54 祈ることしかできないから
「セレスティア様、お目覚めの時間です」
ノックの音に続いて、神官見習いの少女の声が部屋に届いた。
目を開けると、薄明の光が細くカーテンの隙間から差し込んでいた。
昨日と同じ、白い壁、清潔な寝具、静けさに満ちたこの空間。
それでも、私はすぐに気づいていた――何かが、違っている。
昨日までの私は、ただの「セレス」だった。
でも今は、「セレスティア・ルミオール」。
教国に記された、“本聖女候補”としての名を与えられた存在。
その名前を、自分の中にうまく馴染ませることができないまま、私はゆっくりと身を起こした。
◇
支度を終えて部屋を出ると、廊下にはすでに薄い香の匂いが漂っていた。
淡い金の光が灯された燭台の下、見習いたちが静かに掃除をしている。
誰かがこちらを見た――ような気がした。
けれど、顔を上げたときにはもう、その視線は逸れていた。
すれ違いざまに軽く頭を下げられる。言葉はない。
ただ、そこにあるのは確かに、“距離”だった。
私は静かに礼拝堂へ向かう。
朝の祈りは、いつも通りの時間に始まる。
けれど、私の心は“いつも”の形をしていなかった。
◇
六女神の像が並ぶその空間に足を踏み入れた瞬間、私の背筋は自然と伸びた。
けれど、目に見えない何か――空気の重みのようなものが、私の肩に静かに降り積もってくる。
――ああ、見られている。
それが幻ではないと知るのに、そう時間はかからなかった。
新たに聖女候補に加えられた少女たちの列の隙間。
その最後尾、中央の台座の前に、**“名を与えられた者”**として、私は立っていた。
見習いの者たちが視線を向ける。
神官の数人が、私の姿にちらりと目を向けて何かを記録しているのが見えた。
遠巻きに立つリメルの姿が、一瞬だけ私と視線を交わす。だが、彼女の顔には何の感情も浮かんでいなかった。
私は、白く磨かれた台座の前に立ち、そっと膝をついた。
◇
祈る姿勢はもう、体が覚えていた。
でも――祈りそのものは、今も心の奥から絞り出すものだった。
「……神さま、今日も、誰かが笑えますように……」
昨日と同じ祈り。
村を出る日も、教国に来た日も、マルシェに祈ったときも。
私はずっと、この言葉を繰り返している。
でも、“誰か”が笑ってくれるだけで、本当に十分なのだろうか。
この場所で、“セレスティア・ルミオール”として祈ることが――
本当に、誰かの救いになるのだろうか。
祈りの声は小さく、でも確かに広がっていく。
白い石壁が、その言葉を吸い込むように静まり返っていた。
私はゆっくりと、祈祷台の前に立った。
静かに目を閉じる。両手を胸の前に重ねる。
構文も、術式も、私は知らない。ただ――
「……神さま。今日も、誰かが、笑えますように……」
声はかすかに震えていた。
でも、心はまっすぐだった。
何も起きない。光も、音も、奇跡も。
ただ、私の手は、自分の胸に静かに重ねられていた。
◇
「……以上です」
私はそう言って、深く頭を下げた。
数秒の沈黙のあと、講師が口を開いた。
「……構文に基づいた祈りではありませんでしたが、“純祈”として記録しておきます。戻ってください」
私は小さくうなずき、席へ戻った。
背中に感じるのは、無言の空気。
誰も何も言わない。
でも、たぶん――私は、また“何かが違う”人になったのだ。
◇
午後の講義は、回復祈祷の基礎と実技だった。
聖女候補たちは、仮想の治癒対象に見立てた木像の前で、それぞれの祈祷を試みていた。
手のひらに魔力を込め、祈りの構文を唱えると、木像にかけられた魔術的な傷が徐々に癒されていく。
「よし、今の構文は安定していた。次、アナスタシア」
講師の声に呼ばれたのは、髪を高く束ねた金髪の少女だった。
彼女の祈りは的確で、魔力の流れも滑らかだった。
教室の一角で、それを見つめながら、私はそっと手を握った。
――私は、あんなふうには祈れない。
祈りの形も、光も、術も――何も持っていない。
「セレスティア・ルミオール、あなたもどうぞ」
私は立ち上がった。
祈祷台の前に立ち、静かに手を合わせる。
誰もが見ているのを感じた。
けれど、私は目を閉じる。
「……神さま、この傷が癒えますように」
ただ、それだけを願った。
言葉にした瞬間、胸の奥がほんの少しだけ熱を帯びる。
けれど――木像は、微動だにしなかった。
沈黙。
講師がゆっくりと記録用紙に文字を走らせた音が、やけに大きく感じられた。
「……はい、戻ってください」
声は穏やかだったけれど、温度がなかった。
◇
講義が終わると、私は静かに荷物をまとめた。
周囲では、何人かの少女たちが集まって談笑していた。
「リセリアの祈祷、ほんとにすごかったよね」
「私はまだ発光すら安定しないのに……」
セレスティアという名前は、その輪の中にはなかった。
けれど、時折向けられる視線に、私は微笑みを返すことも、できなかった。
“聖女候補”という肩書きだけを与えられて、
でも中身が追いついていないのは――誰よりも、自分がわかっていた。
祈ることしかできない。
その言葉が、今日という一日に何度も胸を刺した。
◇
夕方、礼拝堂の裏庭に回ると、誰もいなかった。
日が傾き始めて、影が長く伸びている。
私は草の上にそっと座った。
祈ることしかできない――
けれど、その“祈り”さえ、誰にも届いていないように感じる。
マルシェのときは、ほんの少しでも、何かが届いたと思えた。
でも、それが本当に“奇跡”だったのか、あるいは偶然だったのか――
私には、証明する術がない。
風が吹いた。草がざわめく。
私は手を組み、目を閉じた。
「……神さま。今日、私は少しだけ、自信をなくしました」
声に出した瞬間、涙がにじみそうになって、慌てて吸い込んだ。
「みんな、すごいんです。私には、わからない言葉を、たくさん知っていて。
魔力もあって、構文も覚えていて……私には、なにもなくて……」
声が震えた。
「でも……それでも、祈っていいですか?」
誰にも届かなくてもいい。
この気持ちが、誰かの明日につながると、信じたい。
「今日も、誰かが笑えますように。
悲しいことが、少しだけでも減りますように。
苦しい夜が、やわらかい朝に変わりますように――」
目を開くと、空が茜色に染まっていた。
そして――遠くの柱の陰に、誰かの気配を感じた。
でも、それが誰だったのかは、見えなかった。
◇
夜、寮の食堂では、誰も私に話しかけてこなかった。
食器の音が静かに響く中、私はひとり、粥をすくって口に運ぶ。
味は、何も変わっていないはずなのに――
ほんの少し、冷たく感じた。
◇
夜、寮に戻っても、私は眠れなかった。
ベッドに横になり、目を閉じる。けれど、意識のどこかがずっと醒めていて、眠気は浅い水面の向こうにあるようだった。
何度目かの寝返りを打ったあと、私は静かに毛布を抜け出した。
誰もいない廊下。
誰もいない階段。
そして、誰もいない礼拝堂の裏庭。
夜の空は高く、月がほそく光っていた。
昼間の光と違って、この月は私を責めなかった。
ただ、そこにあるだけで、私の足元を照らしてくれるように感じた。
◇
私は、祈った。
言葉にしなくても、胸の奥で祈ることができるようになってきた。
でも今は、声に出したかった。
誰かに伝えるためではなく――自分に、届かせるために。
「……私は、何もできません。
祈ることしか、できません。
それでも、どうか……それが、誰かのためになりますように」
目を閉じたまま、そっと深呼吸する。
風が、頬を撫でた。
それだけのことなのに、胸の奥が、じんわりとあたたかくなった気がした。
◇
翌朝、私は少しだけ早く目を覚ました。
朝の鐘が鳴るよりも前に、身支度を済ませる。
廊下を歩くと、窓の外がうっすらと白んでいた。
夜が明けるその瞬間が、私は一番好きだった。
世界が静かに目を覚まし、すべてがまだ誰のものでもないように感じる時間。
礼拝堂に向かうと、すでに誰かが中にいた。
リメルだった。
彼女は灯された燭台の光の前に立ち、背を向けて祈っていた。
その姿には、威圧感も誇りもなく、ただ真摯さだけがあった。
私は、そっとその後ろに立って、自分の場所に膝をついた。
祈りの言葉は、もう心の中にあった。
「……今日も、誰かが笑えますように」
それは、昨日と同じ。
何も変わらない、私の祈り。
でも、今はそれを――自分の中で、**確かに“選んでいる”**と感じる。
“祈ることしかできない”のではなく、
私は、祈ることを“選び続ける”のだ。
◇
朝の祈りが終わったあと、リメルが少しだけ遅れて私に声をかけた。
「早起きなのね」
「……目が覚めてしまって」
「名を持つと、眠れなくなることもあるわ」
そう言って、彼女は静かに微笑んだ。
「でも、それは悪いことじゃない。名は、責任でもあるけれど、あなた自身の選んだ道しるべにもなるのだから」
私は、その言葉を胸に刻んだ。
◇
その日、私は“自分のため”に祈った。
誰かに褒められるためでも、評価されるためでもなく。
ただ、自分が信じる道のために。
祈ることしかできない、でも祈れるということが、私のすべてだから。
誰かに届かなくても、いい。
でも、誰かに届いたときには、ちゃんと“笑って”伝えられるように――
私は、今日も祈る。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
祈ることしかできない――
そんな無力さの中にも、小さな強さが宿っていると、私は信じたいです。
誰かの笑顔のために、今日も祈るセレスティアの姿が、ほんの少しでも皆さまの心に届いていたら嬉しいです。
感想やブクマ、応援のお言葉、本当に励みになります。
どうかこの先の彼女の道も、そっと見守っていただけたら幸いです。




