53 セレスティア・ルミオール
六女神の像は、どれも石でできているはずなのに、どこか柔らかさとあたたかさを感じさせる顔をしていた。
その前に並べられた祈りの台座は、中央にひとつ、そして六柱それぞれの前にもひとつずつ――合計七つ。
中央の台座は、教国において“聖女”が祈るために用意された特別なものだと、リメルが静かに告げた。
「どうか、緊張なさらず。普段どおりで構いません」
普段どおり。
その言葉の意味を、私はもう少しで聞き返してしまいそうだった。
私の“普段”は、納屋の隅や、野原の一角で、小さな手を組むだけの祈りだった。
それを“ここ”で、“この場所”で、“誰かに見られながら”祈ることが――同じだと言えるのだろうか。
けれど、私はうなずいた。
怖くない、と言えば嘘になる。
でも、それでも、私は逃げたくなかった。
白く磨かれた床に、膝をつく。
両手を胸の前で組み、目を閉じる。
その一連の動作が、まるで台本のように自然にできる自分に驚いた。
私は、いつから“祈る動作”を体で覚えていたのだろう。
◇
「……神さま」
声は、ごく小さくしか出なかった。
でも、それでも空間に吸い込まれていく。
「今日も、誰かが笑えますように」
それは、村を出る日にも唱えた言葉だった。
母のために。カイのために。そして、知らない誰かのために。
「誰かが、寒さに凍えないように。
病気の人が、朝を迎えられるように。
祈りが、誰かの悲しみをすこしでも軽くできますように――」
声に出す言葉は、やがて震えはじめる。
怖いのでも、苦しいのでもない。ただ、気づけば涙がこぼれていた。
だれの顔も見ていない。
でも、だれかを、ずっと思っていた。
その気持ちが、胸の奥からあふれて、言葉に混ざってしまったのだ。
最後のひと呼吸を、そっと空に捧げて、私はゆっくりと目を開けた。
◇
――教会の広間は、静かだった。
誰も、声を出していなかった。
神官たちも、リメルも、建物の奥から見守っていた他の聖女候補らしき少女たちも。
ただ、すべての視線が、私に注がれていた。
けれど、不思議と、私は怖くなかった。
むしろ、どこか穏やかな気持ちさえしていた。
……私は、ちゃんと、祈れた。
そう思えたから。
だが、その静けさを破ったのは、白銀の装束を身に纏った一人の神官だった。
額に光の紋章を持ち、ゆっくりと前に進み出ると、私の祈りのあとに、小さく言った。
「――“純祈”。そのように記録します」
純祈? 私はその言葉を知らなかった。
神官は続けた。
「いかなる術式の加護もなく、神経誘導も行われていない。祈りの構文に偽りなし。
この祈りは、完全に自発的な、神への純祈と認められます」
周囲に小さなどよめきが広がる。
私は、何が起きているのか分からなかった。
リメルが、静かに私のそばへと歩み寄り、ひざまずいて言った。
「……おめでとうございます。セレスティア様。
この瞬間より、あなたは正式に――教国が認める“聖女候補”となりました」
◇
何も、変わっていない気がした。
それでも、世界が違って見えた。
神殿の柱が、天井が、女神像が、今までよりも遠く、そして重く感じられた。
私は、誰かの期待に応えたのだろうか。
それとも、自分の祈りが、ほんの少しでも届いたから、認められたのだろうか。
その答えは、まだわからなかった。
けれど、私は静かに、目を伏せたまま祈りの姿勢を保った。
――神さま。
この祈りが、私だけのものになりませんように。
◇ ◇ ◇
その出来事は、あまりにも静かに起きた。
午後の講義が終わり、礼拝堂の掃除をしていたときだった。
年長の聖女候補のひとり――マルシェという少女が、突然、足元をふらつかせたのだ。
「っ……!」
隣にいた神官がすぐに支えたが、マルシェは顔をしかめ、しゃがみこんでしまった。
額には汗が滲み、唇はうっすらと紫色に染まっていた。
「……だ、大丈夫です……」
か細くそう言うマルシェの声は震えていた。
その言葉に頷く神官の目が、わずかに迷っていたのを私は見逃さなかった。
「リメル様、寮へ――」
別の神官が名を呼びかけたとき、私は自然と動いていた。
マルシェの隣にしゃがみ、手を重ねる。
手のひらの温度が、彼女の冷たい指先に触れたとき、胸の奥がふるえた。
「……祈らせてください」
誰に向けて言ったのかも、わからなかった。
でも、その場にいた誰もが、私を止めなかった。
◇
私は静かに目を閉じた。
ここがどこであれ、何を求められていようと――
私の祈りは、ただ“誰かのため”にある。
「神さま……この人が、明日を迎えられますように。
この苦しみが、やわらぎますように。
どうか、笑える日が、また来ますように」
言葉は小さかった。けれど、胸の奥から滲み出るような祈りだった。
そのときだった。
――ふわり、と風が揺れた。
礼拝堂の窓は閉じていた。香の煙もまっすぐに立ちのぼっていたはずだった。
それが、祈りの最中にだけ、ほんのわずかにゆらいだ。
そして。
マルシェが、目を見開いた。
「……あれ?」
頬に手を当て、何かを確かめるように瞬きを繰り返す。
額の汗が引き、唇にわずかに色が戻っていた。
「身体が……楽になった……」
誰かが、息をのんだ。
◇
その日、私は“奇跡を起こした子”として、そっと名前を覚えられた。
神官たちは口をつぐみ、リメルは慎重な視線を向けたまま、何も言わなかった。
他の聖女候補たちの視線も、明らかに変わっていた。
驚きと、戸惑いと、遠ざかる気配。
でも、マルシェだけは、違った。
その日の夜、私は中庭で祈っていたとき、彼女に声をかけられた。
「……あのとき、ありがとう」
短く、それだけ。
でも、その声には、確かに感謝がこもっていた。
私は静かに首を振った。
「祈っただけです。ほんとうに、届いたのかもわからないけれど……」
「ううん。届いてたよ」
そう言って微笑んだマルシェは、どこか少し寂しそうだった。
「でも、セレスティア。気をつけてね」
「……なにを?」
「“祈り”って、不思議な力だから。人の心を救うこともあるけど――
同じくらい、怖がられることもあるんだよ」
その言葉が、しばらく胸に残った。
◇
奇跡。
そう呼ばれたものが、ほんとうに“神さまの力”だったのか、
それとも、私の祈りが誰かの心に届いたのか――
その答えは、誰にもわからなかった。
けれど、それからというもの、私は人目を感じることが増えた。
静かに、でも確かに。
祈るたびに、その視線は重さを増していった。
誰かが見ている祈り。
記録される祈り。
評価される祈り。
それでも私は――祈ることを、やめなかった。
◇ ◇ ◇
“奇跡”と呼ばれた祈りの出来事から、数日が経った。
私は相変わらず、朝に目を覚まし、祈り、講義を受け、静かな部屋に戻る日々を繰り返していた。
でも、そのすべての瞬間に――視線があった。
遠くから。横から。時には背中から。
教官も、神官も、そして他の聖女候補たちも、私を“特別な存在”として見ていた。
でもそれは、“憧れ”でも“好意”でもなかった。
もっと静かで、冷たく、距離を取るような何かだった。
私は知っていた。
それは“奇跡”と呼ばれた力が、だれかの“希望”であると同時に、“異質さ”として恐れられていることを。
◇
それはある夜、祈りのあとで洗礼室に戻る途中の廊下でのことだった。
廊下の奥、柱の影から、静かに話す声が聞こえた。
「……本当に“祈り”だけで回復したんですか? あの子の」
「記録上は“純祈”。神意による治癒と報告されましたが……」
「もし、何か別の力が働いていたのだとしたら?」
私は、足を止めた。
「“特異祈祷”。あるいは、“干渉祈祷”の可能性もあります。意図せぬ形で力が向いたのなら、異常反応として対処すべきかと」
「……ですが、正式に“奇跡”と報告されてしまった以上、上層への判断を待たねばなりませんね」
その声は低く、どこまでも冷静だった。
私は、廊下を離れた。
音を立てないように。呼吸さえ浅くして。
誰の目にも映らない場所で、私はそっと胸に手を置いた。
あの祈りのとき、私は確かに“願って”いた。
マルシェのことを――ただ、それだけを。
それが、“誰かを傷つけた”のだろうか?
◇
違和感は、翌朝にはさらに強くなっていた。
朝の祈りの時間。
私はいつも通り手を組み、六女神の像の前で目を閉じた。
でも、祈ろうとした瞬間、胸の奥でふと冷たいものが広がった。
(……この祈りは、本当に“誰かを救っている”のだろうか?)
初めての疑問だった。
そして、それはすぐに消せるような小さなものではなかった。
◇
午後、講義の最中。
いつもは控えめに話す神官が、こんなことを口にした。
「“祈り”は、神に向けて捧げるものです。そして、神が応えるか否かは、選ばれた者にしかわかりません。
ゆえに、結果が現れたときは、“神意”と見なすのが教義の基本です」
私は手を挙げかけて、やめた。
“それが、本当に神意なのか”と問いかけたかった。
けれど、教室の空気が、あまりに張りつめていて、口を開くことができなかった。
◇
その夜、寮の部屋で私は祈らなかった。
窓から月が見えていたけれど、手を組むことができなかった。
“誰かを救う祈り”が、もし“誰かを苦しめる祈り”だったとしたら――
それでも、私は祈り続けるべきなのか。
その問いの答えは、まだどこにもなかった。
◇ ◇ ◇
ある日の朝、私は呼び出された。
鐘が三つ鳴ったあと、まだ祈りの時間も始まっていないころ。
使いの神官が私の部屋をノックし、「中央礼拝堂にお越しください」とだけ言った。
何か悪いことをしただろうか――そんな不安が胸をよぎった。
昨日も、一昨日も、私は変わらず祈りを捧げていた。誰かと争ったわけでも、規律を破ったわけでもない。
けれど、その「理由がわからない呼び出し」こそが、私の胸に冷たい水を落とした。
◇
中央礼拝堂はまだ人影がまばらで、燭台の光だけが淡く石壁を照らしていた。
その最奥、六柱の女神像が並ぶ前に、数名の神官とリメルが立っていた。
私は一歩、また一歩と足を進める。
その空間に、静かな声が響いた。
「セレスティア。――あなたに、名を与えます」
私は、はっとして顔を上げた。
「あなたは、これより“本聖女候補”として教国の記録に刻まれ、神意のもとに歩む者となる。
その証として、教国より姓を授けましょう」
リメルが静かに前へ進み出て、続けた。
「以後、あなたは――セレスティア・ルミオールとして記されます」
ルミオール。
それが、私に与えられた初めての“姓”だった。
村では、ただ“セレス”と呼ばれていた。
名前しかなかった私に、初めて“名乗るべきもの”が与えられた瞬間だった。
それはとても不思議な感覚だった。
身に余るようで、でも、どこかほんの少しだけ誇らしくもあった。
◇
「――神意と証されたあなたの祈りをもって、教国はあなたを“本聖女候補”として正式に登録することを決定しました」
本聖女候補。
その言葉の重みが、すぐには理解できなかった。
「これまで六人の聖女候補の中で、祈りの構文・純度・神応の反応、いずれも最上と評価されました。
あなたの祈りは、神の声をもっとも近くに宿している――そう記録されております」
私は、言葉を返すことができなかった。
ただ、静かに目を伏せた。
◇ ◇ ◇
それからの数日は、目まぐるしかった。
新たな白金の衣が用意され、儀礼のための振る舞いや動作を学び、祈祷文の暗唱も細部に至るまで確認された。
まるで、私が“祈る者”ではなく、“祈らされる者”として、形作られていくようだった。
式典の準備、公式の報告、視察者への対応――
私の“名前”は、人々の間で静かに広まりつつあった。
「セレスティア様」と呼ばれるたびに、私は小さくなる心を押しとどめるように、唇を引き結んだ。
◇ ◇ ◇
ある夜、私は再び、誰もいない中庭に立っていた。
空は雲に覆われ、月も見えなかった。
それでも私は、目を閉じ、そっと祈った。
「……神さま。
私は、このままでいいのでしょうか。
私は、だれかを救える“本当の聖女”になれるのでしょうか」
問いは、返ってこなかった。
風も吹かなかった。
それでも私は、そこでしばらくじっと立ち尽くしていた。
“祈ることしかできない”――
その言葉は、かつて私の希望だった。
でも今、それは私を縛る鎖のようにも感じられた。
“祈る”ということに、誰かの期待と、疑念と、欲望と、政治と、権威と――
さまざまなものが絡みついていく。
それでも、祈ることはやめたくなかった。
この手が、誰かに届くと信じたかった。
◇ ◇ ◇
その翌日、私は聖堂の前に立ち、多くの目に見つめられながら、
“本聖女候補――セレスティア・ルミオール”として、祈りを捧げた。
手を胸に重ね、女神の像を仰ぐ。
目を閉じ、静かに息を吸い込んで――
「……今日も、誰かが笑えますように」
その祈りが、どこまで届いたかはわからない。
でもそのとき、胸の中には、ほんの少しの温かさが残っていた。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
この第53話では、セレスティアが正式に“本聖女候補”として認められ、教国における立場が一段と重いものになっていく様子を描きました。
祈るだけで、誰かを救える。
けれどその力が、周囲に“奇跡”と呼ばれた瞬間から、彼女の周囲は変わっていきます。
もともとは、母や弟のために始めた祈り。
けれど今、それは“制度”に組み込まれ、“名前”と“立場”を背負うものへと変わっていきました。
それでもセレスティアは、逃げず、立ち止まらず、静かに祈りを重ねていきます。
自分の想いが、誰かに届くと信じながら。
この章を通じて、セレスティアが“祈ることしかできない”少女から、“祈る者として立ち上がる”存在へと変わっていく姿を、少しずつ丁寧に描いてきました。
聖女として名を授かること。それは称号であると同時に、ひとつの決意でもあります。
“セレスティア・ルミオール”という新しい名とともに、彼女の物語は次の段階へ――。
次回からの展開も、どうか見守っていただけたら嬉しいです。
感想やブクマ、応援のお言葉、本当に励みになります。
静かに祈り続けるセレスティアの物語、ぜひこの先も見守ってくださいね。




