
だが今、その静けさすら奪われていた。
喉を震わせようとすれば、喉元に巻かれた《聖環ノクティア》が鈍く脈打ち、警告音のように重く響く。祈りの言葉は咎となり、ひとりの想いは“異端の兆候”と断じられる。
部屋の扉は施錠され、窓は半透明の結界で覆われていた。
ここは、もう“部屋”ではない。誰より神に近いとされた少女が、最も孤独に閉じ込められる“聖女の檻”。
それでも、セレスティアは机に向かっていた。
祈れないなら、せめて言葉に残そう。
声が許されないなら、筆先に想いを込めよう。
白紙のノートに、彼女はひと文字ずつ綴っていく。
「この祈りが、誰かに届くのなら――」
そこに神の名はなかった。
書かれていたのは、ただひとりの少女の、誰かを想う気持ちだけ。
セレスティアは、筆を止めると、手元のノートをそっと閉じた。
ページの端には、小さく震えた指で書かれた名前がある。
「……マルシェ」
その名を口にした瞬間、《聖環ノクティア》が静かに反応した。
魔力の波が、首元から喉へとせり上がる。だが彼女は顔を歪めながらも、声を殺してそれに耐えた。
(“禁句”……? 名前を呼ぶだけでも……)
もう何が許されて、何が咎とされるのかも分からなかった。
祈りも、感情も、記憶すらも管理されていく。けれど、それでも。
「……消せない。わたしの心は、わたしのままだもの……」
――コン、コン。
不意に、扉をノックする音が響いた。
警備か、監視か、それとも……彼女の胸がわずかに高鳴る。
「セレスティア様、聖務院よりの使いです。聖環の調整を行いますので、立ち上がってください」
金属質な声。機械のような淡々とした口調は、祈りではなく命令にのみ従うためのものだ。
(……祈りの力を“測定”し、“再現”させるために?)
何度も繰り返されてきたその“調整”。
意識を朦朧とさせる魔導波、神経に差し込まれる針のような制御術式。
祈りのたびに、彼女の体は少しずつ削られていく。
だけど、それでも彼女は、祈ることをやめない。
扉が開き、白衣をまとった魔導技師が数人入ってくる。無表情に、儀式の準備が始まる。
セレスティアは立ち上がりながら、小さく息を吸った。
(せめて――誰かひとりでも、わたしの祈りを信じてくれるなら……)
その言葉は、声にはならなかった。
けれど確かに、祈りと共に、彼女の胸の奥に灯る。
消えそうで、消えない、小さな灯火のように。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
第65話「聖女の檻、祈りのかたち」、いかがでしたでしょうか。
制度と信仰。祈りと統制。
セレスティアがその狭間で、自分の意志を貫こうとする姿は、決して華やかでも、劇的でもありません。
けれどそれは、“声なき祈り”が確かに存在するという、静かなる証明でした。
聖環に縛られ、祈りすら奪われた檻の中で、それでも彼女は“心だけは自由でいよう”と願う――
この話は、そんな小さな灯火の物語です。
物語は、いよいよ次の段階へと進みます。
それでも祈り続ける少女に、どうか、もう少しだけ寄り添っていただけたら嬉しいです。
もし、あなたの中に何かが残ったのなら──
ブクマや評価、そして感想など、そっといただけると励みになります。
また、次の祈りのなかで。
⸻ 星空りん




