55 祈りのかたち
その週の終わり、私は再び呼び出された。
けれど今度は、中央礼拝堂ではなく――
“魔力測定室”と呼ばれる、教会の奥に位置する重厚な部屋だった。
石造りの厚い扉を抜けると、そこはひんやりとした空気に包まれていた。
中央には、黒曜石を思わせる巨大な魔力反応石。
六属性に応じた魔術刻印が床に彫り込まれ、淡く光を宿している。
「セレスティア・ルミオール。祈りによって発生する魔力を測定いたします。通常通りの祈りをお願いします」
神官の声は冷静で、儀式のようだった。
私はうなずき、測定石の前に立つ。
◇
深く息を吸い、手を胸の前に重ねる。
目を閉じて、静かに、祈り始めた。
「……神さま。今日も、誰かが笑えますように。
誰かの悲しみに、小さな灯がともりますように。
この祈りが、ほんの少しでも、誰かの救いになりますように」
その瞬間だった。
測定石が、低く、唸るような震動を放った。
石全体が黒い光に包まれ――次の瞬間、闇属性の紋が、眩いほどの深紫に輝いた。
「――!」
記録官が身を乗り出す。
「……属性反応、闇。測定値、上限超過……!? 魔力総量、規定基準を超えて計測不能……!」
他の属性紋は微かに揺らいだだけで、光を持たなかった。
ただひとつ、闇属性のみが圧倒的な濃度と強度で反応を示していた。
私は、目を開けた。
何が起きたのかは分からなかった。
けれど、測定室の空気が――明らかに変わっていた。
◇
「……魔力総量、測定上限を超過」
その言葉が、測定室に静かに響いた。
記録官たちは顔を見合わせ、何人かは測定石の反応値を確かめ直していた。
けれど、石の表面に浮かび続ける濃密な黒い光は、明らかに“例外”の兆しだった。
「闇属性、単一反応。……構文なし、外部干渉なし。
純祈由来と見なしてよいか?」
「可能性は高い。だが……この魔力量は、候補生の枠を超えている。
いや、正規の神官クラスと比較しても、上回っている……」
そんな声が、小さく交わされる。
私はただ、立ち尽くしていた。
祈っただけなのに。
ほんのいつも通りに、誰かのために祈っただけなのに。
なぜ、こんなにも世界がざわめくのだろう。
◇
測定後、私は何も告げられないまま、神官に付き添われて部屋を出た。
廊下に出ても、心の中のざわつきは収まらなかった。
足元がふわふわとして、身体の輪郭がぼやけているような気がした。
(闇属性……)
私は、それが何を意味するのかを、まだよく知らない。
けれど、教会の中で“光”と並ぶ象徴的な位置にある属性が、“闇”であることだけは知っていた。
光は、希望。
闇は、沈黙。
どちらも女神の一柱として信仰の対象にはなっている。
だが、現実として、闇に強く反応する存在は――常に“注意の対象”とされていた。
静かすぎる力。
形を持たず、誰かの影に寄り添うようにして現れる魔力。
目に見えにくく、言葉にもなりにくいもの。
だからこそ、恐れられやすい。
(でも、わたしの祈りは――)
ただ誰かを想って、願っただけだった。
◇
数時間後、リメルが私の部屋を訪ねてきた。
「測定、終わったのですね」
彼女の声はいつもと同じだった。
でも、目の奥に何かを探るような光が宿っていた。
「記録は正式に保存されました。……あなたの祈りは、教国の観測史においても例外的な“濃度”とされるでしょう」
「……悪いこと、なのでしょうか?」
思わず聞いてしまった。
それは弱さではなく、ただ、知りたかった。
“祈るだけではだめなのか”と。
リメルは、ほんの一瞬だけ言葉を止めてから、静かに答えた。
「……悪いかどうかは、まだ誰にも判断できません。
でも、あなたが祈ってきた日々が――“闇”の女神ノクティアに届いたということは、記録として残るでしょう」
私は、ノクティアという名を改めて意識した。
“夜と沈黙”の女神。
光の対極に立ち、すべての苦しみを抱いて眠る者。
その名を、私の祈りは知らずに呼んでいたのかもしれない。
◇
翌日から、私は再び奇妙な距離感の中に立つことになった。
神官たちの視線は、以前よりさらに慎重で、測定後の祈りには必ず監視がつくようになった。
食堂では、私の席だけが半端に空いていた。
“闇属性”。
その一語だけが、私の周囲の空気を変えていた。
何かを言われたわけではない。
でも、皆の沈黙が“壁”になっていくのがわかった。
それは、祈りを拒まれることよりも苦しかった。
(……私が、もし“光”だったら――)
誰にもそんなことを言われたわけじゃないのに。
私は、そんなことを考えてしまっていた。
その瞬間、自分の胸がひどく痛んだ。
(――それは、願っていたことじゃなかった)
光でも、闇でもない。
誰かの痛みに寄り添いたいと、ただ祈っていたはずなのに。
◇
夜。
私は、また中庭に立った。
空は月が欠けていた。
けれど、風はやわらかくて、少しだけ春の匂いが混じっていた。
目を閉じて、手を組む。
「神さま……」
声が自然にこぼれた。
「今日、わたしは少しだけ迷いました。
闇であることを、誰かが嫌がるのなら、祈ることも怖くなってしまうって……」
でも――
「それでも、私は祈りたいです。
この手が、誰かの痛みに触れられるのなら。
名前を呼ばれなくても、届く場所があるのなら。
どうか、それを間違いだと思わずにいられますように」
沈黙の中で、風がまたひとすじ、通り過ぎていった。
まるで、何かが“いいよ”と呟いてくれたような気がした。
◇ ◇ ◇
数日が経った。
周囲の態度は変わらなかった。
けれど、私の中に少しだけ変化があった。
“闇属性”。
その言葉が示すものに、最初は戸惑いしかなかった。
けれど今では、それが私にとって“ただの記録”ではなく――
私の祈りの色であるように感じ始めていた。
暗がりの中で、誰かの痛みに寄り添う祈り。
名前も顔も知らない人に、そっと灯りを届けるような――
そんな祈りが、確かに“ここ”にあったのだと。
◇ ◇ ◇
ある日の午後、また測定室から連絡が来た。
“再測定の必要性あり”――
記録官たちの間で、私の魔力量が“誤記ではないか”という疑問が挙がっているという。
それは、私にとってはどうでもいいことだった。
数値がどうであれ、私の祈りが“誰かのため”であることに、変わりはなかったから。
けれど、それでも私は応じることにした。
この力を、ただ否定されないために。
“祈ることしかできない”私自身を、貫くために。
◇
再測定は、最初のときよりも緊張した空気だった。
部屋の隅には、教導区の高位神官らしき人物もいた。
リメルの姿もあったが、彼女は何も言わず、ただこちらを見つめていた。
私は、何も語らずに測定石の前に立った。
そして、ただ、祈った。
光でも、火でも、風でもない。
静けさと影を抱く、“あの女神”――
私の中にずっと在った、名前も知らなかった“存在”に向けて、今、はじめて名を呼ぶ。
「……ノクティア様。
夜を包むその手が、誰かの涙に届きますように。
言葉にならない苦しみに、ひとしずくのやすらぎを。
どうか、あなたの闇が、痛みに寄り添う場所でありますように――」
私のすべてを、その祈りに込めた。
◇
その瞬間だった。
測定石が、低く唸りを上げ――そして、爆ぜるように光った。
六つの属性紋のうち、ひとつ――闇の紋が、測定室全体を包むほどの深紫の光を放った。
黒と紫が渦を巻き、空間の温度さえ変わったように感じられた。
「っ……測定石、反応過剰! 制御が――!」
「魔力強度……先ほどより遥かに増大! 記録値が、器に収まりません! 数値化不能、警告域突破!」
石の中心からあふれる深紫の光は、もはや“祈りの記録”ではなく、“顕現”そのものだった。
記録官の筆が、音もなく止まった。
測定石はなおも深紫の光を湛え、空気がわずかに震えていた。
「……こんな反応値、教導区の記録にも例がない……」
「闇属性でこれほどの濃度……本当に“祈祷”によるものなのか……?」
「素質ではなく、祈祷によってこの量が顕現している……?」
神官たちの声が交差していく。
そのなかで、私はひとり、静かに祈り終えた。
それが私だった。
それが、今の私の“祈りのかたち”だった。
◇
その日の夜、私は中庭に出た。
空は晴れていて、星がいくつも瞬いていた。
けれど、私は空を見なかった。
見ていたのは、自分の手。
闇に溶けるように白いその指先を、私は胸の前でそっと重ねた。
「……私は、ノクティア様の″加護″を授かった」
言葉にするのは、はじめてだった。
「でも、それが誰かを救うなら。
光でなかったとしても、手を差し伸べられるなら。
私は、これでいい。私は、祈り続けたい」
それは、決意だった。
“祈ることしかできない”――
その言葉はもう、私を縛るものではなかった。
むしろそれは、“祈れる者”としての唯一の誇りだった。
◇ ◇ ◇
その後しばらく、私は測定の対象から外された。
理由は示されなかった。
けれど、記録が残った以上、私が“例外”として扱われることは避けられなかったのだろう。
それでも私は、変わらずに祈った。
朝も、夜も。
誰にも知られない場所で。
誰かのために。
特別でなくていい。
奇跡でなくてもいい。
名前も、評価も、光もなくていい。
ただ――心からの祈りが、ひとつでも届くのなら。
私は、この手を、決して離さない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
“祈ることしかできない”――
その言葉に込められた無力さと、だからこそ生まれる強さを、少しずつ丁寧に描いていけたらと思っています。
闇属性という形で現れたセレスティアの祈り。
それはきっと、優しさのかたち。光では照らせない場所に、そっと手を差し伸べるような、静かなあたたかさ。
誰かの心に、この“祈りのかたち”が届いていたら嬉しいです。
感想・ブクマ・応援のいいねなど、いつも本当に励みになっています。
次回も、よろしければお付き合いくださいね。




