59 鎖を戴く聖女
その知らせが届いたのは、ある日の夕刻だった。
食堂での祈りを終えた直後、私の名が、聖導庁の使いによって呼ばれた。
静まり返った空気のなか、周囲の候補生たちが一斉に顔を上げる。
その視線の意味は、もう知っている。
恐れ、困惑、そして――境界線を引くような距離。
けれど私は、ただ立ち上がった。
「……はい。セレスティア・ルミオール、参ります」
そう言って、私は静かに膝を折り、聖導の使者に一礼を捧げた。
彼は何も言わなかった。ただ、手にした巻物を私に差し出す。
開かれた羊皮紙には、こう記されていた。
『六柱の女神の御前において、汝、祈りを捧げし者は、
ノクティアの意志を継ぎ、加護の御座を受けるべし。
よって、正式に“本聖女”として任命し、″聖環ノクティア″を授ける。
聖導主の御裁可のもと、儀礼の準備を整え、ただちに参列のこと』
私はその場で、深く頭を垂れた。
自室へと戻ったあとも、胸の奥のざわつきは消えなかった。
◇ ◇ ◇
夜、ろうそくの灯だけが揺れる部屋の中で、私は衣装箱の前に膝をついていた。
届けられたのは、見たこともないほど豪奢な装束。
深い紺と銀で織られた長衣。
胸元にはノクティアの象徴である“沈黙の月”が刺繍されている。
薄布のヴェールも添えられていた。
その縁には、無数の小さな銀の糸が編み込まれている。
着ることに、拒む理由はなかった。
ただ――その意味が、わからなかった。
“聖女”という名。
それは、ほんとうに“祈れる者”に与えられるものなのか。
(わたしは、ただ……)
誰かの痛みに寄り添いたかっただけ。
名前も、役職も、何もいらなかった。
でも。
それを“与えられた”いま――
その意味を、自分自身で問い直さなければならなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、空は晴れていた。
聖堂に続く白い回廊の床は、水を打ったように清められ、
すでに参列者の祈りと整列の準備が始まっていた。
リメルが、付き添いとしてそばにいた。
「……この装束、よく似合っています」
彼女の声は、淡々としていたが、どこか寂しさを滲ませていた。
私は小さく笑った。
「……似合っていたら、それでいいんです。
どうせ、誰かが決めたものだから」
「……いえ。
“似合っている”のではなく――“あなたが、似合わせた”のです」
その言葉に、私は少しだけ肩の力を抜いた。
この先に――“新しい名”が待っている。
それがどんな意味を持つのかは分からない。
けれど、それでも、私は歩いていく。
◇ ◇ ◇
聖堂の扉が開かれたとき、
まるで光そのものが降り注いだかのようだった。
白亜の柱が連なる中央通路。
祭壇へと続くその道の両側には、純白の儀衣をまとった神官たちが静かに列をなしていた。
祈祷台の上、銀の台座に据えられていたのは――《聖環ノクティア》。
それは、まるで月の光を編んで作られたかのような美しさだった。
細やかな彫刻。清廉な輪郭。
中央に輝くのは、ノクティアの象徴とされる“沈黙の月”。
すべてが整いすぎていて、隙がなかった。
――それでも、ほんの一瞬だけ。
その輪の内側に、言葉にならない違和感が、ふと胸の奥をかすめた。
どこか、冷たい。
それが“何に由来するものか”など、わたしには分からない。
けれど、その美しさの奥に、何かが“沈んでいる”ように感じたのは、きっと気のせいではなかった。
◇
聖堂には、上層幹部の神官たちがのみ参列していた。
信徒は一人もいない。
それは、この儀式があくまで“制度”のもとに行われるものだという、教会からの無言の宣言だった。
儀典官が、声を張らず、けれどはっきりと読み上げる。
「――ノクティアの座を継ぎ、六柱の意志を地に示す者。
その祈りは、沈黙に宿り、癒しの光となる」
「ここに、“本聖女セレスティア・ルミオール”を任命し、加護の環を授ける」
私は、ゆっくりと前へ進み、祈祷台の前にひざを折った。
手を胸の前に重ね、目を閉じる。
祈りの言葉は、誰にも聞こえないほど小さく、けれど確かに紡がれた。
「……祈りは、神に捧げるものではなく……
誰かの涙に、そっと寄り添えるものでありますように――」
それが、わたしの“誓い”だった。
◇
儀典官が聖環を持ち上げる。
両手で捧げ持たれたその輪が、わたしの首元へとゆっくり近づいてくる。
その動きは極めて慎重で、まるで祝福の儀式のように見えた。
けれど、聖環が肌に触れたその瞬間――
空気の質が、わずかに変わった。
温度ではない。
風の流れでもない。
まるで、胸の内で“何かが静かに沈んだ”ような感覚。
(……なぜ?)
思考は言葉にならなかった。
それでも、わかっていた。
この環は“美しいだけのもの”ではないと――
理由も根拠もなく、けれど確かにそう感じた。
◇
「――これにより、ノクティアの聖女は、“導環”を授かり、
六柱の神々の下において、その身と祈りを委ねるものと定める」
その宣言が、わたしの背中を冷やした。
聖導主は一言も発しなかった。
だが、その沈黙こそが、この任命の正当性――
神意としての“裁可”を示していた。
◇
儀式が終わったあとも、わたしは動けなかった。
聖環は軽い。重さなど感じない。
けれど、胸の奥で何かが、静かに軋む音を立てていた。
「……セレスティア様、おめでとうございます」
誰かがそう言った。
それに、わたしは小さく頭を下げた。
もう、どう応えればいいのか、分からなかった。
それでも、ひとつだけ言葉にできるものがあった。
(……たとえ、祈りのかたちが変えられても)
(この手の中に、祈りがあるかぎり――わたしは、祈り続ける)
◇ ◇ ◇
夜が訪れた。
儀式を終えた日の聖女寮は、どこかいつもより静かだった。
空気に満ちる魔素さえ、息を潜めているように思える。
私は、部屋の中でひとり、窓辺に座っていた。
首元には、今日授けられたばかりの“加護の環”――銀の輪が、冷たく光っている。
その感触は、もう肌に馴染んでいた。
違和感は薄れてきているはずなのに、なぜか――ほんの少し、呼吸が浅くなるような気がしていた。
指先で、そっと首に触れてみる。
輪はぴたりと肌に寄り添っていて、継ぎ目も、留め具も見当たらない。
わずかに力を込めてみても――びくともしなかった。
(……外せないんだ)
本来なら、儀式のあとに外すための手順があると思っていた。
誰かが教えてくれるものだと、当然のように思っていた。
でも、何の説明もなかった。
ただ、首に添えられて、嵌められただけ。
それきりだった。
……まるで最初から、ずっとそこにあるもののように。
◇
ふと、思い出す。
あの午後の出来事を。
礼拝堂の掃除の時間。年長の候補生のひとり――マルシェという少女が、突然倒れた。
顔色を失い、唇は紫がかっていて、手は氷のように冷たかった。
私は無意識のうちに隣にしゃがみ、彼女の手をとっていた。
「……祈らせてください」
誰に向けた言葉かもわからなかった。
でも、止める者は誰もいなかった。
そっと、静かに目を閉じて、ただ願った。
「神さま……この人が、明日を迎えられますように。
この苦しみが、やわらぎますように。
どうか、笑える日が、また来ますように――」
小さな祈りだった。
でも、そのとき――彼女の唇に、ほんのりと血の色が戻った。
「……あれ?」
瞬きをしながら、頬に手を当てたマルシェの顔は、どこか不思議そうで、少しだけ安心したようにも見えた。
◇
その夜、私は中庭で祈っていた。
誰もいない、風の通る静かな場所。
そのとき、マルシェがそっと現れて、声をかけてきた。
「……あのとき、ありがとう」
短く、それだけ。
でも、その声には、確かな感謝が宿っていた。
私は小さく首を振った。
「祈っただけです。……ほんとうに、届いたのかもわからないけれど」
「ううん。届いてたよ」
そう言って微笑んだマルシェの表情は、どこか少し寂しげだった。
そして、彼女はこう続けた。
「でも、セレスティア。気をつけてね」
「……なにを?」
「“祈り”って、不思議な力だから。人の心を救うこともあるけど――
同じくらい、怖がられることもあるんだよ」
その言葉が、胸の奥に残っていた。
――その意味が、いまなら少しだけわかる気がした。
◇
窓の外には、月が静かに浮かんでいた。
中庭の影が揺れ、草葉が風にそっとなびくのが見える。
(わたしは、“聖女”になった)
けれどそれは、望んで手に入れた名ではない。
自ら選んだ祈りのかたちでもなかった。
それでも。
私は、胸の前で静かに手を重ねる。
聖環が、骨の上でわずかに冷たく沈んだ。
「……ノクティア様。
この祈りが、誰かの涙に届きますように。
声にならなくても、そっと寄り添えますように――」
祈ることしかできない。
でも、それだけは、わたしの中に確かにある。
名前でもなく、役目でもなく。
ただ――祈りそのものが、わたしという存在なのだと。
第59話『鎖を戴く聖女』、最後までお読みいただきありがとうございました。
今話では、ついにセレスティアが“本聖女”として正式に任命され、“聖環ノクティア”を授けられる場面が描かれました。
静かで荘厳な儀式の裏に秘められた意図、そして誰もが口にしない「制御」という言葉。
祝福に見せかけたその構造の中で、祈りだけを信じてきたセレスティアが、“聖女”という制度に組み込まれていくさまを、丁寧に綴らせていただきました。
彼女が得たものは「名」と「環」――そして、かすかに冷たい沈黙でした。
それでも、セレスティアは“祈り”だけは手放さず、心の奥で誓い続けています。
このあと彼女がどう歩んでいくのか、見守っていただけたら嬉しいです。
感想やブックマーク、評価なども、とても励みになっています。
次話もどうぞよろしくお願いいたします。
⸻星空りん




