61 名ばかりの自由、祈りの檻
朝の光は、白く静かだった。
聖女寮の一室。窓から差し込む陽光は、床に置かれた花瓶の水面をかすかに揺らし、淡い輝きを作っていた。
けれど、その柔らかな光の中にあっても、私の首元で冷たく光る《聖環ノクティア》は、変わらずその存在を主張し続けていた。
起床の鐘が鳴るよりも早く目を覚まし、私は身支度を終えていた。
今日の装いは、教会から新たに支給された儀式衣。
夜の空を思わせる漆黒のドレスに、銀糸で縫い上げられた沈黙の月の刺繍があしらわれている。背には長く流れるようなマントが付き、歩みとともにかすかに揺れる。
鏡に映るその姿は、“聖女”として申し分のない威厳と神秘を備えていた。
――けれど。
(……これは、わたしじゃない)
誰よりもそう思っているのは、きっと私自身だった。
これは、“わたし”ではなく、“そうであるように仕立てられたもの”。
鏡の中の少女が身に纏う祈りは、私の祈りじゃない。
けれど、それでも――今日も、祈らなければならなかった。
なぜなら今日は、聖都ルミナリアの中央広場にて、民衆の前での祈祷式が予定されていたからだ。
“夜の聖女”として、ノクティアの名を掲げ、教会の加護を示す儀式。
街にあふれる人々の前で、“奇跡”を演出し、信仰を深めるための舞台。
それが、いまの私に課された役割だった。
「聖女セレスティア様、御出立の時間です」
扉の外から、控えの女官の声が響いた。
私は小さく返事をして立ち上がり、姿見の前で最後に身なりを整える。
手袋、襟の位置、聖環の角度……すべて整えた上で、深く息を吸った。
(行こう)
心の中でそう呟いて、私は静かに部屋を後にした。
◇ ◇ ◇
街はすでに人であふれていた。
白石の広場には、聖女の到着を待ちわびる民衆がぎっしりと詰めかけている。老若男女を問わず、信徒たちは皆、ノクティアの象徴を模した黒銀の飾りを身につけ、手に手に祈りの札を掲げていた。
騎士の先導とともに、私を乗せた馬車がゆっくりと進むたび、歓声と祈りの声が四方から押し寄せてくる。
「ノクティアの聖女様だ……!」
「奇跡を……どうか、加護を……!」
「夜の女神よ、我らに安寧を!」
その呼びかけに、私は窓越しに小さく会釈を返す。
作られた笑みとともに。
本物の“祈り”ができる場は、もうどこにもなかった。
◇
用意された壇上に立たされると、広場にいた群衆がいっせいにひざまずいた。
整然と並ぶその姿は、壮麗さを通り越して、まるで“儀式”そのものだった。
私の手には、ノクティアの祈祷書が握られている。
それは形式的な文言を並べた祈祷文。
誰かを救うための言葉ではない。
ただ、教会が“奇跡”を演出するための言葉。
けれど、それを読み上げることが、いまの私に求められている。
「……夜の女神よ、我らに癒しと安寧を。
祈りは沈黙のうちにあり、加護は静けさの中に宿る……」
自分の声が、どこか遠くに感じられた。
その瞬間――
民衆の中で、ある幼子が咳き込む声が聞こえた。
母親に抱かれたまま、顔を青くし、苦しげに身体を丸めている。
私は祈祷の言葉を中断し、無意識のうちにその子の方へと歩き出していた。
衛兵が慌てて制止しようとするも、私の歩みは止まらなかった。
「……この子に、少しだけ祈らせてください」
私がそう告げると、周囲の空気が変わった。
民衆が驚きの声を上げる。
衛兵が困惑する。
司祭たちは小声で何かを言い合っている。
けれど私は、ひざをついて、その子の手にそっと触れた。
「……苦しいの、少しでも和らぎますように」
それだけの祈りだった。
ほんの、ささやかな願い。
でも、それだけで――その子の咳は止まり、顔に色が戻っていった。
母親が、震える声で私に礼を言った。
「ありがとう……聖女様……!」
その言葉に、私は何も返せなかった。
だって、それは“私の祈り”じゃない。
本当は、こんな形で祈りたくなかった。
(でも……それでも)
目の前の小さな命が、少しでも楽になるのなら――それでいい。
それしか、もう私には残されていない。
◇ ◇ ◇
式典後、控えの間へと戻された私を待っていたのは、教会の上級司祭たちによる“静かな叱責”だった。
言葉にこそしなかったものの、視線と沈黙が語っていた。
――予定外の行動は、許されない。
「ノクティアの御名をもって癒したこと、感謝しております」
そう言ったのは、儀式の執行を担当していた年配の神官だった。だがその声音には、わずかな棘が含まれている。
私は目を伏せ、形だけの言葉を口にした。
「……お許しください。思わず……」
「思わず、というのは、聖女にあるまじき言葉です」
鋭い声が、その場に冷たい空気をもたらした。
私は、それ以上、何も言えなかった。
(ほんとうは……)
あのとき感じた、小さな命のぬくもり。
母親の涙。
そして、祈ったあとの、自分の胸に残った“確かな感触”。
それらすべてが、いまはただ、自分の中に押し込めるべきものとされる。
私は「聖女」でありながら、「自分の祈り」を持ってはいけない。
(だったら、私は……なんのために)
――そう思ったときだった。
足元で、かすかに風が揺れた。
窓の外から吹き込んだ風が、私の黒いマントの裾を揺らす。
その動きに合わせて、《聖環ノクティア》の金具が、かすかに音を立てた。
耳障りなほどに澄んだその音は、まるで「自由はもうない」と告げているかのようだった。
◇
その夜。
祈りの時間は与えられていた。
だが、場所は決められていた。
文言も定められていた。
加護の効果が発揮される範囲すら、あらかじめ“演出”されていた。
私は――言われたとおりに、膝をついた。
けれど、胸の奥では、ただ一つの問いが渦巻いていた。
(ノクティア様……これでいいのですか)
夜の女神よ。
痛みとともに在る御方よ。
私は、誰かを救えているのでしょうか。
それとも、ただの“象徴”として、人々の前に立たされているだけなのでしょうか。
返事は、なかった。
風も、音も、沈黙さえも――何も答えてはくれなかった。
だから私は、その静けさの中に、祈りを捧げた。
誰にも聞こえない、言葉のない祈りを。
それだけが、まだ、私の中に残された“自由”だった。
◇ ◇ ◇
祈りを終えたあとも、私はしばらくその場を動けずにいた。
跪いたまま、両手を組み、ただ瞼を閉じる。
誰にも届かないとしても。
どんなに偽りに囲まれていても。
この沈黙の時間だけは、私自身のものでありたいと願っていた。
だが。
首筋に絡む感触が、また思考を引き戻す。
《聖環ノクティア》。
その名を心の中で呼ぶことすら、どこか忌避するようになっていた。
(……これは、枷)
誰に教えられたわけでもない。
でも、わかる。
外そうとしても、外れない。
動くたびに、ほんのわずかに魔力の流れが乱れる。
それが、内側で抑制されるような違和感を生む。
明らかに、これは“管理されている”。
なのに、誰もそれを枷だとは言わない。
あくまで「加護の印」、あるいは「神との絆」。
そう言いながら、私の祈りは、あの日からずっと、教会に繋がれている。
(だったら……これは、祈りの檻)
私は、神に祈ることさえ、自分で選ぶことができない。
それでも、祈ってしまうのは――
(誰かの痛みが、見えてしまうから)
助けたい、と願ってしまうから。
その気持ちさえ、否定されたら。
私はもう、“わたし”として在る意味を、失ってしまう。
◇
翌朝、再び“聖女”としての役割が始まる。
新たな祈祷の場が設けられたとの知らせとともに、私は再び儀式衣を身に纏い、民衆の前に立たされる。
その日、私は“加護をもたらす象徴”として――
“夜の聖女”と讃えられた。
ノクティアの象徴を掲げるその姿に、人々は深く跪き、賛美の言葉を惜しまなかった。
けれど。
彼らの見つめる先にいた“聖女”は、もう“セレスティア”ではなかった。
それは、教会によって形作られた“存在”――
自らの祈りを封じ、他者の望む姿を生きる、祈りの檻に囚われた少女だった。
誰の叫びも、誰の痛みも。
この手に届くことのない、制御された奇跡の中で。
それでも私は、祈った。
せめてこの声が、闇の中にある誰かの救いになっていると、信じたかったから。
たとえ、それが――
言葉のない、静かな祈りだったとしても。
◇ ◇ ◇
――そして、静かに波紋が広がっていた。
その日、“夜の聖女”が見せた祈り。
ひとりの幼子を救った、たった一度の逸脱。
それは、祝福として人々の記憶に刻まれたが、同時に、教会の中では“異変”として扱われていた。
教会本院・第三会議室。
ここは、聖導主の直属ではなく、宗政と儀礼を司る中枢に属する者たち――すなわち、現実の力を握る幹部たちが会する場所である。
「……彼女の行動を、我らが黙認していては、秩序が保たれません」
厳めしい顔をした神政執務官が、静かにそう告げた。
「ですが、あの祈りには“実在する力”がありました。民衆の支持も、確実に得ております」
それに対抗するように答えたのは、青年神官長・カルヴァン。かつて新進気鋭と称された才覚の持ち主であり、聖女制度の再編を主張してきた人物である。
「信仰は、形式を超えた時にこそ真価を得ると、私は思います」
「真価、だと?」
執務官の口元が歪む。
「我らが築いてきた祈祷式の体系を否定するつもりか? 形式こそが“奇跡”を安定させてきたのだ。ひとりの少女の情動に、すべてを揺るがせてはならぬ」
「しかし、彼女の祈りは――“自発的なもの”でした。それゆえに、人の心に届いた」
カルヴァンはまっすぐに言葉を重ねる。
会議室に集う者たちの表情はさまざまだ。
肯定の色を含む者。
黙して静観する者。
苛立ちと警戒を隠さない者。
そのすべてが、ひとつの事実を映し出していた。
――教会は、いま、揺らぎはじめている。
第61話では、セレスティアが“夜の聖女”として街へ祈りに出る姿を通して、彼女の自由が名ばかりのものであること、そして祈りが“誰かのため”から“演出”へと変質していく苦悩を描きました。
それでも、ほんのひとときでも“自分の祈り”で誰かを救おうとする彼女の姿が、読んでくださった皆さまの心に少しでも届いていたら幸いです。
今後、セレスティアの物語はさらに深く、祈りの意味と向き合う展開へと進んでいきます。
ぜひ、続きが気になる方はブックマークしていただけると嬉しいです✨
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それでは、また次の祈りの章で――
――星空りん




