64 静かなる反逆
朝の光が、聖女寮の窓辺を淡く照らしていた。
セレスティアは、まだ冷たい空気の中、ゆっくりと目を覚ました。
昨夜の祈りの名残が、胸の奥に静かに残っている。
誰にも命じられず、誰にも見られず、ただひとり捧げた祈り。
(……あれでよかったんだよね)
小さく呟くと、ベッドの傍らに置かれた“祈りの石”にそっと手を伸ばす。
幼子の母から贈られたその石は、夜の女神ノクティアの紋が描かれた、擦り減った素焼きの小さなもの。
祈りは、姿を持たない。
けれど、たしかにここにあった。
彼女はゆっくりと立ち上がると、儀礼のドレスを纏い、首元の“聖環ノクティア”に指を添えた。
――冷たい。
この首輪が、祈りを制御する。
それは、彼女自身が望んだものではなかった。
けれど、“聖女”として受け入れなければならなかった枷。
(……わたしの祈りが、誰かの手に委ねられている)
その理不尽に、心が痛む。
◇ ◇ ◇
その日、聖都近郊で疫病が発生したという報せが届いたのは、朝食の祈りが終わった直後だった。
衛兵が駆け込み、手にした書簡を上級神官へと渡す。
小声で交わされた言葉の端に「熱」「幼児」「拡大の懸念」といった単語が飛び交う。
やがてその神官の視線が、セレスティアへと向けられる。
「……準備を。公的祈祷の形式で、あなたに随行してもらう」
まるで、聖具を持ち運ぶかのように。
セレスティアは黙ってうなずいた。
それが“聖女”の役割であると、理解していたから。
けれど――心のどこかが、静かに拒絶していた。
(私は、“誰かの意志”に従うために、祈っているわけじゃない)
◇ ◇ ◇
疫病が発生した村は、聖都から西へ馬車で半日ほどの距離にあった。
湿り気を含んだ空気が、地面に近い場所で淀んでいる。
土と薬草と、消毒に使われたアルコールの混ざった匂いが、鼻腔の奥を刺激した。
村は静まり返っていた。
かつては祭りや歌声が響いていたであろう広場も、今は病に伏した家族を背負う者たちと、疲れ切った顔の治療師たちの姿しかない。
そんな沈黙の中――
聖女を乗せた馬車が村に入ると、最初に風が動いた。
誰かが、そっと膝を折る音。
そして、その連鎖は波のように広がった。
「聖女様が……」
「本当に、来てくださった……!」
次々と人々が地にひれ伏し、まるで何かがほどけたかのように、祈りと涙が空に放たれていく。
その中を進みながら、セレスティアは胸の奥にひとつの痛みを覚えていた。
(……わたしの手に、何ができる?)
(この身には、鎖がある。わたしは、“決められた祈り”しか許されていない)
けれど――
「どうか……この子を、助けてください……!」
ひときわ強く、震える声が届いた。
痩せた女性が、幼い娘を抱きしめたまま、這うようにしてセレスティアの前ににじり出る。
少女は高熱にうなされ、顔は赤く、目も開かず、呼吸さえ浅い。
傍にいた神官が、一歩前に出た。
「そのような――!」
個別の接触祈祷は、教義に反する。
聖女の祈りは“定められた式典”の中でのみ行われるべきと、彼らはそれを当然のように言うだろう。
だが、セレスティアはその声を遮るように、そっと手を上げた。
「やめてください」
静かに、それだけを告げる。
彼女は、母親の前で膝をついた。
泥で汚れた地面に、ためらいもなく。
「……お母さん、この子のお名前は?」
母親は涙をこぼしながら答える。
「……ミラ。ミラって言います……っ」
「わかりました、ミラちゃん」
セレスティアは少女の額に、両手のひらをそっと添えた。
その瞳は、どこまでも穏やかだった。
(今、この祈りに、形式も承認もいらない)
(わたしは、“聖女”じゃなくていい)
(ただ、“わたし”として、この子の痛みを救いたい)
深く息を吸い、彼女は目を閉じた。
「……ノクティア様。
夜の帳を越えて、この小さな命に、静かなぬくもりを……。
どうか、明日という日を、もう一度この子に……」
ささやくような声だった。
けれど、その声は確かに、何かを呼び覚ます力を宿していた。
瞬間――
セレスティアの掌から、ふわりと光が立ちのぼった。
それは“闇”の色をしていた。
けれど、不思議と冷たくはなかった。
夜の毛布のように柔らかで、すべてを包み込む優しさを纏っていた。
少女の身体が、ゆっくりと震えを鎮める。
呼吸が整い、頬にかすかな赤みが戻る。
目を見開いた母親が、娘の頬に手を当てて震える。
「……熱が……! 熱が引いて……!」
周囲の人々が、言葉を失ったままその光景を見つめていた。
やがて、誰かが呟いた。
「……奇跡、だ」
「聖女様が……形式なしに……ただ祈って、癒した……」
その言葉を皮切りに、村の空気が震え始める。
誰かが泣き、誰かが地に額をすりつけた。
教義も儀式も超えて、ただ一人の少女が捧げた祈り――それは、確かに“命”を救った。
そして、人々の心をも。
◇ ◇ ◇
聖都に戻る道すがら、セレスティアの背には、神官たちの重い沈黙がついてきた。
言葉にはしない。
だが、その視線の一つひとつが、無言の批判を突きつけてくる。
“規則違反”
“越権行為”
けれど、セレスティアの胸には、確かなものが残っていた。
あの子の、少しだけ落ち着いた呼吸。
母親の涙交じりの「ありがとう」という声。
それだけで、十分だった。
(……祈りは、命じられてするものじゃない)
(祈りは、“わたし”が選ぶもの)
その確信が、彼女の中に芽生え始めていた。
祈りとは、従属ではない。
祈りとは、静かなる反逆なのだ。
鎖に縛られても、心までは縛られないという、ひとつの意志の表明。
セレスティアは、首元の“ノクティアの聖環”にそっと触れた。
この枷があるかぎり、私は完全には自由ではない。
けれど、それでも――
(私は、祈る)
(この手で、誰かの命をつなぐために)
(誰の命令でもない、“わたし自身”の意志で)
◇ ◇ ◇
夕暮れの鐘が、聖都の高い尖塔から静かに響いた。
セレスティアは神殿に戻るとすぐ、儀礼室へと通された。普段であれば、祈祷の余韻に包まれるはずのこの部屋には、緊張と警戒の空気が張り詰めていた。
上級神官のひとりが、口元に手を当てながら低く告げた。
「……非公式な祈りを、民の前で行ったと報告を受けました。聖女セレスティア様、いかが弁明なさいますか?」
弁明。
その言葉に、セレスティアの胸が静かに波打った。
(……これは“罪”なの?)
あの子の命を救ったことが。
形式も命令もなく、ただ“わたし”として祈ったことが。
「わたくしは……祈りの必要を、感じました」
言葉を選びながら、彼女は丁寧に答えた。
「命が燃え尽きようとしているのを、見過ごすことはできませんでした。女神ノクティアの御名のもとに、救いを願ったまでです」
「それは、聖環ノクティアを経た祈りではなかった」
別の神官が言う。
「神印経路の承認を経ず、あなたの意志で行われた奇跡は、すなわち“統制外の発動”です」
言葉が鋭くなっていく。
まるで、罪人を裁く法廷のように。
だが、セレスティアはその圧力の中でも、目を逸らさなかった。
「統制の中だけに、祈りはあるのでしょうか」
その問いに、神官たちは一瞬、沈黙した。
彼女の声は静かだった。
だが、まるで澄み切った湖に投げ込まれた石のように、その言葉は波紋を広げていく。
「――わたしは、聖女としての責務を理解しています」
「けれど、今日の祈りは、“わたし”が選んだものでした」
「誰の命令でもなく。誰の意志でもなく。命を救うために、祈ったのです」
張り詰めた空気の中で、神官のひとりが声を荒げかけた。
「聖女とは、個ではなく象徴であるべきです!」
だが、セレスティアは首を横に振った。
「それでも、わたしは“個”でいたいのです」
彼女の言葉は、神殿の静寂を揺るがす一石となった。
聖女とはなにか。
祈りとは誰のものなのか。
その答えを、今この場で出すことはできない。
けれど、セレスティアはもう、ただの偶像でいることをやめた。
――祈りは、わたしの中にある。
◇ ◇ ◇
儀礼室での一件から一夜が明けても、セレスティアの心は波立っていた。
聖女としての祈りと、ひとりの人間としての願い。その狭間で彼女が選んだ答えは、教会に波紋を広げ、そして──新たな決定をもたらしていた。
彼女はひとりの女官から静かに告げられた。
「……宗政評議会より、召喚がありました。正午、第二聖堂にて評議が開かれるとのことです」
その名を聞いた瞬間、セレスティアの背筋がぴんと伸びた。
宗政評議会。
教会国家アルセラの宗教と政治の両輪を担う、最上位の合議機関。
その場に呼ばれることは、つまり──“教会の意思”と真正面から対峙するということだった。
「……わかりました」
短くそう答えたが、心の奥には、冷たいものがじんわりと広がっていくのを感じていた。
(逃げられない……けれど)
(わたしの祈りは、誰かに許されるものではない)
(“わたし”が選ぶもの)
首元に手を添え、“聖環ノクティア”の冷たさを確かめる。
その枷の内側に、祈りが宿ることを、誰にも否定させてはならない。
そう自分に言い聞かせながら、彼女はゆっくりと立ち上がった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
“聖女としての祈り”と、“ひとりの少女としての祈り”。
誰かに命じられたからじゃない。
誰かに褒められるためでもない。
ただ「救いたい」と願った、ひとつの祈り。
それは小さな反逆であり、彼女自身の魂の選択でもありました。
この物語のゆくえは、やがて教会という巨大な枠組みとぶつかっていきます。
でも、どれだけ鎖に縛られても――心までは、縛られない。
この小さな祈りの続きが、また誰かの心に届きますように。
もし、すこしでも心に残るものがあったなら……
ブクマや評価、そして感想などいただけたら、とっても励みになります。
また、次の章でお会いできますように。
⸻ 星空りん




