60 言葉のない救いを信じて
聖女任命の儀から三日が経った。
けれど、世界は何も変わらなかった。
いや、変わらないふりをしているのかもしれない。
神殿の廊下を歩くたび、すれ違う神官や候補生たちは誰もが形式的な挨拶だけを交わし、すぐに目を逸らす。
まるで、見てはいけないものを見るように――あるいは、関われば“同じ運命”が及ぶとでも思っているかのように。
足音だけが、白い石床に響いた。
歩き慣れたはずの道が、どこまでも遠く感じる。
私はただ、無言で祈祷室へと向かっていた。
静かに、祈るために。
◇ ◇ ◇
扉を閉じた瞬間、ようやく胸の奥の息が抜ける。
この空間だけは、まだ私のままでいられる気がするから。
祈祷台の前にひざをつき、手を組む。
でも、言葉はなかなか浮かんでこなかった。
目を閉じて、何度も問いかける。
(――これは、本当に“祈り”なのだろうか)
名を与えられ、環を授けられて、こうして祈ることを許された。
けれど、“祈りたい”と願った、あのときの気持ちとはどこか違っている気がした。
私は今、“祈るべきだから”祈っているのかもしれない。
「……神さま。どうか……」
声は震えていた。
その震えが、どこから来るものなのか、自分でもわからなかった。
◇
祈祷のあと、中庭に出ると、そこにはマルシェの姿があった。
彼女はそっと、私に歩み寄ってきた。
「……あのさ。わたし、あれからちょっとずつ元気になってきたの。
昨日なんて、走ってみたら、全然息切れしなくて……ね、すごくない?」
その笑顔は、たしかに以前より明るかった。
私は微笑み返した。
「それは……よかった」
「でも、セレスティア……最近、ちょっと元気ないよね」
私は、少しだけ視線を逸らした。
「そんなこと……ないよ」
「うそ」
マルシェは、まっすぐに私を見ていた。
「ねえ。なにかあったら、ちゃんと言って。
わたし、セレスティアに助けてもらったのに……何も返せてないから」
「……ありがとう。でも、大丈夫だから」
そう言った声が、自分でも少しだけ遠くに感じられた。
◇ ◇ ◇
その夜、私は夢を見た。
薄暗い神殿の中にひとり立ち尽くす、自分の姿。
首元には、銀の輪。
誰もいない。
祈っても、声は届かない。
何度も、何度も、誰かの名前を呼ぼうとした。
けれど、声が出ない。
ただ、沈黙だけが、永遠のように続いていた。
◇ ◇ ◇
目を覚ましたとき、喉がひどく乾いていた。
夜明け前の淡い空気の中で、私はただ、静かにベッドの上に座っていた。
聖環は、相変わらず冷たい。
まるで夢の中の沈黙を、そのまま引きずっているようだった。
そっと手を当てる。
祈るように。
でも――
その祈りの先に、“誰か”が本当にいるのか、私はまだ確信を持てずにいた。
◇ ◇ ◇
翌朝、目を覚ましたとき――胸の奥に、妙な重さが残っていた。
夢を見ていたのかもしれない。
だが、その内容は覚えていなかった。
ただ、ひとつだけ。
夢の中で誰かが私の名を呼んだ気がする。
優しくもなく、冷たくもなく。
ただ、無感情な、沈黙のなかから響くような声だった。
窓の外は、すでに薄明かりに染まっていた。
けれど、朝の鐘はまだ鳴っていない。
ほんの短い静寂の時間。
私は、ベッドを離れ、ゆっくりと鏡の前に立った。
淡い光に照らされた自分の姿が、そこに映っていた。
ノクティアの象徴を刻まれた、深い紺の儀装束。
首元には、授かった聖環が、まるで最初からそうあるべきもののように馴染んでいる。
(……わたしは、ほんとうに“変わった”のかな)
指先で、首に触れる。
冷たく、硬質な感触が返ってくる。
少しだけ、息がしづらい気がする。
けれど、それでも――私は今日も祈らなければならなかった。
◇
朝の祈りは、少人数で行われた。
いつもの広間ではなく、奥の静かな礼拝室。
そこでは、選ばれた候補生たちが交代で“加護の維持”の祈りを捧げるのが習わしだった。
今日は、私がその順番だった。
聖女として、初めての祈祷。
それは、誰にも強制されてはいない。
けれど、逃れる道もなかった。
祈祷室の扉を開けたとき、すでにリメルが静かに待っていた。
「……お待ちしておりました、セレスティア様」
以前と変わらぬ口調。
けれど、どこか遠慮がちな響きがある。
私は、小さくうなずいた。
「準備は、できています」
「では、どうぞこちらへ……」
祭壇の前、祈祷の石盤が据えられた台座。
私はその前に立ち、静かに両手を組んだ。
目を閉じて、呼吸を整える。
聖環が、首筋に触れて冷たく揺れる。
(……どうか、この祈りが)
(届きますように――)
心の中で、いつものようにそう願った。
けれど、胸の奥に何かがひっかかった。
ほんのわずか。
声にならない、小さなざわめき。
それは、聖環が肌に触れるたびに生まれる感覚。
まるで、祈るたびに“誰かに見られている”ような――
(……そんな、はずないのに)
私は、強く目を閉じた。
意識を祈りに集中させる。
けれど、その違和感だけは、消えることはなかった。
◇
祈祷を終えたあと、私は一人、礼拝堂の裏手にある庭へと足を運んでいた。
ここは人目が少なく、風がよく通る場所だった。
首元の輪に手をやり、軽く息をつく。
「……見ないでください」
誰に向けたものでもない。
けれど、そう口に出さずにはいられなかった。
何かが、じっとこちらをうかがっているような気がして――
「……なに独り言ってるの?」
ふいに、背後から聞き覚えのある声がして、私は肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこにいたのはマルシェだった。
制服姿のまま、ほおづえをついて、いつもの無表情でこちらを見ている。
「びっくりした……。いつからそこに……」
「ずっといたけど。あなたが気づかなかっただけ」
彼女はすこしだけ口角を上げて言った。
「それにしても、偉いね。ちゃんと祈ってる」
「……うん。祈らなきゃいけないから」
「そっか。でも、無理しないでね。首、……ちょっと赤くなってる」
その言葉に、私は反射的に首元を押さえた。
マルシェは少しだけ目を細めた。
「それ、ほんとうに“加護の輪”なの?」
「……なにが、言いたいの?」
「ううん、別に。ちょっとだけ、気になっただけ」
マルシェは軽く首をすくめて、その場を離れようとする。
けれど、私は思わず彼女を呼び止めた。
「ねえ、マルシェ……祈りって、こわい?」
その問いに、彼女はぴたりと足を止めた。
しばらくの沈黙のあと、彼女は振り返らずに言った。
「うん、こわいよ」
「誰かを救えるほどの“奇跡”が起きたら、きっとどこかで“別のもの”が失われるから」
その声は静かで、どこか遠くを見つめているようだった。
私は、言葉を返せなかった。
ただ、風に揺れる枝葉の音だけが、静かに耳を打っていた。
◇ ◇ ◇
その日、午後の講義は免除された。
本聖女として正式に任命された者は、日常の祈祷に加え、儀礼的な準備や内省の時間を優先される――
それは建前で、実際には“他者との接触を制限される”という意味に近かった。
図書室にも出入りできず、講義にも出席できず、聖堂の外へも自由に出られない。
けれど、誰もそれを“軟禁”とは呼ばなかった。
リメルも、他の聖堂司も、誰もが静かに微笑んで、“本聖女は特別なのですから”と告げる。
私はそれを、黙って受け入れた。
それ以外に、できることはなかったから。
◇
夕刻。
陽の光がわずかに赤みを帯びはじめた頃、私は自室でひとり、机に向かっていた。
読んでいたのは、与えられた“信仰律”の写本。
けれど、内容はもう覚えていなかった。
ページをめくっても、言葉が頭に入ってこない。
視線は紙の上に落ちたまま、意識はどこか、別の場所をさまよっていた。
机の上には、昨日マルシェが密かに置いていった小さな紙片がある。
短い、手書きの文字。
『今日もちゃんと、生きてたら、えらい。』
それだけだった。
文字の端はかすかににじんでいて、彼女がそれをいつ、どんな気持ちで書いたのか……想像すると、胸が痛んだ。
(マルシェ……)
私は指先でその紙片をなぞりながら、そっと目を閉じた。
あの子の言葉だけが、今の私を“聖女”ではなく“私”として留めてくれる。
神の器でも、奇跡の担い手でもない。
ただ、名前のある、ひとりの少女として――
◇
夜。
祈りの鐘が、静かに聖都に響く。
私は、ベッドの上で膝を抱きながら、窓の外を見つめていた。
聖環は、寝間着の襟のすぐ上から、その輪郭をうっすらと浮かび上がらせている。
もはや隠しようなどない。
けれど、誰もそれを“異様”とは言わなかった。
それどころか、“聖なる証”だとすら讃えられる。
私の中にあるものが、誰かの意志によって閉ざされていくような感覚。
それでも、私は、まだ祈ることをやめられずにいた。
……マルシェが、あんな風に私を見つめてくれるから。
……あの子が、言葉をくれるから。
私は、今日もまた、心のなかで女神の名を呼ぶ。
「ノクティア様……」
夜を包む闇の女神。
誰にも届かない痛みに、そっと手を添える沈黙の御手。
「今日も……わたしの祈りが、誰かの傷に触れていますように」
声には出せなかった。
けれど、確かにそれは、胸の奥からあふれていた。
祈りの形は、もう誰にも教えてもらえない。
けれど、私は確かに、それを知っている。
――誰かの命を、たったひとつでも、救えるのなら。
たとえそれが、鎖のなかにあっても。
私は、祈りを捧げる。
誰にも見られない、沈黙のなかで。
この胸の奥に、たしかに灯った、ひとつの光のように。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
第60話では、“本聖女”として任命されたセレスティアが、祈りと共に新たな鎖を抱えて歩き出す姿を描きました。
誰にも真実を明かされないまま、それでも彼女は、自分の祈りを手放そうとはしません。
名ばかりの祝福の中で、それでも信じることを選んだ彼女の姿が、少しでも心に残ってくれたなら嬉しいです。
次回、静かに始まるさざ波が、やがて大きな問いへとつながっていきます。
どうか、もう少しだけ彼女の歩みを見守ってください。
もし物語が少しでも心に残ったなら――
ブックマークや感想をいただけたら、とても励みになります。
それでは、また次の物語で。
――星空りん




