58 祈りは祝福にして、時に鎖でもありて
夜の祈りを終えても、胸の奥に残るぬくもりは、なかなか消えようとしなかった。
ひとりきりで祈る時間。
声に出すことすらためらわれるような闇の中で、それでも私は両手を組み、ただ願いを捧げていた。
誰かに届く保証なんて、どこにもなかった。
感謝の言葉も、癒しの証も、なにひとつ返ってこない日もある。
それでも私は――祈ることを、やめなかった。
見返りが欲しいわけじゃない。
誰かに褒めてほしかったわけでもない。
ただ、あの痛みを見たとき、あの苦しむ声を聞いたとき、自分の手で何かできることがあるのならと、願わずにはいられなかった。
――その想いだけが、わたしを動かしていた。
けれど、静かだった水面に、いつしか波紋が広がっていた。
最初は、ごく小さな噂だった。
村で祈ったあの人が、ほんの少し元気になったと誰かが囁いた。
“奇跡が起きたらしい”と、噂話の端に乗るだけの、不確かなものだった。
けれどそれは、やがて確かな証言に変わっていった。
――「あの祈りのあと、熱が下がった」
――「見ていたんだ、確かに手をかざして祈っていたのを」
――「あの子は、神に選ばれている」
それでも、私は口を閉ざしたままだった。
“ノクティアの聖女”――その名を、自分から語ったことなど一度もない。
けれど、まるでそれが当然のように、人々の間で、そして教会の中でさえも、その名がささやかれるようになっていた。
それは恐れや拒絶ではなかった。
どちらかといえば――不気味なほどに、静かな受容だった。
最初にそれを耳にしたとき、私は思わず息を飲んだ。
誰かが悪意を持ってそう呼んだのではない。
ただ、言葉の奥には、“理解できないものへの沈黙”が宿っていた。
ノクティア様の加護が、本当に届いたのかもしれない。
それとも、祈りが“奇跡”と呼ばれるに足る力を宿していたのか――
その答えを、私はまだ知らない。
知る術も、きっとないのだと思う。
けれどただ一つ、確かなことがある。
私は、誰かの痛みに目を背けたくなかった。
寒さに震えるその背に、声もなく寄り添いたかった。
心のどこかで、ずっとそう願っていた。
――祈ることしか、できなかったから。
それでも、教会はその“結果”に、少しずつ目を向けはじめていた。
目に見える“成果”だけを見つめる視線。
その視線が、私の名を静かに刻もうとしていた。
“信仰の証”として。
“制度の枠”に収めるために。
風向きが変わっていく。
それは、ほんのわずかな、けれど確かな予兆だった。
◇ ◇ ◇
その夜も、私はひとりで中庭に佇んでいた。
祈りを終えたあとの静けさは、いつも胸の奥にぽつんと余白を残す。
月は雲の奥に隠れていた。けれど空気はやわらかく、冬の冷たさをわずかに残しながらも、どこか春の気配を含んでいた。
新芽のまだ見えない植え込みの脇。色の抜けた石畳の上。
今では、誰にも見られずに祈れる場所が、この中庭の隅だけになってしまっていた。
それでも私は、夜ごとここを訪れ、そっと手を組む。
声には出さずとも、胸の奥で静かに名を呼ぶ。
――ノクティア様。
夜を包む女神。
光の届かないところに、そっと寄り添う御手。
名を呼ぶたび、心が落ち着いていくのを感じる。
誰にも聞こえない、誰にも届かないかもしれない祈り。
それでも私は、今日も願う。
(……わたしの祈りが、またひとつ、届いていますように)
そのときだった。
背後から、そっと忍び寄るような気配があった。
――足音。
石畳の上に、ためらいがちな足音が、小さく、けれど確かに刻まれていく。
私は驚くでもなく、ただ静かに振り返った。
そこに――マルシェの姿があった。
中庭の入口に立ち、こちらを見ている。
灯りはなく、月も隠れた夜だったが、彼女の顔は、淡くにじむ影の中にはっきりと浮かんでいた。
けれど彼女は、何も言わなかった。
目が合っても、一歩も動こうとせず、ただじっとその場に立ち尽くしていた。
風が、低く枝葉を揺らす。
影だけが、濃く長く、夜の地面に落ちていた。
静かな沈黙がしばらく流れたあと――彼女が、小さく呟いた。
「……あなたの祈りって、あたたかいのね」
それは、問いでも、感想でもなかった。
まるで、自分自身にも確かめるような、夢の中の言葉のようだった。
私は静かに立ち上がり、彼女のほうへと一歩だけ近づいた。
「……どうして、そう思ったの?」
問いかける私の声は、どこか不安と希望の狭間にあった。
マルシェは、少し困ったように眉を寄せ、それでもふっと笑った。
「……私ね、よく眠れなかったの。何日も。胸がずっとざわざわしてて、いろんなことが頭から離れなくて」
彼女の声は、細い糸のように脆く、どこか遠くを見つめているようだった。
「でも、ある夜だけ……すごく静かに眠れたの。夢も見なかった。なのに、朝になったら、どうしてか“ありがとう”って言いたくなってたの」
私はその言葉に、胸の奥にある緊張の糸がゆっくりほどけていくのを感じた。
わずかに目を伏せて、微笑む。
「……届いていたのかもしれない。祈りが」
その一言に、マルシェは小さくうなずいた。
そして、ほんの少し、前へと歩み出し――顔を上げる。
「うん。……だから、わたし、あなたのこと……ちょっとだけ、信じてみてもいいかなって、思ったの」
その声には、躊躇も迷いも残っていた。
けれど同時に、確かなあたたかさが宿っていた。
私は、何も言わずに、そっとその言葉を胸の中にしまった。
それは、ほんの一歩。
でも確かに――誰かと“祈り”を分かち合った、最初の一歩だった。
夜の静寂のなかで、ふたりの影が、少しだけ近づいていた。
◇ ◇ ◇
聖導主が坐す「天の玉座」は、沈黙の中にあった。
石造りの円形の議定の間。
七重の封刻で隔たれた空間には、外の光も音も届かない。
天蓋から落ちる魔石の淡い光が、白い床に淡く広がるだけだった。
円卓の奥、わずかに高く造られた壇上。
そこにひとり、白銀の儀衣をまとった老神官が、無言で佇んでいた。
聖導主ユステリオ・ヴァルセリオン猊下――
六柱の女神に仕える教国の頂点にして、祈りを束ねる者。
彼の姿は、まるで神像のように静かだった。
目を閉じたまま、身じろぎひとつ見せず、空気の一片すら動かさない。
その沈黙を前にしても、誰も言葉を急がない。
この場にいるのは、教会を支える六人の幹部たち。
そして、壇上に立つひとりの人物――
宗政評議長、マルティアス・クレヴィン。
白髪を整え、威圧感を帯びない冷静な声音で議場を取り仕切る。
聖導主の意を最も近くで受け取る、唯一の“現世的代行者”。
マルティアスは、ゆるやかに言葉を開いた。
「……議題はひとつ。“セレスティア・ルミオールの扱い”について。
既に皆様の元にも報告が届いていると存じます。ニ度の祈祷測定、いずれも記録限界を超過。
加護と見られる魔力顕現は、“闇属性”にて確認されております」
「祈祷構文も、外部干渉も一切なし。“純祈”による顕現と見なしてよろしいかと」
答えたのは加護記録官だった。手元には薄く光る記録板が置かれている。
「また、辺境を中心に“彼女の祈りで癒された”という証言が複数。
名指しでの祈願行為も確認され、“ノクティアの聖女”という俗称まで生まれつつあります」
会議の空気が微かに揺れた。
「……異端として裁くべきでは?」
法理整備官が低く言った。
「闇属性。加護の規格外。信仰の自発的拡散――どれも“監視対象”に該当する。
排除も、ひとつの選択肢ではあるまいか」
だが、マルティアスは首を振った。
「その選択には、“神の加護を否定する者”という烙印が伴います。
ノクティアは六柱の正規神。……我らとて、その加護を否定することはできない」
「つまり、“異端”として扱えば、我々の足元も揺らぐと?」
「はい。民衆の信仰心を制御するどころか、逆に火を注ぐことになりかねません」
儀典区監が手元の書簡を開く。
「加えて、巡礼者の中には、彼女に“光を感じた”とまで語る者もいます。
これは、祈りそのものが“信仰”へと変質しつつある兆し。放置はできません」
「……ならば」
神印管理長が言う。
「制度の枠内に、“祈り”そのものを閉じ込めるべきでは?」
「“聖女”として、正式に任命するのです」
聖導教育官の言葉に、場が静まり返る。
マルティアスがゆっくりと応じる。
「本来、聖女認定には長い期間と選定儀式が必要です。
だが例外は存在する。かつて『ファラーナ』の聖女が即時任命されたように……」
「祈りの形を、教会が与えるということですね」
「ええ。自由な信仰ではなく、“制度の祈り”として公認する。
その上で、必要な“制御”を施すのです」
そのとき、儀典区監が机の下から布包みを取り出した。
白い絹に包まれていたのは、ひとつの輪――
美しい銀製の首環だった。
細やかな月桂と清蓮の意匠。中央には、沈黙の女神ノクティアを象徴する“双月の紋”。
その内側にのみ、封刻が刻まれていた。
それは“加護の祈り”を律し、制御し、外部の顕現を抑えるための隷属儀具――
名を、《聖環ノクティア》。
「……聖女による逸脱と暴走を恐れ、かつて先々代が密かに設計を命じた“魔力制御の戒具”と呼ばれた試作具です。
魔力の律動を抑え、祈祷は教会の神印経路を通じてのみ発動する構造となっています」
「外見には忌避感はなく、むしろ神聖な印象すら与えます。
“加護の導環”と称し、儀式の中で授与すれば、誰も疑うことはないでしょう」
マルティアスは聖導主に視線を向けた。
老いた指導者は、しばらく目を閉じたままだった。
その沈黙は、時間の重みを孕んでいた。
やがて――まるで深い湖底から浮かび上がるように、言葉が落ちた。
「……祈りは、祝福であり、時に鎖でもある」
それだけ。
だが、その一言により、議場のすべてが動いた。
誰も逆らわない。
誰も、問い直さない。
聖導主の御裁可は、絶対だった。
「――それでは、聖導主猊下の御意により」
マルティアスが静かに宣言する。
「セレスティア・ルミオールを、ノクティアの正式な聖女として任命し、
“聖環ノクティア”を授与する――“神の加護の証”として」
その瞬間、ひとりの少女は“聖女”の座に上げられ、
その手から自由な祈りは、密やかに奪われることとなった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
第58話『祈りは祝福にして、時に鎖でもありて』では、セレスティアの祈りが“制度”の目に留まり、ついにその存在が公に扱われ始める転機が描かれました。
祈りに見返りを求めず、ただ誰かの痛みに寄り添ってきた少女の歩みが、今、制度の“聖女”という名のもとに収められようとしています。
けれどその名が意味するものは、祝福ではなく、静かに絡みつく“鎖”でもありました。
マルシェとの心の距離が少しずつ近づいていく一方で、祈りの自由は少しずつ奪われていく。
そんな対比の中に、彼女の“選ばれたことの代償”が滲んでいれば幸いです。
なお、正式な任命は次話で描かれる予定です。
今後の展開も、ぜひ見守っていただけたら嬉しいです。
感想、ブクマ、評価なども励みになりますので、よろしければどうぞよろしくお願いいたします。
⸻星空りん




