番外編 誰にも祈られなかった聖女
この物語をここまで読んでくださった皆さまへ。
気がつけば、累計1万PVという大きな節目を迎えることができました。
本当に、本当にありがとうございます。
今回の番外編では、本編では語られなかった“もうひとつの物語”を綴っています。
過去を知ることで、未来の祈りが、ほんの少しだけ深く届くかもしれません。
静かで、ささやかな物語ですが、どうか、あなたの心に触れますように。
それでは――どうぞ。
十四世紀、フランスの南部地方――。
山あいの村では、いまだ異教の名残と古い迷信が人々の生活に根深く残っていた。
中世の石造りの家々が肩を寄せ合い、ひっそりと谷に身を寄せるようにして並んでいる。
その朝も、冷たい霧が村を覆っていた。
太陽はすでに昇っているはずなのに、白いもやに包まれた空はどこか薄暗く、木々の影も曖昧だった。
ティアナは、朝露をまとった草を踏みしめながら、村はずれの石畳の小道を歩いていた。
手には木籠。中には朝摘みの薬草が数種収まっている。どれも、風邪や発熱に効くとされるものだった。
この地では、古くから“薬草”と“祈り”が病を癒す手段とされていた。
けれど近年、教会の影響力が増すにつれ、それらの“癒し”は――しばしば“異端”と見なされるようになっていた。
ティアナは薬草師の弟子として、この村で慎ましく暮らしていた。
年はまだ十七。けれど、両親を幼い頃に失った彼女にとって、薬草師の老女に拾われたことは唯一の救いだった。
「……あの子、また森に入っていたのかい?」
「朝露で濡れた葉を使うって、魔女かなんかかねえ……」
通りすがりの老婆たちの囁きが、霧の中にこだまする。
けれどティアナは、それに目を向けることはしなかった。ただ静かに、いつものように歩き続ける。
彼女は、祈ることを知っていた。
それは神殿で教えられた信仰の言葉ではなく、自分の中から自然と湧き上がってくる想いだった。
(……どうか、あの子の熱が下がりますように)
昨夜、村の少年が高熱で倒れたと聞いた。
母親が泣きながら訪ねてきたとき、ティアナは何も言わず、棚から薬草をいくつか選び煎じ薬を作った。
そしてその湯気が消えぬうちに、夜道をひとり、少年の家へと届けに行った。
ティアナにとって、それは“当然のこと”だった。
けれど――
「……あの家の子が朝には元気になってたんだって?」
「そりゃあもう、薬なんてもんじゃねえだろ。悪魔と何か契約でもしてなきゃ、あんな即効性は出ないさ」
「神に頼らず、薬草で治す? 気味が悪いわ」
村人たちは、感謝する者と、警戒する者に分かれていた。
だが、警戒する者のほうが、少しずつ、確実に声を強めてきていた。
◇ ◇ ◇
ティアナは、薬草小屋に戻ると、老薬草師・エレーヌの横に薬籠を置いた。
「……取ってきました」
エレーヌは、深い皺を寄せた顔を上げ、ティアナの手元をじっと見つめる。
「サルビア、マロウ、それに……ヤローまで。ようやく見極めが利くようになったな」
「昨日、子どもの熱が下がったと聞きました。それで……もう少し、何かできるようになりたくて」
「……それで、また村人の噂の種になっていたな」
ティアナは、黙ってうつむいた。
言い訳などしなかった。ただ、そうなることは分かっていたのだ。
人の命を救うたびに、恐れられる。
信仰に頼らず、祈りの言葉を持たぬまま、人を癒すことが、禁忌とされているこの土地で。
神の教えに従わない癒しは、“異端”だ。
それが、この国の“常識”だった。
◇
だが、ティアナは知っていた。
自分の行動が誰かを救っているということ。
その瞬間、確かに“手を重ねて祈るような気持ち”になることを。
彼女にとって、祈りとは言葉ではなく、行為そのものだった。
(私は……この手で、少しでも……)
ふと、薬草棚の奥に仕舞われた古びた聖典に目をやる。
埃をかぶったその本には、教会で語られる“正しき神の祈り”が書かれていた。
けれど、ティアナはそれを一度も読もうとは思わなかった。
彼女の“神”は、誰かに教わった存在ではない。
名前も、姿も知らない。
それでも確かに、何か“夜の奥”にいるような――そんな存在だった。
(……どうか、この村に、少しでも安らぎがありますように)
それだけを願って、彼女は小さく、手を組んだ。
◇ ◇ ◇
その日の夕暮れ、小屋の扉を叩く音が響いた。
開けると、村の神父が立っていた。
「ティアナ。少し、話がしたい」
その目は、慈悲の仮面をかぶった“裁きの眼差し”だった。
◇
木製の椅子に腰かけた神父は、しばらく沈黙していた。
ティアナはその正面に立ったまま、彼の視線を避けるように、薬草棚の方を見つめていた。
「……よく、人々のために働いていると聞いているよ」
神父の口ぶりは穏やかだった。
だが、その言葉の端に、何か別の“色”が含まれていることに、ティアナは気づいていた。
「ありがとうございます。私は、ただできることを……」
「だが、それが“人の領分”を越えるようなことだとしたら?」
ティアナは返す言葉に詰まった。
彼の視線が鋭くなる。
「君の薬草で癒えたという子どもの話、聞いている。素晴らしいことだ。だがな……」
神父は言葉を切ると、懐から一冊の小さな祈祷書を取り出して、ティアナの前に置いた。
「人が人を癒すのではない。“癒し”とは、神の与える奇跡だ。そう教えられてきたはずだ」
静かな口調の中に、冷たい刃が潜んでいた。
「信仰なくして癒しを得るのは、“不自然なこと”と見なされる」
「……でも、私は――」
「君が“良かれ”と思ってしたことが、周囲にどう映るか。それを考えたことはあるか?」
神父の指が、祈祷書をトン、と軽く叩いた。
「村の信徒たちは、不安を抱えている。“祈りなき奇跡”を目にして、不穏な気配を感じている。……まるで、何か別の“力”が働いているかのように、な」
ティアナの胸がざわめいた。
言葉にできない不安が、じわじわと心の中に染み込んでくる。
(……違う。私は、誰かを傷つけたわけじゃない)
けれど、その“違い”が通じない世界にいることも、彼女はよく分かっていた。
◇ ◇ ◇
神父が去った後、小屋の中には、しんとした静けさが残った。
ティアナはそっと、棚の奥に隠していた自分の小さな祈りの石を手に取った。
それは、どこかで拾った黒曜石のような石だった。
誰にも教えられたわけではない。けれど、祈りたくなるとき、彼女はいつもこの石を両手に包み込むようにして、心を沈めていた。
信じていた。
神ではない。名も知らぬ“何か”に――
(……私は間違っていたのかな)
自分のしたことが、本当に人のためだったのか。
それとも、ただ自分の“無力さ”を覆い隠すためだったのか。
けれど、それでも、彼女は願わずにはいられなかった。
(どうか……この手が、誰かのためにあるものでありますように)
◇
その夜。
ティアナは一人、薬草小屋の裏の畑に立っていた。
星の見えない空。冷たい風。霧はまだ、村を包んでいた。
そのときだった。
誰かの声がした。
「……ここにいたのか、ティアナ」
振り返ると、そこにはレオンがいた。
彼は村の若者の一人で、穏やかな性格の持ち主だった。
ときどき、薬草の運搬などを手伝ってくれていた。
「何か、あったの?」
「いや……君の顔を見て、安心したくてさ」
レオンは笑った。けれど、その笑顔はどこか翳っていた。
「……神父様と、話していたよな」
「見てたの?」
「噂になってる。“ティアナは、魔女かもしれない”って」
その言葉に、ティアナの心が凍った。
「僕は、そんなこと思ってない。でも……みんな、怖いんだよ。癒されることじゃなくて、“理解できない力”があることが」
ティアナは小さく息を吐いた。
誰かに非難されるのは、もう慣れていた。
でも、レオンの言葉は、なぜか胸に刺さった。
「……わたし、間違ってたのかな」
「違う。君がしたことは、正しい。でも……正しいことが、いつも“正しく扱われる”とは限らない」
それは、優しさでもあり、諦めでもある言葉だった。
◇ ◇ ◇
その夜、ティアナは眠れなかった。
燈台のない夜を、ただ彷徨うように、祈りの石を手に握っていた。
闇の中に、自分だけがいるような気がした。
けれどその深淵の奥で、彼女は確かに感じていた。
誰かが――何かが、自分の祈りに耳を傾けているような、そんな“気配”を。
(わたしは……ここにいるよ)
そう、確かに、心の奥で告げていた。
◇
それは、ある寒い朝のことだった。
霧がまだ晴れぬ村の広場に、慌ただしい足音と叫び声が響いていた。
「だれか、薬草師を呼んでくれ! サラが……!」
叫び声の主は、若い母親だった。
その腕の中には、痙攣しながらぐったりとした小さな女の子が抱かれていた。
ティアナが駆けつけたとき、子どもの顔はすでに蒼白で、唇は紫がかっていた。
周囲の村人たちは混乱し、祈祷書を持ってひたすら神にすがる者もいれば、動けず立ち尽くす者もいた。
「ティアナ! 頼む、どうにかしてやってくれ!」
子どもの父親が、泣きそうな顔で懇願してくる。
ティアナは躊躇わずに少女を受け取り、薬草小屋へと急いだ。
◇
部屋の中に薬の香りが立ち込める。
ティアナは火を起こし、煎じた薬草を調合し、少女の額に湿布をあてる。
体温を下げるため、冷たい水で足を拭き、呼吸を整えるために抱きしめる。
まるで時が止まったような数刻の後――
少女は、小さな声で、母の名を呼んだ。
「……ママ……」
「サラ! サラ! ああ、よかった……!」
母親は泣きながら娘を抱きしめ、父親も何度も何度も頭を下げて礼を言った。
ティアナはただ、黙って頷いた。
それでよかった。
彼女にとって、“ありがとう”という言葉すら、時には重すぎた。
◇ ◇ ◇
しかし――その“奇跡”は、村に新たな火種を落とした。
村の広場で、神父が祈祷書を片手に人々に語りかけていた。
「……聞いてください。神の御業を模倣する者が、身近にいるのです!」
その言葉に、集まった人々の間からざわめきが起こる。
「ティアナは、薬草だけで娘を救った。……それは神の奇跡ではないのか?」
「いや、それこそが問題なのだ」
神父は厳しい目で群衆を見渡した。
「祈りもなしに癒しが起こるなど、異端だ。神の許しなき癒しは、“闇の契約”によるものかもしれないのです」
その瞬間、空気がぴんと張り詰めた。
“魔女”――
その言葉が誰かの口からこぼれたのを、ティアナは聞いた。
(ああ……もう、始まってしまった)
彼女の心は、静かに、しかし確かに沈んでいった。
◇
数日後。
薬草小屋の扉には、村の誰かが打ち付けたであろう、粗末な紙が貼られていた。
そこには、震える文字でこう書かれていた。
「魔女のもとに癒しなどない。あれは偽りだ」
ティアナは黙ってそれを剥がし、そっと丸めて燃やした。
それを誰にも見せることなく、ただ、自分の胸の奥でゆっくりと呟いた。
「……偽りであっても、救えたなら、それでよかったのに」
夜の小屋で、彼女はまた祈った。
名もなき何かに、己の存在が“否定されない場所”を求めて。
◇ ◇ ◇
そして、あの日が来る。
サラの家が、燃やされた。
「魔女の力を授かった子を育ててはならぬ」
そんな理由で、夜のうちに家が襲われ、火が放たれたのだった。
サラは助かった。けれど、両親は火傷と煙に巻かれ、重症を負った。
「ティアナが……ティアナがサラを救わなければ、こんなことには……!」
誰かの叫びが、夜の広場に響いた。
ティアナは、サラを救った代償として、“災いの種”となった。
誰も、かばってはくれなかった。
あのとき彼女に感謝していた人々でさえ――
◇
告発は、あまりにあっけなかった。
「この村の娘、ティアナ・ルフィーヌ。彼女は神を模した行為を繰り返し、魔女と疑われる」
村の教会の鐘が、鈍く鳴り響いていた。
告発者は、神父だった。
広場に集められた村人たちの前で、彼は厳かに告げる。
「彼女の癒しは、祈りに依らず。言葉によらず。神の御業とは程遠い。
……それはつまり、魔女の手業に他ならないのです」
群衆の中で、ティアナはただ静かに立っていた。
取り押さえられたわけでも、縄で縛られたわけでもない。
けれど、誰一人として、彼女に近づこうとはしなかった。
まるで、見えない柵の中に閉じ込められたようだった。
母親を失った子どもたち、助けを求めてきた老夫婦、笑顔を向けてくれた少女たち――
みんな、彼女から目を逸らしていた。
(……こんな形で、終わるの?)
ティアナの心の中に、怒りはなかった。
あるのは、静かな諦めと、ほんの僅かな――祈りだった。
◇ ◇ ◇
村の長老会が開かれ、ティアナは形式的に尋問を受けた。
「お前は、魔女なのか?」
長老のひとりが問いかけた。
「違います。私は、誰かを助けたかっただけ」
「薬草で命を救ったと聞くが、それは神の意志ではなく、お前の知識と判断によるものだな?」
「……そうです」
その答えが、決定的だった。
人は神の許しを受けずに奇跡を起こすべきではない――
それが、この村の“正義”だった。
ティアナは、“裁きの刻”を言い渡された。
◇
雪が舞いはじめた。
処刑の日は、奇しくも“最も寒い日”だった。
村の広場の中央。
粗末な杭が立てられ、その根元に薪が積まれていた。
ティアナは、縄で縛られ、その前に立たされた。
「最後に言い残すことはあるか」
神父が問いかける。
ティアナは静かに目を閉じ、風に髪をなびかせながら、小さく呟いた。
「……祈らせてください」
「異端者が、誰に祈るというのか?」
「神に。名を知らぬ、けれど、ずっと感じていた“存在”に」
神父は顔をしかめ、やがて黙した。
焚きつけの火が、ゆっくりと松明に点けられた。
ティアナは、空を見上げる。
雪が降る、その冷たい空に――
その時、群衆の中からひとつ、かすかな声が上がった。
「……お姉ちゃん」
リゼだった。
人々の目をかいくぐって広場に出てきた少女が、今にも泣き出しそうな声で叫んだ。
「私、忘れない! サラを助けてくれたこと……私を抱きしめてくれたこと、全部!」
その声に、ティアナは小さく笑みを浮かべた。
それだけで、救われる気がした。
「ありがとう、リゼ。……あなたは、生きて」
火が放たれた。
薪が爆ぜ、炎が立ち上る。
熱気が、空気を歪ませ、空に立ち上る煙が白い雪に溶け込んでいく。
ティアナの最後の祈りは、誰にも届かないはずだった。
けれど、その“祈り”だけが――彼女の魂に残った。
それは、夜の女神のもとへと導かれる、“闇の祈り”となって。
……闇の底で、誰かの声が響いた。
――やっと、見つけたわ。
あなたが本気で姿を隠したら、私でさえ気づけないのね。
けれど、私の力もあなたには届かない。
あなたの運命に触れることも、変えることも――できないの。
どれほど理不尽でも、どれほどあなたを救いたくても。
でも、もしあなたが――
もう一度、誰かと繋がりたいと願うのなら。
今度こそ、祈りが孤独になりませんように。
……ほんの少しだけ、私が寄り添えますように。
囁くような声は、やがて光のように包み込む。
祈りは消えず、その魂ごと――“次の世界”へと導かれた。
◇
雪解け間近の朝、ひとつの産声が、小さな村の家に響いた。
その泣き声はかすかで、けれど芯があって――
まるで「生きる」ことを確かめるように、小さな胸が上下していた。
助産婦は黙って顔を拭い、産着にくるまれた赤子を母の腕にそっと渡した。
「……女の子だよ。ようがんばったね」
母親は、濡れた髪を額に張りつけたまま、疲れきった手で赤子を抱きしめる。
生まれたその子の瞳は、まだぼんやりとしていたが――
ふと、外の闇に向けてまばたきをしたその瞬間、まるで夜に何かを問いかけるように見えた。
「……セレスティア」と名づけられたその子は、やがて人知れず“祈る”ようになる。
言葉も、神の名も知らないうちから。
夜が来れば、窓の向こうをじっと見つめるようになった。
風の音に耳を澄まし、小さな手を組むような仕草で、何かに語りかけるように。
それは、誰から教えられたわけでもない。
けれど、まるで心の奥に刻まれた“ぬくもり”のように、祈るという行為が、彼女にとっての自然だった。
何に向かって祈っているのか。
その祈りが届くのかどうか、彼女自身にも分からなかった。
ただ、夜空の奥に“誰か”がいる気がした。
いつか、自分がどこから来たのか。
なぜ、こんな風に祈ってしまうのか。
それを知るときが来る――それまではまだ、小さな心に芽吹いた祈りの種が、静かに眠っているだけだった。
──これは、ひとつの祈りが終わり、もうひとつの祈りが始まる物語。
名もなき少女“ティアナ”がその命を終えたとき、
夜の神へ捧げた“最後の祈り”は、確かに誰かの心に届いた。
そして、別の世界で産声をあげたセレスティアへと、静かに受け継がれていた。
闇の中に宿った想いは、まだ言葉にはならない。
けれど、その魂は――すでに、祈っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この番外編『誰にも祈られなかった聖女』は、本編の裏側――物語が始まる“もっと前”の、とても静かで、そして決して語られることのなかった少女・ティアナの記憶を描いた物語です。
誰にも信じてもらえなかった祈り。
誰にも届かなかったやさしさ。
それでも彼女は、祈ることをやめなかった。
火に包まれた最期を迎えてなお、その魂が光に導かれたのは、きっと「誰かのために生きたい」と願った小さな想いが、神さまに届いたからだと思っています。
ティアナの物語は、もう終わってしまいました。
でも――彼女が祈った“あの優しさ”は、確かに、あの世界に残っているはずです。
そして、いつか。
その想いが“誰か”を導いてくれる日が来ると信じて。
ご感想やご意見、もしあればぜひお聞かせください。
読んでくださって、本当にありがとうございました。
⸻星空りん




