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『異世界転生でアイドル目指します。』  作者: 星空りん
第三章 声にならない願い
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58 祈りは祝福にして、時に鎖でもありて

 夜の祈りを終えても、胸の奥に残るぬくもりは、なかなか消えようとしなかった。


 ひとりきりで祈る時間。

 声に出すことすらためらわれるような闇の中で、それでも私は両手を組み、ただ願いを捧げていた。


 誰かに届く保証なんて、どこにもなかった。

 感謝の言葉も、癒しの証も、なにひとつ返ってこない日もある。

 それでも私は――祈ることを、やめなかった。


 見返りが欲しいわけじゃない。

 誰かに褒めてほしかったわけでもない。


 ただ、あの痛みを見たとき、あの苦しむ声を聞いたとき、自分の手で何かできることがあるのならと、願わずにはいられなかった。


 ――その想いだけが、わたしを動かしていた。


 けれど、静かだった水面に、いつしか波紋が広がっていた。


 最初は、ごく小さな噂だった。

 村で祈ったあの人が、ほんの少し元気になったと誰かが囁いた。


 “奇跡が起きたらしい”と、噂話の端に乗るだけの、不確かなものだった。

 けれどそれは、やがて確かな証言に変わっていった。


 ――「あの祈りのあと、熱が下がった」

 ――「見ていたんだ、確かに手をかざして祈っていたのを」

 ――「あの子は、神に選ばれている」


 それでも、私は口を閉ざしたままだった。

 “ノクティアの聖女”――その名を、自分から語ったことなど一度もない。


 けれど、まるでそれが当然のように、人々の間で、そして教会の中でさえも、その名がささやかれるようになっていた。


 それは恐れや拒絶ではなかった。

 どちらかといえば――不気味なほどに、静かな受容だった。


 最初にそれを耳にしたとき、私は思わず息を飲んだ。

 誰かが悪意を持ってそう呼んだのではない。

 ただ、言葉の奥には、“理解できないものへの沈黙”が宿っていた。


 ノクティア様の加護が、本当に届いたのかもしれない。

 それとも、祈りが“奇跡”と呼ばれるに足る力を宿していたのか――


 その答えを、私はまだ知らない。

 知る術も、きっとないのだと思う。


 けれどただ一つ、確かなことがある。


 私は、誰かの痛みに目を背けたくなかった。

 寒さに震えるその背に、声もなく寄り添いたかった。

 心のどこかで、ずっとそう願っていた。


 ――祈ることしか、できなかったから。


 それでも、教会はその“結果”に、少しずつ目を向けはじめていた。


 目に見える“成果”だけを見つめる視線。

 その視線が、私の名を静かに刻もうとしていた。


 “信仰の証”として。

 “制度の枠”に収めるために。


 風向きが変わっていく。

 それは、ほんのわずかな、けれど確かな予兆だった。


◇ ◇ ◇


 その夜も、私はひとりで中庭に佇んでいた。


 祈りを終えたあとの静けさは、いつも胸の奥にぽつんと余白を残す。


 月は雲の奥に隠れていた。けれど空気はやわらかく、冬の冷たさをわずかに残しながらも、どこか春の気配を含んでいた。


 新芽のまだ見えない植え込みの脇。色の抜けた石畳の上。


 今では、誰にも見られずに祈れる場所が、この中庭の隅だけになってしまっていた。


 それでも私は、夜ごとここを訪れ、そっと手を組む。

 声には出さずとも、胸の奥で静かに名を呼ぶ。


 ――ノクティア様。

 夜を包む女神。

 光の届かないところに、そっと寄り添う御手。


 名を呼ぶたび、心が落ち着いていくのを感じる。


 誰にも聞こえない、誰にも届かないかもしれない祈り。

 それでも私は、今日も願う。


(……わたしの祈りが、またひとつ、届いていますように)


 そのときだった。


 背後から、そっと忍び寄るような気配があった。


 ――足音。


 石畳の上に、ためらいがちな足音が、小さく、けれど確かに刻まれていく。


 私は驚くでもなく、ただ静かに振り返った。


 そこに――マルシェの姿があった。


 中庭の入口に立ち、こちらを見ている。

 灯りはなく、月も隠れた夜だったが、彼女の顔は、淡くにじむ影の中にはっきりと浮かんでいた。


 けれど彼女は、何も言わなかった。

 目が合っても、一歩も動こうとせず、ただじっとその場に立ち尽くしていた。


 風が、低く枝葉を揺らす。

 影だけが、濃く長く、夜の地面に落ちていた。


 静かな沈黙がしばらく流れたあと――彼女が、小さく呟いた。


「……あなたの祈りって、あたたかいのね」


 それは、問いでも、感想でもなかった。

 まるで、自分自身にも確かめるような、夢の中の言葉のようだった。


 私は静かに立ち上がり、彼女のほうへと一歩だけ近づいた。


「……どうして、そう思ったの?」


 問いかける私の声は、どこか不安と希望の狭間にあった。


 マルシェは、少し困ったように眉を寄せ、それでもふっと笑った。


「……私ね、よく眠れなかったの。何日も。胸がずっとざわざわしてて、いろんなことが頭から離れなくて」


 彼女の声は、細い糸のように脆く、どこか遠くを見つめているようだった。


「でも、ある夜だけ……すごく静かに眠れたの。夢も見なかった。なのに、朝になったら、どうしてか“ありがとう”って言いたくなってたの」


 私はその言葉に、胸の奥にある緊張の糸がゆっくりほどけていくのを感じた。


 わずかに目を伏せて、微笑む。


「……届いていたのかもしれない。祈りが」


 その一言に、マルシェは小さくうなずいた。


 そして、ほんの少し、前へと歩み出し――顔を上げる。


「うん。……だから、わたし、あなたのこと……ちょっとだけ、信じてみてもいいかなって、思ったの」


 その声には、躊躇も迷いも残っていた。

 けれど同時に、確かなあたたかさが宿っていた。


 私は、何も言わずに、そっとその言葉を胸の中にしまった。


 それは、ほんの一歩。

 でも確かに――誰かと“祈り”を分かち合った、最初の一歩だった。


 夜の静寂のなかで、ふたりの影が、少しだけ近づいていた。


◇ ◇ ◇


 聖導主が坐す「天の玉座」は、沈黙の中にあった。


 石造りの円形の議定の間。

 七重の封刻で隔たれた空間には、外の光も音も届かない。

 天蓋から落ちる魔石の淡い光が、白い床に淡く広がるだけだった。


 円卓の奥、わずかに高く造られた壇上。

 そこにひとり、白銀の儀衣をまとった老神官が、無言で佇んでいた。


 聖導主ユステリオ・ヴァルセリオン猊下――

 六柱の女神に仕える教国の頂点にして、祈りを束ねる者。


 彼の姿は、まるで神像のように静かだった。

 目を閉じたまま、身じろぎひとつ見せず、空気の一片すら動かさない。


 その沈黙を前にしても、誰も言葉を急がない。

 この場にいるのは、教会を支える六人の幹部たち。

 そして、壇上に立つひとりの人物――


 宗政評議長、マルティアス・クレヴィン。


 白髪を整え、威圧感を帯びない冷静な声音で議場を取り仕切る。

 聖導主の意を最も近くで受け取る、唯一の“現世的代行者”。


 マルティアスは、ゆるやかに言葉を開いた。


「……議題はひとつ。“セレスティア・ルミオールの扱い”について。

 既に皆様の元にも報告が届いていると存じます。ニ度の祈祷測定、いずれも記録限界を超過。

 加護と見られる魔力顕現は、“闇属性”にて確認されております」


「祈祷構文も、外部干渉も一切なし。“純祈”による顕現と見なしてよろしいかと」


 答えたのは加護記録官だった。手元には薄く光る記録板が置かれている。


「また、辺境を中心に“彼女の祈りで癒された”という証言が複数。

 名指しでの祈願行為も確認され、“ノクティアの聖女”という俗称まで生まれつつあります」


 会議の空気が微かに揺れた。


「……異端として裁くべきでは?」


 法理整備官が低く言った。


「闇属性。加護の規格外。信仰の自発的拡散――どれも“監視対象”に該当する。

 排除も、ひとつの選択肢ではあるまいか」


 だが、マルティアスは首を振った。


「その選択には、“神の加護を否定する者”という烙印が伴います。

 ノクティアは六柱の正規神。……我らとて、その加護を否定することはできない」


「つまり、“異端”として扱えば、我々の足元も揺らぐと?」


「はい。民衆の信仰心を制御するどころか、逆に火を注ぐことになりかねません」


 儀典区監が手元の書簡を開く。


「加えて、巡礼者の中には、彼女に“光を感じた”とまで語る者もいます。

 これは、祈りそのものが“信仰”へと変質しつつある兆し。放置はできません」


「……ならば」


 神印管理長が言う。


「制度の枠内に、“祈り”そのものを閉じ込めるべきでは?」


「“聖女”として、正式に任命するのです」


 聖導教育官の言葉に、場が静まり返る。


 マルティアスがゆっくりと応じる。


「本来、聖女認定には長い期間と選定儀式が必要です。

 だが例外は存在する。かつて『ファラーナ』の聖女が即時任命されたように……」


「祈りの形を、教会が与えるということですね」


「ええ。自由な信仰ではなく、“制度の祈り”として公認する。

 その上で、必要な“制御”を施すのです」


 そのとき、儀典区監が机の下から布包みを取り出した。


 白い絹に包まれていたのは、ひとつの輪――


 美しい銀製の首環だった。


 細やかな月桂と清蓮の意匠。中央には、沈黙の女神ノクティアを象徴する“双月の紋”。


 その内側にのみ、封刻が刻まれていた。


 それは“加護の祈り”を律し、制御し、外部の顕現を抑えるための隷属儀具――


 名を、《聖環ノクティア》。


「……聖女による逸脱と暴走を恐れ、かつて先々代が密かに設計を命じた“魔力制御の戒具”と呼ばれた試作具です。

魔力の律動を抑え、祈祷は教会の神印経路を通じてのみ発動する構造となっています」


「外見には忌避感はなく、むしろ神聖な印象すら与えます。

 “加護の導環”と称し、儀式の中で授与すれば、誰も疑うことはないでしょう」


 マルティアスは聖導主に視線を向けた。


 老いた指導者は、しばらく目を閉じたままだった。


 その沈黙は、時間の重みを孕んでいた。


 やがて――まるで深い湖底から浮かび上がるように、言葉が落ちた。


「……祈りは、祝福であり、時に鎖でもある」


 それだけ。


 だが、その一言により、議場のすべてが動いた。


 誰も逆らわない。


 誰も、問い直さない。


 聖導主の御裁可は、絶対だった。


「――それでは、聖導主猊下の御意により」


 マルティアスが静かに宣言する。


「セレスティア・ルミオールを、ノクティアの正式な聖女として任命し、

 “聖環ノクティア”を授与する――“神の加護の証”として」


 その瞬間、ひとりの少女は“聖女”の座に上げられ、

 その手から自由な祈りは、密やかに奪われることとなった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


第58話『祈りは祝福にして、時に鎖でもありて』では、セレスティアの祈りが“制度”の目に留まり、ついにその存在が公に扱われ始める転機が描かれました。


祈りに見返りを求めず、ただ誰かの痛みに寄り添ってきた少女の歩みが、今、制度の“聖女”という名のもとに収められようとしています。

けれどその名が意味するものは、祝福ではなく、静かに絡みつく“鎖”でもありました。


マルシェとの心の距離が少しずつ近づいていく一方で、祈りの自由は少しずつ奪われていく。

そんな対比の中に、彼女の“選ばれたことの代償”が滲んでいれば幸いです。


なお、正式な任命は次話で描かれる予定です。


今後の展開も、ぜひ見守っていただけたら嬉しいです。

感想、ブクマ、評価なども励みになりますので、よろしければどうぞよろしくお願いいたします。


⸻星空りん

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