57 私が選んだ祈り
57 私が選んだ祈り
私は、その日も祈った。
けれど、祈るたびに、どこかが少しずつ削れていくような感覚があった。
白銀の儀具は、今日も祈祷の台に据えられていた。
誰もそれに触れようとはしない。
けれど、それが“私のためのもの”であることは、誰もが知っていた。
魔力を“記録するための器具”。
祈りを“計測するための儀式”。
それが、今の私に与えられている“場所”だった。
誰かのために願う気持ちが、どこに記録されるのだろう。
数値になど、できないはずの想いが――今は、測定されていた。
(これは、本当に祈りなのかな……)
心の中で、そうつぶやいたとき、
胸の奥に、すうっと冷たい風が吹いた気がした。
◇
その夜、私は久しぶりに中庭へ向かった。
月は雲に隠れていた。
けれど、風は静かで、夜気はやわらかかった。
私は、人気のない噴水の縁に座り、手を膝の上でそっと重ねた。
言葉は、浮かばなかった。
けれど、それでも祈りたいと思った。
誰かが泣いているとき、私はそばにいられない。
でも、せめて、その涙を知ることだけはできるかもしれない――
その思いが、胸の奥にじんわりと広がっていった。
(……誰にも見られなくても、祈れる)
そう思ったとき、心が少しだけ軽くなった。
(記録されなくても、数値にならなくても)
(……祈りは、わたしの中にある)
声に出さなくてもよかった。
神さまに語りかける言葉は、胸の奥にだけ宿っていた。
誰もいない空間。
でも、確かに何かが“聴いている”ような気がした。
「……ノクティア様」
ごく小さな、風よりもかすかな声で、名を呼ぶ。
「今日も、誰かの痛みに触れられますように。
たとえ、見返りがなくても。
たとえ、誰にも気づかれなくても。
それでも、祈れる私でいられますように――」
沈黙が、そっと祈りを包んでいった。
まるで、夜そのものが“返事”のようだった。
◇
しばらく、私はただ座っていた。
月はまだ姿を見せなかったけれど、
木々のざわめきが、どこか心をなでるようにやさしかった。
ふと、手のひらを見つめた。
何も持たない、小さな手。
でも、誰かの痛みを包む力が、ここに宿っていると――今なら、信じられた。
(……祈りは、わたしの中にある)
誰が測らなくても。
誰が認めなくても。
“祈れる”ということそのものが、
私がここにいる証なのだと――今、ようやく思えた。
◇ ◇ ◇
その日、私は呼び出された。
講義の終わる直前、神官が扉の外に立ち、私の名を告げた。
「……セレスティア・ルミオール。本日午後、中央礼拝堂にて“特別祈祷”の任を仰せつかります」
淡々とした言い回し。
けれどその声音には、“断ることはできない”という圧が滲んでいた。
「……承知しました」
私は立ち上がり、教本を静かに閉じた。
講堂にいた者たちは、誰も私を見なかった。
それでも、空気が変わったのを感じた。
私が歩くそのあとに、静けさが残った。
◇
午後。中央礼拝堂。
長椅子が整然と並ぶ空間の奥、壇上に設置された祈祷台には、あの白銀の制御儀具が備えられていた。
その傍らには、リメルの姿。
そして、複数名の高位神官たちが静かに列席していた。
私は何も訊かず、ただ一礼し、壇上に上がる。
「……本祈祷は、加護の実証として記録されます」
記録官のひとりが、淡々と読み上げる。
「対象:第一級神官カルモス・イレーリ。
高熱と昏睡状態により、治癒魔法および薬療効果が停止。
これまでに複数名の高位治癒術者および祈祷者が試みるも、いずれも効果を示さず。
本件は聖堂監査局による要請のもと、最終的措置として、“祈祷加護”の顕現を試みるものとする」
その説明が終わると、奥の扉が開き、
担架に乗せられた一人の男がゆっくりと運ばれてきた。
顔色は悪く、呼吸も浅い。
額には冷たい汗が滲み、意識はなかった。
(この人が……)
何も知らぬまま、私は“命のはざま”にいる人を前に座らされた。
「祈ってください」
そう言ったのは、リメルではなかった。
上座にいた年長の神官が、一歩、こちらへ向かってきた。
「あなたの祈りが、“加護”と認められるものであるならば……今こそ、それを示しなさい」
まるで、試すような口調だった。
私は、手のひらを重ねた。
でも、指先がほんの少しだけ震えていた。
(……これは、“祈り”じゃない)
“祈らされる祈り”は、祈りじゃない。
私は、誰かの命を救いたいと思っている。
けれど、誰かに証明するために祈るのは、違う気がした。
(……それでも)
目の前の神官が、苦しそうに唸り声を漏らす。
意識のないその人の息遣いが、かすかに聞こえた。
私は、そっと目を閉じた。
(この人が、明日を迎えられますように)
(この痛みが、やわらぎますように)
ただ、その願いだけを胸に浮かべる。
祈りに名前はいらない。
評価も、証明も、奇跡の演出もいらない。
ただ、祈りたい。
そう思ったとき、自然と口が動いていた。
「……ノクティア様。
この方の、眠りが穏やかなものでありますように。
沈黙の中に、やすらぎがありますように。
どうか、あなたの闇が――この人の痛みに、そっと寄り添ってくれますように」
祈りは、やわらかく胸の奥から流れていった。
制御儀具が、小さく振動する。
足元の刻印が、黒く深い紫の光を放った。
静かだった。
けれど――その光は、確かに祈りに応じていた。
空気が、少しだけ温度を持って変わる。
担架の上の神官が、うっすらとまぶたを震わせた。
「……う……」
誰かが、息を呑んだ。
「っ、目が……開いてる……!」
記録官の筆が止まり、神官たちがざわめく。
私は、ただ手を組んだまま、目を閉じていた。
この祈りが、ただ“ひとつの命”に届いてくれたのなら――
それだけで、私は十分だった。
◇
祈りが終わったあとも、私はしばらく目を閉じたままだった。
記録官たちの筆音は止まり、空気はぴたりと固まっていた。
誰も言葉を発さなかった。
高位神官たちは何かを確認するように視線を交わし、
儀具の揺らぎを示す魔力反応を黙って眺めていた。
それでも――
私の中には、ひとつの“確信”が芽生えていた。
祈りは、届いたのだ。
証明はいらない。
評価も、称賛もいらない。
ただ、あの神官が――
ひとときでも苦しみから解放されたのなら。
その瞳が、わずかでも光を映したのなら。
それだけで、十分だった。
◇
その日以降、私の立場が目に見えて変わったわけではなかった。
“ノクティアの加護を持つ者”という囁きが、教会のどこかで流れ始めただけ。
それが称賛だったのか、畏れだったのか――わからない。
けれど、それでも私は、祈ることをやめなかった。
以前よりさらに、静かに。
誰にも見られぬ場所で。
誰の記録にも残らぬ祈りとして。
◇ ◇ ◇
夜。
私はまた、中庭の隅に立っていた。
風はやわらかく、冬の冷たさはもう遠ざかり、春の匂いが混じり始めていた。
空には、いくつもの星が瞬いていた。
けれど私は、ただ静かに俯いたまま――
指先に残る熱を、そっと胸の上で感じていた。
祈り終えたあとの手は、ほんのりとあたたかく、
そのぬくもりだけが、自分の内側に灯る光のように思えた。
(……誰の記憶にも残らなくても)
(この想いが、誰かの痛みにそっと触れたのなら――)
それだけで、私はここにいられる。
「……声がなくても、想いは届く。
言葉にしなくても、祈りはここにある」
小さく、小さくつぶやいた。
それは、誰にも聞こえないような囁き。
けれど、私の中には、確かに響いていた。
(……わたしは、“祈れる”)
その事実だけが、今の私を支えていた。
誰の光にもなれなくていい。
闇であってもかまわない。
沈黙の中に、ほんの小さなあたたかさを残せるなら――
私は、この祈りを手放さない。
◇ ◇ ◇
私は夢を見た。
誰のものでもない空間で、誰の声でもない“静けさ”が私を包んでいた。
その中で、私は確かに祈っていた。
名を呼ばず、姿を求めず。
ただ、そこにある“痛み”に向けて――
優しく、手を差し伸べるように。
そして、闇の中で。
誰かがそっと、私の手を取ってくれた気がした。
◇ ◇ ◇
翌朝。
私はまた、静かに歩き出した。
監視されていることは変わらない。
距離を置かれていることも、変わらない。
でも、それでも。
私は“祈れる私”のままでいたかった。
祈ることしか、できないのではない。
祈ることを――私は、選んでいるのだと。
そう、胸の奥で、静かに呟いた。
第57話「私が選んだ祈り」を、最後まで読んでくださって本当にありがとうございます。
誰かに求められて祈るのではなく、自ら選んで祈る。
セレスティアがその一歩を踏み出すまでの過程を、静かに、でも確かに描きました。
“祈ることしかできない”という言葉に、縛られるのではなく、それを「選ぶ」こと。
たとえ誰にも届かなくても、記録されなくても、光ではなく“闇”に寄り添う祈りであっても。
それでも――自分の意思で、祈るということ。
そんなセレスティアの祈りが、少しでもあなたの心に触れていたら嬉しいです。
もし物語を気に入っていただけたら、「感想」や「ブクマ」、「いいね」で想いを残していただけると励みになります。
静かに歩き続ける彼女の祈りに、あなたの言葉や気持ちを重ねてもらえたら、とても心強いです。
次回も、“祈りが祈りであり続けるために”――彼女が選び続ける姿を、丁寧に描いていきます。
どうか、これからもそっと見守っていただけたら幸いです。




