63 異端と光の境界線
――その夜、私は祈っていた。
闇の中、灯火もない自室で。
たったひとり、祈りの石を両手に包み込みながら。
誰かのために捧げられた祈りを、私はただ受け取り、また重ねていく。
その重みは、日ごとに増していた。
けれど、不思議と苦しくはなかった。
それはきっと、“痛み”と“願い”の在り処を知っているからだ。
母が子に贈った石。
その祈りの跡が、掌に優しく残っている。
(……祈りは、道しるべ)
誰にも届かぬかもしれない。
それでも、祈らずにはいられない。
私は静かに目を閉じ、そっと息を吸った。
「ノクティア様。どうか……この祈りが、誰かの灯火になりますように――」
言葉にせずとも、胸の奥に確かに届く想いがあった。
けれどその瞬間、私の体に微かな熱が走った。
まるで、小さな光が内側から灯るような感覚。
手の中の石が、ふわりと温かくなった気がして、私はそっと目を開けた。
そこには、何もなかった。
けれど。
(……いまのは、なんだったの?)
言いようのない感覚が、背中に残っていた。
あれは、神の加護だったのか。それとも、自分の内側から生まれたものだったのか。
確かめようもなかったが、ただ一つ――私の中の“祈り”だけは、確かに存在していた。
◇ ◇ ◇
翌朝、白い霧に包まれた街がゆっくりと目覚めるころ。
聖女セレスティア・ルミオールは、再び街へと向かっていた。
今日は、教会の公式巡回日だった。
各地に設けられた祈祷所を訪れ、民衆と触れ合い、導く役割――本来であれば、数人の神官が代行する形式の儀礼だ。
けれど、今回は違った。
「“夜の聖女”が訪れる」と噂されたその日、街にはすでに人々の列ができていた。
目に見えていた。
――私は、すでに偶像になっている。
手を振れば、子どもが走り寄ってくる。
微笑めば、老女が涙を流す。
そのひとつひとつの反応が、私という存在に、意味を与えていた。
でも。
(私じゃない。これは……“聖女”に向けられたもの)
そうわかっていても、私は逃げなかった。
この役割のなかに、ほんの少しでも本当の祈りを宿せるのなら――
「……聖女様! どうか、わたしの娘に……!」
叫ぶ声に、私は振り返った。
ひとりの女性が、腕に小さな赤子を抱いて駆け寄ってきた。
娘は高熱を出し、ここ数日眠れていないという。
医師にも、祈祷士にも手が届かなかった。
私の足が、自然と動いていた。
「お名前は……?」
「ユリナです……! この子の名前は、ミリア……!」
私はその子をそっと抱き取った。
火照る額に手を当てると、微かに呻くような声がもれた。
目を閉じ、呼吸を整える。
祈りは、決して派手な儀式ではない。
――ただ、願うこと。
(……ノクティア様。この子の苦しみが、少しでも和らぎますように)
そのとき。
手のひらが、淡く光った。
誰もが息を呑んだ。
瞬間、少女の額の熱がゆっくりと引いていくのを、私は確かに感じた。
「……あ……」
母親の声が震える。
「ミリア……息が、楽になってる……!」
祈祷所に集まっていた民たちの間に、ざわめきが広がった。
「見たか……? いまの……」
「加護の光だ……! 聖女様の祈りが……!」
「やっぱり本物だよ。“夜の聖女”だ……!」
その瞬間だった。
遠巻きに控えていた神官のひとりが、何かを記録しているのが目に入った。
細かな筆跡で、出来事を逐一書き留めている。
(……また、監視……)
わかっていた。奇跡は、いつも記録される。
それが“統制”されている限り、祈りは教会のもの。
でも――
(これは、誰の祈りでもない。“わたし”の祈り)
そう思ったとき、胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
◇ ◇ ◇
祈りが終わったあとも、空気は張りつめたままだった。
赤子の額に触れていた手をそっと離し、私はミリアを母親の腕に返した。
「もう、大丈夫ですよ」
その声に、女は涙をこぼしながら何度も頭を下げる。
「……ありがとうございます。神の……いえ、あなたのおかげです……!」
――あなたのおかげ。
その言葉が、やけに胸に残った。
(……神ではなく、私に向けられた“祈り”)
それが、怖かった。
そして、ほんの少しだけ――嬉しかった。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
教会本院の地下に設けられた記録室では、密かに一枚の報告書が書き上げられていた。
書き手は、第二典礼長アグレオ直属の神官であるトレヴィス・ヘルマン。
冷静な筆致で、午後の祈祷における“異常事態”を記録していた。
“祈祷所にて、聖女セレスティア・ルミオールの独自祈祷を確認。
祈祷中、発光現象および対象者の即時快癒を確認。
通常の“神印経路”を経ぬ反応であり、介入魔力の記録は未検出。
本件、現象解釈不能につき“奇跡”と仮定する他なし。
ただし、教会による魔導経路の規定外挙動であるため、要監査。”
筆を置いたトレヴィスは、静かに息をつくと、それを羊皮紙で包み、封印を施した。
――“異端の兆候”
報告書の表紙に記された文字は、誰の目にも明らかだった。
◇ ◇ ◇
一方、翌日。
街のあちこちで囁かれる声が、静かに熱を帯び始めていた。
「昨日の祈祷、見た? あの光……本当に聖女様の祈りで――」
「“奇跡”って、ああいうものを言うのかもしれないな……」
「でもさ……あれ、本当に神様の力なの? それとも……彼女自身が?」
「え……?」
囁きは、疑念へと変わっていく。
「つまり、“彼女”が神様みたいなものなんじゃないかって……言う人もいるんだよ」
「まさか……でも、あのときの光……神官様たちも、困ってるみたいだったし……」
「じゃあ、もし“教会よりも上の存在”だったら――?」
そう語る声は、ごく僅かに過ぎなかった。
けれど。
信仰は、いつだって脆い。
そして、強い“確信”を持った者の言葉が、人々の心を揺らす。
◇ ◇ ◇
聖女寮の一室で、私はまた祈りを捧げていた。
昨日の祈祷のあとから、何かが変わった気がしていた。
ただの気のせいではない。
視線が増えている。
言葉にしない“問いかけ”が、背中に刺さる。
(……私の祈りは、間違っていた?)
あの子を救いたいと思った。それだけだった。
けれど、その行為が、“神の奇跡”として受け止められ、“規定違反”として報告される。
それが、“正しい世界”なのだろうか。
わからない。
けれど、ただ一つだけ、確かなことがある。
(私は……誰かのために祈りたい)
教会の規定のためでも、
信仰の象徴になるためでもない。
ただ、“救いたい”という気持ち。
その根源が、きっと私を“異端”とさせている。
◇ ◇ ◇
そして、その夜。
“祈りの鎖”がかけられた。
翌朝の巡回祈祷の直前、私は教会の高階神官に呼び止められた。
「本日以降、あなたの祈祷は、“選定祈祷”のみに制限されます」
淡々とした言葉。
「予定にない個別祈祷や、群衆への接触は許可されません。ご理解を」
告げられたその通達に、私はただ静かにうなずいた。
……それは、優しく言えば「統制」。
けれど、実際は――“拘束”だった。
私は祈ることすら、制限される存在になったのだ。
けれど、その日の午後。
また、事件は起きた。
◇
その午後、私は指示通り、監視付きの祈祷場にいた。
周囲には、祈祷記録官と二名の補佐神官。視線は無言の圧力となって私の背後に張り付いている。
祈祷対象者は選定済み。重篤ではなく、教会が「奇跡を演出しても問題のない」範囲に調整された患者たちだ。
それでも私は――祈った。
与えられた範囲の中で、私にできる限りの、言葉と想いを。
けれど。
その制限が、私を守る“囲い”だとは思えなかった。
それはむしろ、“この程度の祈りしか許さない”という、無言の枷だった。
◇ ◇ ◇
そんな中。
祈祷の順番にはなかった、一組の親子が祈祷場の入口に現れた。
母親の腕には、ぐったりとした小さな子ども。
「お願いです! この子を、どうか……!」
神官たちは即座に対応し、母親を制止しようとした。だが、その声に、私は無意識のうちに体を動かしていた。
「お子さんの名前は?」
「ルシアです……昨夜から熱が下がらなくて……!」
神官たちの制止が響く中、私はそっとその子の手を取り、膝をついた。
「ルシアちゃん……もう大丈夫」
祈りの言葉は、唇を通して形になる前に、胸の奥から溢れ出ていた。
――祈ることに、許可などいらない。
私は、私として、ただ目の前の命に向き合うだけだ。
「ノクティア様……どうか、この子にやすらぎを……」
瞬間、空気が変わった。
祈祷場の灯が、微かに揺れ、天井の彩色ガラスが淡く光を反射する。
まるで夜の帳が一瞬だけ、その場に舞い降りたかのような静寂。
そして、ルシアの身体から熱が引いた。
その頬にうっすらと赤みが戻り、こくり、と首が動いた。
「……ママ……」
小さく呟いたその声に、母親は泣き崩れた。
私の祈りが、また届いてしまったのだ。
◇ ◇ ◇
その場にいた神官たちは凍りついたように黙し、記録官は震える手で筆を走らせていた。
「……確認不能……魔力測定、誤差範囲外。既存の祈祷系統と一致せず……」
誰かが呟くのが聞こえた。
――制御外の祈り。
それは、もう“教会の祈り”ではなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、街の片隅で。
「聞いたか? 今日の祈祷……あの制限されたはずの“夜の聖女様”が、また奇跡を起こしたって」
「しかも、監視付きの場で……だろ? もうこれは……」
「神の御業なのか、それとも――」
「いや……あれは、彼女“自身”の力だよ」
声を落としながらも、確信を帯びた囁きが広がっていく。
“神の代理”ではなく、“神そのもの”のように。
もしくは、教会の枠では測れない、もっと根源的な“何か”。
その名は、人々の中で、変化していく。
“夜の聖女”から、“ノクティアの化身”へ。
――そして、その先には、異端と呼ばれる者の影がある。
◇ ◇ ◇
翌朝。
私は、いつも通り聖女寮の祈祷室にいた。
誰にも見られぬように、そっと石を握りしめながら、声なき祈りを捧げていた。
けれど、扉の外から、はっきりとした声が聞こえてきた。
「……どうするんです? このまま彼女を“聖女”と呼び続けるのか……それとも、“異端”として断じるべきなのか……」
「だが、彼女を異端とすれば、信仰そのものが分裂しかねない。あの祈りは、もう多くの者の“希望”だ」
「“偶像”は、やがて神を超える。……教会は、それに耐えられるのか?」
私は、扉越しの言葉に目を伏せた。
――祈りが届くたびに、私は少しずつ、“異端”になっていく。
それでも、私は祈る。
誰のためでもなく。
“私自身”が、祈りたいと願うから。
それが“神の御業”であろうと。
“私の力”であろうと。
――私の祈りは、誰かの痛みを癒すためにある。
◇ ◇ ◇
その日から、“夜の聖女”という言葉に、新たな意味が与えられ始めた。
それは、教会が管理する聖性ではない。
人々が心の底から望み、祈りを託す、“もうひとつの信仰”。
セレスティア・ルミオール。
光と闇の狭間に立つ、“神にも、異端にもなり得る”存在。
教会は、まだその結論を出せないまま、揺れ続けていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回のお話では、「祈り」という行為が持つ、本質的な力と危うさを描きました。
“信じる”という純粋な行為が、人を救うこともあれば、“制度”や“権威”の目から見れば、異端ともなり得る――
そんな揺らぎの中で、セレスティアは「それでも祈る」ことを選びます。
祈りは誰のためのものか。
神のため? 教会のため? それとも――痛みに寄り添いたいという、自分自身の願いのため?
「善意ですら、制度にとっては脅威になりうる」
そんな現実の社会にも少しだけ重なるような、微かな矛盾と対立を織り交ぜてみました。
今後、彼女が“聖女”としてどう在るのか、
あるいは“異端”として生きることになるのか――
読者の皆様と一緒に、見届けていけたら嬉しいです。
次回も、静かに、でも確かに揺れ動くセレスティアの物語をお届けします。
それではまた、次の祈りでお会いしましょう。
──星空りん




