56 ノクティアの聖女
「――本日付けで、あなたは“監視対象”と指定されました」
そう告げられたとき、私は、ただ小さく頷いた。
感情は、浮かばなかった。
驚きも、怒りも、悔しさも。
何もなかった。
けれど、それは決して“受け入れた”わけではなかった。
ただ、もうそうなるとわかっていた。
この数日間、誰も口には出さないけれど、誰もが私を“別のもの”として見るようになっていたのだから。
「……わかりました」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
リメルは、いつもと変わらぬ表情で私を見ていた。
けれど、その眼差しの奥には、かすかな揺らぎがあった。
「あなたの居室には、今後“観測用の加護石”が設置されます。祈りの記録は自動で集積され、定期的に報告されます。……拒否することはできません」
「はい」
それも、わかっていた。
祈りに“強い反応”が現れてしまった以上、教会がそれを放っておくはずがない。
問題は、“私”ではなかった。
私の“祈り”だった。
それが、教会にとって“計測すべき対象”になっただけのこと。
「……セレスティア様」
リメルが口を開きかけて――そして、やめた。
言葉を選びかけて、選べなかったのだろう。
それが、彼女なりの精一杯の誠実さなのだと、私は理解していた。
「――失礼いたします」
静かに頭を下げて、私は部屋を出た。
◇
廊下の先にある、淡いステンドグラスから差し込む光が、足元に影を落としていた。
その影が揺れないように、私は慎重に歩いた。
心が揺れると、影も揺れてしまいそうだったから。
(……監視、か)
それは、罰でも、拒絶でもない。
けれど、それは“信頼されていない”という証だった。
私は、何もしていない。
ただ、祈っただけだった。
誰かのために。
誰かの痛みがやわらぐように。
誰かの明日に、小さな光が残るように。
その祈りが、“測定不能”という結果になっただけ。
けれど教会は、それを“制御されるべきもの”として扱う。
――まるで、それが“危険物”であるかのように。
歩きながら、ふと自分の手を見た。
薄い指先。
傷も、汚れもない。
この手が、誰かを傷つけたことなど、一度もなかった。
なのに、今は。
この手が生み出した祈りが、“監視される”という現実だけが、私に貼りついていた。
◇
その夜。
私はまた、中庭に出た。
月は欠けていて、夜空は深く静かだった。
風が吹いていたけれど、冷たくはなかった。
石畳の片隅に座り、私は手を組んだ。
(……祈ってはいけないなら、私はなんなの?)
ふと、そんな思いが浮かんで――
(でも、祈ることしか……できない)
私は、それしかできなかった。
魔法も使えない。
剣も持てない。
癒しの術も、奇跡も、私の意志で起こせるものではない。
それでも、私には“祈る力”があった。
ただ、それだけがあった。
そして――
(祈れるなら、それでいい)
そっと、目を閉じた。
静かな夜。
誰にも見られていないはずの空の下。
「……神さま。わたしは、今日も祈ります。
誰の許しもなくても、誰にも理解されなくても。
この手が、祈れる限り――わたしは、わたしのままで」
風が、ひとすじ、頬を撫でた。
それは、誰かの手のように、やわらかくてあたたかかった。
◇ ◇ ◇
翌朝から、目に見える変化が始まった。
祈りの場では、私の周囲にだけ“空白”ができるようになった。
誰も声をかけないし、目も合わせない。
それでも、気配は確かに感じる。
誰かが私を“観察している”という気配が、肌にまとわりついていた。
講義中も、必要以上に私の席には近づかなくなった。
用件があっても、私以外の者に回されていく。
廊下を歩けば、私の足音だけがやけに響く。
誰も何も言わないのに、すべてが、はっきりと“拒絶”を物語っていた。
(……闇属性、というだけで)
それだけで、人はこれほどまでに距離を置く。
私が何かをしたわけではない。
けれど、“何かをするかもしれない”存在として、扱われている。
監視対象――その言葉が、今の私の立場だった。
◇
それでも、私は祈り続けていた。
講義の終わった夕刻。
食事を終えてから、私は書庫の奥の誰もいない一角で手を組んだ。
もう“祈祷”と呼べるような儀式ではなかった。
誰かに見せるためでも、記録に残すためでもない。
ただ、息をするように、心の奥から自然と“願い”がこぼれていた。
(……誰かの痛みが、やわらぎますように)
言葉にはならなくても、想いはそこにあった。
◇ ◇ ◇
そんな日々の中で――
数日ぶりに、あの姿を見た。
午後の講義が終わり、私はひとり、講堂の脇を歩いていた。
陽の落ちかけた時間帯、建物の影は長く伸びていた。
通路の向こうから、小柄な影がひとつ、こちらに向かってくる。
――マルシェ、だった。
あの日、祈りによって救った少女。
それ以来、ほとんど言葉を交わしていなかったけれど、私は彼女の顔を覚えていた。
マルシェもまた、こちらに気づいた。
歩みを止めかけて――けれど、そのまま静かに通り過ぎた。
声は、かけなかった。
でも、すれ違うその瞬間――
ふと、視線が交差した。
ほんの一秒にも満たない、けれど確かに、目が合った。
彼女は、何も言わずに軽く頭を下げた。
それだけだった。
でも、私の胸の奥に、淡く小さな何かが残った。
(……あのときのこと、忘れてないんだ)
祈った日。
届いたかもわからなかった願い。
けれど、今、マルシェの視線は、確かに“覚えている”ことを教えてくれた。
◇
その夜、私は久しぶりに心が揺れていた。
小さな灯火のように。
目を凝らさなければ見えないほどの、ささやかな揺らぎだった。
でも、それでも私は――祈った。
「……今日も、祈れました。
たった一瞬でも、誰かに届いていたと思えたから。
だから、どうか。わたしの祈りが、また誰かに寄り添えますように……」
風が、ほつれた髪を揺らした。
夜はまだ冷たかった。
でも、その風がどこか、やさしく感じられた。
その頃、私は知らなかった。
私の“祈り”が、教会の中でひとつの議題として扱われていることを。
◇
その日の夜――
聖堂本庁の中層区画、外部との通話や転送を遮断する“結界封鎖室”のひとつ。
通称《会議の間》。
教会の上層幹部たちが、実務的な方針を協議するために用いる密議の空間だった。
重厚な長机を囲むように、数人の高位神官たちが集まっている。
その中央には、一枚の魔力反応記録表が広げられていた。
黒と紫で塗りつぶされた測定値の断片が、淡く、そして不吉に光を放っていた。
「……確認はニ度。いずれも同様の反応」
「測定石の異常ではなく、“本人由来”と断定してよい」
「問題は、“それが意図によるものか否か”だろうな」
「――いずれにせよ、通常の祈祷とは異質です」
低い声が交差する。
慎重さの裏に、警戒と恐れが滲んでいた。
「彼女の属性は“闇”と判明している。加護反応も確認済み……つまり、“ノクティアの聖女”ということになる」
その言葉に、室内がしんと静まる。
「……女神ノクティアは“信仰の対象”にはあれど、“顕現の巫女”を擁する前例はない」
「光のリュミエルと並ぶ存在であっても、“沈黙の女神”に仕える者を、どう扱うかは……前例が、ない」
「扱いを誤れば、“聖女制度”そのものの信頼に関わる」
神官たちのまなざしが、再び記録表へと落ちた。
「よって――我々は、以下の措置を講じるべきと考える」
一人の神官が静かに紙を差し出す。
そこに記されていたのは――
《制御制限具の導入および、祈祷時の魔力封緘試験実施》
「祈りの強度を可視化するための測定儀具は、すでに旧記録庫に残されています。
“魔力制御の戒具”と呼ばれた、試作の祈祷封じ。……対象に対し、強制的な制限を」
「……使用は未認可だ。倫理規程に抵触する」
「だが、あの子の祈りは“倫理”を超えている。
このまま放置すれば、制御不能の魔力が自律的に発生する可能性もある」
言葉の交錯が、どこまでも静かで、どこまでも冷ややかだった。
そして――
「……あの子は、いずれ“聖女”の象徴になるだろう。
ならば、今のうちに“型”を定めておくべきだ。
“ノクティアの聖女”とは、何者であるかを――」
◇ ◇ ◇
翌朝。
私はまだ、そんな会議が行われていたことなど、夢にも思っていなかった。
ただ、また変化があったことだけは、すぐにわかった。
祈祷の場に用意されていた、“新しい儀具”。
私が祈るときだけ置かれる、白銀の装置。
祈りの際、両手を重ねる位置に導線が配置され、足元には刻印が彫られていた。
「……これは?」
誰に聞くでもなく、私はつぶやいた。
けれど、答える者はいなかった。
それが何を意味するかを知っている者も、知らない者も。
みな、黙ったまま、私の祈りを“観察”していた。
(……記録されてる)
そう思っただけで、胸の奥が、ひやりと凍るようだった。
けれど――それでも。
私は、祈った。
誰かのために。
誰にも見えないところで、誰かが泣いているのなら。
「……今日も、届きますように」
祈りの言葉は、抑えた声で、そっと空へと放たれた。
周囲の誰もが、その声を“数値”で測ろうとしている中で――
私は、自分の内側にだけ、微かなぬくもりを感じていた。
セレスティアが“ノクティアの聖女”と呼ばれはじめる、その第一歩を書きました。
誰かのために祈ること、それだけを信じてきた彼女の祈りが、“記録されるもの”として扱われていく――。
この静かで苦しい変化が、やがて彼女の中に小さな決意の光を灯していく物語です。
感情を声にせず、ただ祈り続けるセレスティアの姿が、もし少しでもあなたの心に残っていたら――
その想いの一端を「感想」や「ブクマ」、「いいね」という形で届けていただけると、本当に嬉しいです。
皆さまの反応は、物語を続けていく上での何よりの支えです。
どうか、静かな祈りの行方を、これからも見守ってください。
次回も、沈黙のなかで灯る小さな希望を綴っていきます。




