62 揺らぐ教会、揺らがぬ祈り
その揺らぎは、当のセレスティアにも、ゆるやかに届きつつあった。
夜の祈祷を終えた後、彼女はひとり、聖女寮の屋上に出ていた。
夜風が、黒銀のマントをはためかせる。
見上げた空には、雲の隙間から満ちかけの月が顔を覗かせていた。
(……こんなに高いところまで、私は来てしまった)
下を見れば、かつて自分がいた場所は、もう遠い。
名もなき少女として祈っていた日々。
誰にも届かない声を、ただ静かに捧げていた時間。
今の自分は、“聖女”と呼ばれている。
けれど、その名は、自分の祈りではなく、教会の都合によって与えられたもの。
(私は……“偶像”なんだ)
その自覚は、静かに胸に広がっていた。
笑顔も、祈りも、衣装も、言葉すらも。
それらのほとんどは、教会が望む“聖女像”として与えられたものでしかない。
(なのに、それでも……)
幼子の手を取ったときの、あの温もり。
咳が止まり、顔に戻った色。
母親の震える声。
あれだけは、偽れなかった。
それを思い出すたびに、胸の奥の祈りが、まだ“私”であり続けようとしているのを感じた。
(私は、祈りたい)
誰かのために。
痛みのそばにある者のために。
(たとえ、この祈りが……檻の中にあったとしても)
そのとき、足音がした。
ふいに扉の方を振り返ると、そこには――
あの少女の姿があった。
名もなきまま、ただセレスティアのそばにいた、あの無邪気で、けれど強い瞳を持つ少女。
マルシェだった。
「……見てたよ」
彼女は、屋上の隅に立ち、そう言った。
「“誰かのための祈り”って、本当は、誰よりもつよいんだよね」
その言葉に、セレスティアは、小さく目を見開いた。
(……あぁ)
この子は、知ってくれている。
何も語らなくても、何も押し付けなくても――祈りの本質を、ちゃんと感じてくれている。
言葉がなくても、伝わる想いがある。
だからこそ、祈りは、言葉を超えられるのだと。
(私、まだ……届くんだ)
その夜、祈りはまたひとつ、自由を得た。
たとえそれが、束の間のものだったとしても。
◇ ◇ ◇
マルシェは何も言わずに近づいてきて、私の隣に立った。
風が吹く。マントと彼女の髪が、同じ方向へなびいた。
空を見上げながら、彼女はぽつりと呟いた。
「……ねえ、セレスティア様ってさ。本当は、どんな風に祈りたいの?」
その言葉は、まるで風に乗って落ちてきた問いのようだった。
誰かの意図でもなければ、教会の策でもない。
ただ、ひとりの少女として、彼女が投げかけた素朴な疑問。
私は、少しだけ目を伏せてから、ゆっくりと答えた。
「静かに……ただ、その人のために。
痛みや、苦しさや、不安に寄り添えるように。
名前も知らなくても、その心に、そっと触れられるような……そんな祈りが、したいの」
マルシェは黙って、それを聞いていた。
否定もせず、肯定もせず。
ただ、真っ直ぐに私の声を受け止めていた。
それが、どれほど救いになったか、彼女は知らないかもしれない。
「……じゃあ、それを、ちゃんと見てる人もいるって、信じていい?」
彼女は小さく笑って言った。
「わたしとかさ。あと、きっと……他にもいるよ。大人だって、偉い人だって、ちゃんと感じてる人、いると思う」
「……うん」
私は、小さく頷いた。
それは確かな希望ではなかったかもしれない。
けれど、“言葉のない祈り”が届いているという、そのたったひとつの実感が、私を支えてくれていた。
その夜、私たちはしばらくの間、無言で同じ空を見上げていた。
月はゆっくりと雲の奥へと隠れていく。
けれど、不思議とその夜は、暗くなかった。
私の中に、小さな灯がひとつ、揺れずにともっていたから。
◇ ◇ ◇
一方その頃、教会本院の最上階――
議長室では、宗政評議長マルティアス・クレヴィンが、ひとり机上の文書に目を通していた。
窓の外には、星一つない闇夜。
その視線は静かで、しかし鋭く、何かを見据えていた。
机の上には、今朝の街頭祈祷の詳細報告と、民衆の反応をまとめた記録、そして一枚の異端報告書が並べられていた。
そこにはこう書かれていた。
“聖女セレスティア・ルミオールの祈りにおいて、規定外の行為が確認された。
対象は幼児。事前通達なし、即時の接触・独自の祈祷。
結果、症状は沈静化し、民衆の歓声および信仰心の顕著な高揚を伴う。
ただし、形式逸脱の懸念あり。監視対象として今後も継続的な観察を必要とする。”
マルティアスは、その文を黙読し終えると、静かに目を閉じた。
そして、ふと小さく呟いた。
「偶像は、意志を持ち始めたか……」
彼は一枚の羊皮紙を手に取る。
そこには、聖導主へ提出される次回会議の議題案が書かれていた。
その第一項目には、こう記されていた。
― “聖女セレスティアの祈祷権限制限および今後の教導方針について” ―
その筆致は整然としていたが、その裏にある意図は明らかだった。
祈りは、教会の手の中であらねばならない。
それが、権威を維持するための根幹だからだ。
けれど。
その中で、ひとりの少女だけが、“言葉のない祈り”を胸に抱きながら、なおも、揺るがぬ想いを守っていた。
そのことが、やがてこの教国の深部を――確かに、揺らしていく。
◇ ◇ ◇
次の日、聖堂の上階にある政務議事室では、宗政評議会の臨時集会がひそやかに開かれていた。
大広間ではなく、選ばれた者しか通されることのない、石造りの円卓を囲んだ小部屋。円環の天井には祈りの象徴を象った文様が彫り込まれ、窓には古い聖書を模した彩色ガラスがはめ込まれている。
けれど、その静謐な空気とは裏腹に、室内には目に見えぬ緊張が張りつめていた。
「……つい先日の“街頭祈祷”の件、あれはどういう意図による行動だったのか。事前に知らされていた我々の式次第には、群衆への“個別祈祷”など、記載されていなかったはずだ」
低く抑えた声でそう言ったのは、灰衣を纏う第二典礼長、アグレオ・ファン。祈祷運営の実務を担う立場として、彼はここ数日、明らかに苛立ちを隠せずにいた。
「勝手な逸脱だ。……仮に奇跡と呼べる結果が出たとしても、それは“統制の範囲”にあるべきだった」
その言葉に、評議員のひとりがうなずく。
「逆に言えば、“統制されていない祈り”に、それほどの奇跡を起こす力があるということです。……ならば、あの聖女の力は、我々の支配構造にとって“例外”ということになる」
ぽつりと漏れたその言葉に、場の空気が微かに動く。
「例外は、時として崇拝の対象になり得る。だが、崇拝が逸脱すれば、教義そのものが揺らぐこともある。……それを我々は、認められますか?」
そう静かに告げたのは、宗政評議長・マルティアス・クレヴィンだった。
年老いた指で静かに書面を撫でながら、彼は誰の方を向くでもなく、ただ円卓の中心へと言葉を置いた。
「……この場において、我々は教義を守る者であると同時に、“神託の演出者”でもある。奇跡を奇跡とするのは、我々がそれを“奇跡として認定する”からだ」
幾人かの評議員が、神妙な顔つきでうなずいた。
しかし、その中には、何かを思い留めるように、口を閉ざした者もいた。
「そのうえで問おう。セレスティアという存在が、“制御”を越えて“信仰”の対象になろうとしているなら――我々はそれを、黙認すべきか?」
誰も答えなかった。
聖女の奇跡は、確かにあった。だが、それが教会の管理下にあるのか、それとも“神の介在”そのものか。もし後者であるなら――それは、教会という体制の意味を問うことにも繋がる。
その危うさを、彼らは肌で感じ取っていた。
マルティアスは、長い沈黙のあとで一言、こう締めくくった。
「……決して、偶像を生むな。我らは祈りを管理する者であって、祈りにひれ伏す者ではない」
その声は、誰よりも冷静で、そして誰よりも静かな怒りを孕んでいた。
◇ ◇ ◇
夕暮れの光が、聖女寮の窓辺を朱に染めていた。
静かな部屋の中、私は机の前に座り、手元の祈祷書を開いていた。
けれど、そのページの文字は、なかなか目に入ってこなかった。
――今日は、もう三人目だった。
民衆の前に立たされ、言葉を与えられ、祈りを求められる。
それだけの一日。
誰かが倒れれば、手を差し伸べ、加護の奇跡を示す。
子どもが泣けば、頭を撫で、やさしい笑顔を浮かべる。
――“聖女”として、ふさわしく。
けれど、それらの祈りが、果たして“私の祈り”だったかどうか、わからなくなる時がある。
それでも。
私は祈る。
この手でしか、誰かを癒せないのなら。
この声でしか、誰かを救えないのなら。
それが、誰かに仕組まれた“祈り”であったとしても。
(……わたしは、それを選ぶ)
そっと両手を重ね、胸元ではなく、自分自身の中心へ向かって、祈りを結んだ。
けれどそのとき。
窓の外から、かすかな声が聞こえた。
「……あの方こそ、本物の聖女様だよ。だって……あの目、わたし、見たんだ」
若い少女の声。どこかはしゃいだような、けれど敬意を滲ませた響きだった。
「夜の女神の加護が、あんなふうに宿るなんて……やっぱり、選ばれた方なんだね」
「“夜の聖女”って、もう皆がそう呼んでるよ。ノクティア様の象徴だって。今の教会で、いちばん本物なのは、きっとあの人だよ」
声は少しずつ遠ざかっていき、やがて静寂が戻った。
でも、その言葉は、胸の奥に残り続けていた。
(……“夜の聖女”)
ノクティアの名のもとに崇められ、称えられる存在。
光の下ではなく、闇の中に咲く花のように――
けれど。
それは、私が望んだ形ではなかった。
(偶像……)
誰かの祈りの象徴として見上げられる存在。
その“像”は、きっと、わたしではない。
それでも。
(それでも……)
誰かの苦しみに、手を伸ばせるのなら。
誰かの涙を、少しでも止められるのなら。
私は――偶像でも、祈り続ける。
たとえそれが、偽りの自由の中であったとしても。
◇ ◇ ◇
夜が深まり、祈りの鐘が遠くで鳴った。
静寂が、聖女寮の廊下にも降りてくる。
窓の外には月は見えず、ただ淡く冷たい闇が広がっていた。
私は、自室のベッドの上に座っていた。
膝の上には、小さな祈りの石。
昼間、街で救った幼子の母親から贈られたものだった。
「……祈ってください。この子がまた熱を出さないようにって、毎日、願っているんです」
あのとき、そう言われて渡された石。
素焼きの小石に、黒銀の糸でノクティアの紋が描かれていた。
大切に握られていたその石は、指の跡が残るほどに擦り減り、ところどころ文字がかすれていた。
――それはきっと、母の祈りの跡。
誰に知られることもなく、毎日を祈りで満たしていた誰かの想い。
(……本当は、わたしなんかより、ずっと聖女みたい)
そう思った瞬間、胸の奥が静かに揺れた。
私に向けられる無数の視線。
私に託される、祈りの形。
そのひとつひとつに、私は応えられているだろうか。
それとも、ただ“象徴”としての顔をして、うわべだけの安寧を与えているのだろうか。
わからなかった。
でも、わからないままでも、祈り続けるしかない。
(……祈りは、いつだって不完全で、届くかどうかもわからない)
けれど、それでも、祈る。
私は小さく息を吸い込み、手のひらの石を包み込んだ。
「……ノクティア様。
この祈りが、たとえ誰にも届かなくても――
わたしの中にある想いだけは、偽りではありませんように」
それだけを願って、目を閉じた。
闇の中で、誰かのために。
たったひとつの祈りが、今夜も捧げられる。
“聖女”の名ではなく、“私”としての祈りが、そっと灯る。
沈黙の闇に寄り添いながら、静かな決意を胸に。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。
第62話『揺らぐ教会、揺らがぬ祈り』では、
セレスティアの祈りが“誰かのため”から“組織の意図”へと利用され、
その存在が次第に“偶像”として扱われていく過程を描きました。
信じてきた祈りが、いつのまにか誰かの意志で塗り替えられていく。
それでも彼女は、祈ることをやめませんでした。
誰かの心に、ほんの少しでも届くなら――と。
この物語が少しでも、何かを感じていただけるきっかけになれたなら嬉しいです。
もしよろしければ、感想やブックマーク、評価などで
応援していただけるととても励みになります。
みなさんの一言が、物語を進める原動力です。
それではまた、静かに、祈りの続きを紡いでいけますように。
――星空りん




