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『異世界転生でアイドル目指します。』  作者: 星空りん
第三章 声にならない願い
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54 祈ることしかできないから

 「セレスティア様、お目覚めの時間です」


 ノックの音に続いて、神官見習いの少女の声が部屋に届いた。


 目を開けると、薄明の光が細くカーテンの隙間から差し込んでいた。

 昨日と同じ、白い壁、清潔な寝具、静けさに満ちたこの空間。

 それでも、私はすぐに気づいていた――何かが、違っている。


 昨日までの私は、ただの「セレス」だった。

 でも今は、「セレスティア・ルミオール」。

 教国に記された、“本聖女候補”としての名を与えられた存在。


 その名前を、自分の中にうまく馴染ませることができないまま、私はゆっくりと身を起こした。



 支度を終えて部屋を出ると、廊下にはすでに薄い香の匂いが漂っていた。

 淡い金の光が灯された燭台の下、見習いたちが静かに掃除をしている。


 誰かがこちらを見た――ような気がした。


 けれど、顔を上げたときにはもう、その視線は逸れていた。

 すれ違いざまに軽く頭を下げられる。言葉はない。

 ただ、そこにあるのは確かに、“距離”だった。


 私は静かに礼拝堂へ向かう。


 朝の祈りは、いつも通りの時間に始まる。

 けれど、私の心は“いつも”の形をしていなかった。



 六女神の像が並ぶその空間に足を踏み入れた瞬間、私の背筋は自然と伸びた。


 けれど、目に見えない何か――空気の重みのようなものが、私の肩に静かに降り積もってくる。


 ――ああ、見られている。


 それが幻ではないと知るのに、そう時間はかからなかった。


 新たに聖女候補に加えられた少女たちの列の隙間。

 その最後尾、中央の台座の前に、**“名を与えられた者”**として、私は立っていた。


 見習いの者たちが視線を向ける。

 神官の数人が、私の姿にちらりと目を向けて何かを記録しているのが見えた。

 遠巻きに立つリメルの姿が、一瞬だけ私と視線を交わす。だが、彼女の顔には何の感情も浮かんでいなかった。


 私は、白く磨かれた台座の前に立ち、そっと膝をついた。



 祈る姿勢はもう、体が覚えていた。

 でも――祈りそのものは、今も心の奥から絞り出すものだった。


「……神さま、今日も、誰かが笑えますように……」


 昨日と同じ祈り。

 村を出る日も、教国に来た日も、マルシェに祈ったときも。

 私はずっと、この言葉を繰り返している。


 でも、“誰か”が笑ってくれるだけで、本当に十分なのだろうか。


 この場所で、“セレスティア・ルミオール”として祈ることが――

 本当に、誰かの救いになるのだろうか。


 祈りの声は小さく、でも確かに広がっていく。

 白い石壁が、その言葉を吸い込むように静まり返っていた。


 私はゆっくりと、祈祷台の前に立った。

 静かに目を閉じる。両手を胸の前に重ねる。

 構文も、術式も、私は知らない。ただ――


「……神さま。今日も、誰かが、笑えますように……」


 声はかすかに震えていた。

 でも、心はまっすぐだった。


 何も起きない。光も、音も、奇跡も。


 ただ、私の手は、自分の胸に静かに重ねられていた。



 「……以上です」


 私はそう言って、深く頭を下げた。


 数秒の沈黙のあと、講師が口を開いた。


 「……構文に基づいた祈りではありませんでしたが、“純祈”として記録しておきます。戻ってください」


 私は小さくうなずき、席へ戻った。

 背中に感じるのは、無言の空気。


 誰も何も言わない。

 でも、たぶん――私は、また“何かが違う”人になったのだ。



 午後の講義は、回復祈祷の基礎と実技だった。


 聖女候補たちは、仮想の治癒対象に見立てた木像の前で、それぞれの祈祷を試みていた。

 手のひらに魔力を込め、祈りの構文を唱えると、木像にかけられた魔術的な傷が徐々に癒されていく。


 「よし、今の構文は安定していた。次、アナスタシア」


 講師の声に呼ばれたのは、髪を高く束ねた金髪の少女だった。

 彼女の祈りは的確で、魔力の流れも滑らかだった。


 教室の一角で、それを見つめながら、私はそっと手を握った。


 ――私は、あんなふうには祈れない。


 祈りの形も、光も、術も――何も持っていない。


 「セレスティア・ルミオール、あなたもどうぞ」


 私は立ち上がった。


 祈祷台の前に立ち、静かに手を合わせる。


 誰もが見ているのを感じた。

 けれど、私は目を閉じる。


「……神さま、この傷が癒えますように」


 ただ、それだけを願った。

 言葉にした瞬間、胸の奥がほんの少しだけ熱を帯びる。

 けれど――木像は、微動だにしなかった。


 沈黙。

 講師がゆっくりと記録用紙に文字を走らせた音が、やけに大きく感じられた。


 「……はい、戻ってください」


 声は穏やかだったけれど、温度がなかった。



 講義が終わると、私は静かに荷物をまとめた。

 周囲では、何人かの少女たちが集まって談笑していた。


 「リセリアの祈祷、ほんとにすごかったよね」

 「私はまだ発光すら安定しないのに……」


 セレスティアという名前は、その輪の中にはなかった。

 けれど、時折向けられる視線に、私は微笑みを返すことも、できなかった。


 “聖女候補”という肩書きだけを与えられて、

 でも中身が追いついていないのは――誰よりも、自分がわかっていた。


 祈ることしかできない。


 その言葉が、今日という一日に何度も胸を刺した。



 夕方、礼拝堂の裏庭に回ると、誰もいなかった。

 日が傾き始めて、影が長く伸びている。


 私は草の上にそっと座った。


 祈ることしかできない――

 けれど、その“祈り”さえ、誰にも届いていないように感じる。


 マルシェのときは、ほんの少しでも、何かが届いたと思えた。

 でも、それが本当に“奇跡”だったのか、あるいは偶然だったのか――

 私には、証明する術がない。


 風が吹いた。草がざわめく。


 私は手を組み、目を閉じた。


「……神さま。今日、私は少しだけ、自信をなくしました」


 声に出した瞬間、涙がにじみそうになって、慌てて吸い込んだ。


「みんな、すごいんです。私には、わからない言葉を、たくさん知っていて。

 魔力もあって、構文も覚えていて……私には、なにもなくて……」


 声が震えた。


「でも……それでも、祈っていいですか?」


 誰にも届かなくてもいい。

 この気持ちが、誰かの明日につながると、信じたい。


「今日も、誰かが笑えますように。

 悲しいことが、少しだけでも減りますように。

 苦しい夜が、やわらかい朝に変わりますように――」


 目を開くと、空が茜色に染まっていた。

 そして――遠くの柱の陰に、誰かの気配を感じた。


 でも、それが誰だったのかは、見えなかった。



 夜、寮の食堂では、誰も私に話しかけてこなかった。

 食器の音が静かに響く中、私はひとり、粥をすくって口に運ぶ。


 味は、何も変わっていないはずなのに――

 ほんの少し、冷たく感じた。



 夜、寮に戻っても、私は眠れなかった。


 ベッドに横になり、目を閉じる。けれど、意識のどこかがずっと醒めていて、眠気は浅い水面の向こうにあるようだった。


 何度目かの寝返りを打ったあと、私は静かに毛布を抜け出した。


 誰もいない廊下。

 誰もいない階段。

 そして、誰もいない礼拝堂の裏庭。


 夜の空は高く、月がほそく光っていた。

 昼間の光と違って、この月は私を責めなかった。

 ただ、そこにあるだけで、私の足元を照らしてくれるように感じた。



 私は、祈った。


 言葉にしなくても、胸の奥で祈ることができるようになってきた。

 でも今は、声に出したかった。

 誰かに伝えるためではなく――自分に、届かせるために。


「……私は、何もできません。

 祈ることしか、できません。

 それでも、どうか……それが、誰かのためになりますように」


 目を閉じたまま、そっと深呼吸する。


 風が、頬を撫でた。


 それだけのことなのに、胸の奥が、じんわりとあたたかくなった気がした。



 翌朝、私は少しだけ早く目を覚ました。

 朝の鐘が鳴るよりも前に、身支度を済ませる。


 廊下を歩くと、窓の外がうっすらと白んでいた。

 夜が明けるその瞬間が、私は一番好きだった。

 世界が静かに目を覚まし、すべてがまだ誰のものでもないように感じる時間。


 礼拝堂に向かうと、すでに誰かが中にいた。


 リメルだった。


 彼女は灯された燭台の光の前に立ち、背を向けて祈っていた。

 その姿には、威圧感も誇りもなく、ただ真摯さだけがあった。


 私は、そっとその後ろに立って、自分の場所に膝をついた。


 祈りの言葉は、もう心の中にあった。


 「……今日も、誰かが笑えますように」


 それは、昨日と同じ。

 何も変わらない、私の祈り。

 でも、今はそれを――自分の中で、**確かに“選んでいる”**と感じる。


 “祈ることしかできない”のではなく、

 私は、祈ることを“選び続ける”のだ。



 朝の祈りが終わったあと、リメルが少しだけ遅れて私に声をかけた。


 「早起きなのね」


 「……目が覚めてしまって」


 「名を持つと、眠れなくなることもあるわ」


 そう言って、彼女は静かに微笑んだ。


 「でも、それは悪いことじゃない。名は、責任でもあるけれど、あなた自身の選んだ道しるべにもなるのだから」


 私は、その言葉を胸に刻んだ。



 その日、私は“自分のため”に祈った。


 誰かに褒められるためでも、評価されるためでもなく。


 ただ、自分が信じる道のために。

 祈ることしかできない、でも祈れるということが、私のすべてだから。


 誰かに届かなくても、いい。

 でも、誰かに届いたときには、ちゃんと“笑って”伝えられるように――


 私は、今日も祈る。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。


祈ることしかできない――

そんな無力さの中にも、小さな強さが宿っていると、私は信じたいです。


誰かの笑顔のために、今日も祈るセレスティアの姿が、ほんの少しでも皆さまの心に届いていたら嬉しいです。


感想やブクマ、応援のお言葉、本当に励みになります。

どうかこの先の彼女の道も、そっと見守っていただけたら幸いです。

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