52 神の名のもとに迎えられて
扉が閉じられたとき、私はひとつの世界を置いてきたのだと、はじめて実感した。
木製の馬車が軋むたびに、その音は後ろへ遠ざかっていく。凍えた村の風も、弟の寝息も、母の手のぬくもりも。すべてが、もう戻らない場所に変わっていくようだった。
窓の外には、見知らぬ森と、白い霧。
私は、毛布にくるまったまま、何も言わずにそれを見つめていた。
――祈りは、終わらない。
そう、言葉にしたのは自分だったはずなのに、胸の奥には、ぽつりと穴が開いたような感覚が残っていた。
「セレスティア様」
馬車の奥から、やわらかな声が届いた。
隣に座っていたのは、教国からの使者とともに村へやってきた女性神官――リメルという名の女性だった。私よりはるかに年上で、穏やかな物腰の中に、冷静な観察者の目を持っている人だった。
「こちらをお預かりください。……あなたが聖都へ到着するその日、正式に“聖女候補”として迎えられるための衣です」
そう言って差し出された包みは、私の膝の上にそっと置かれた。
薄い布に丁寧にくるまれたもの。手を添えた瞬間、その中にあるものの柔らかさと、どこか張りつめた気配が伝わってきた。
「……ありがとうございます」
私は声を落としてそう言い、包みを抱きしめた。
まだ、その中を開くことはできなかった。
「着替えの際は、こちらの者が支度いたします。ご無理なさらず、お申しつけください」
そう言ったリメルは、淡く微笑んだが、そこに感情はあまり見えなかった。
それでも私は、その人のやさしさを疑うことはできなかった。
この人は、きっと、“職務”として私を迎えてくれている。
感情や期待ではなく、“そうあるべきもの”として。
それが、少しだけ寂しかった。
◇
旅は、三日かけて行われると告げられていた。
教国の都は遠い。道中には村も町も少なく、馬車も交代なしでは持たない距離だった。
一日目の夕刻、私たちは最初の宿にたどり着いた。
石造りの建物。教会に付属した宿舎のようで、外から見れば簡素だが、内部はとても清潔で、壁には教国の紋章が掲げられていた。祈りの言葉が刻まれた装飾板が廊下に並んでおり、その中央には、教国の象徴である“六女神”を模した燭台が灯されていた。
「こちらがセレスティア様のお部屋になります。ご不便な点があれば、お申しつけくださいませ」
案内役の神官がそう言って頭を下げた。
部屋に入ると、淡い白の寝具と、小さな机、祈り用の台座がひとつ置かれていた。窓は西を向いていて、ちょうど夕陽の色がほんのり差し込んでいた。
私はそっと扉を閉め、包みを机の上に置いた。
白い布に包まれたその衣装を、まだ開くことができずにいた。
でも、どこか、開かずにはいられない気持ちが胸の奥にあった。
私は、椅子に腰かけたまま、しばらく窓の外を見つめていた。
陽は、ゆっくりと沈んでいく。その色は金のようで、夕暮れの空とよく似ていた。
私は、机の上の包みに手を伸ばす。
布の端をつまみ、そっとめくると――
中から現れたのは、白い長衣だった。
やわらかな布地。胸元には金の糸で施された教国の紋章。そして、袖と裾には細やかな金の縁取り。
光を反射するように織られた生地は、陽光をそのまま織り込んだかのように、静かに輝いていた。
――これが、聖女の衣。
見た瞬間、そう思った。
触れるのがためらわれるほど、美しい。
でも、私は、そっと両手でその布を持ち上げた。
ひとりで、鏡もない部屋で、私は静かにその衣に袖を通した。
布は思ったよりも軽かった。けれど、着終えた瞬間、背筋が自然と伸びるのを感じた。
その重みは、布の重さではない。
――私が“聖女”として見られる、これからの重みだった。
私は、その姿を誰にも見せないまま、祈りの台座の前に立った。
手を胸に重ね、静かに目を閉じる。
「……神さま。今日も、誰かが笑っていますように」
それは、いつも通りの祈り。
けれどそのとき、私はほんの少しだけ違う言葉を心の中で加えていた。
――私が、笑えますように。
――自分を、忘れてしまわないように。
◇ ◇ ◇
宿を出てから、さらに二日。
馬車は朝早くから夕方まで進み続け、夜になると教会が管理する中継所に泊まった。
私はそのあいだ、窓の外を静かに見つめるか、本を読むふりをして時間をやりすごしていた。
けれど、どの村も町も、知らない人ばかりで、どんな文字も、今の私には胸に入ってこなかった。
見知らぬ村をいくつも過ぎた。
山道を抜け、霧に包まれた谷を越え、緩やかな丘をいくつも越えて、
石畳が徐々に整い始めたあたりで、私は思った――ああ、本当に、もう戻れないんだ、と。
旅の三日目の朝。
空は高く澄み渡り、遠くに白い壁がうっすらと見えてきた。
「セレスティア様。あれが、神聖アルメシア教国の聖都――ルミナリアでございます」
リメルがそう告げたとき、馬車の中に静かな緊張が走った。
私は自然と、背筋を伸ばしていた。
馬車の揺れはそのままに、呼吸だけが少し早くなった気がした。
この三日間、旅の疲れよりも、未来のことばかり考えていた。
家族のこと。村のこと。そして、これから“祈る”ことになる自分の姿を。
まだ、うまく想像はできなかった。
◇
聖都は、高く、そして白かった。
朝の光を受けて輝くその壁は、まるで空と地平の境界を引く線のようだった。
城壁のように聳える外郭。門の前には衛兵が整然と立っていたが、教会の使者と教国の印章を掲げた馬車が来たことを知ると、すぐに通行を許された。
私は、窓の外を息を潜めて見つめていた。
整然と並ぶ石造りの家々。薄い青や白の屋根。縦に伸びる鐘塔の影。
路地の隙間から、祈りを捧げる人の姿が見える。
その一つ一つが、村で見たものとは全く違っていた。
空気が澄んでいるように感じた。けれど、それは“静けさ”というよりも、“整いすぎた冷たさ”のようでもあった。
目の前の世界が、まるで誰かの理想通りに彫刻された空間のようで、私はどこか、自分が浮いているような気持ちになった。
この都のどこかで、私は祈ることになるのだ。
“聖女候補”として。
その言葉だけが、心の奥に重く沈んでいた。
◇
しばらくして、馬車はゆっくりと停まった。
窓の外に立つ荘厳な建物――それが、教国の中央教会だった。
聖都の中心、リュミエルの名のもとに築かれたという、白亜の大聖堂。
二本の高塔が空を切り裂くように天へ伸び、そのあいだに飾られた円形のステンドグラスには、六柱の女神が描かれていた。
光の女神リュミエルは天へ手を差し伸べ、
闇のノクティアは静かに伏し目がちに微笑み、
火のファラーナ、水のセレヴィーナ、風のアリエルシア、土のテルミナが、それぞれの象徴を手に、円環の中に調和を築いていた。
私はしばらく、言葉を忘れて見上げていた。
その美しさに。
その荘厳さに。
そして――その中心で“私が祈る”ことになるという現実に。
「参りましょう、セレスティア様」
リメルの声に促されて、私はゆっくりと馬車から降りた。
石畳に足をつけた瞬間、今朝着替えた衣が、ふと重くなったような気がした。
村で着ていたものとは違う、柔らかな布。
白と金の聖女衣装。
誰かの目に映るために着せられたこの服が、私の背中に確かな重みを乗せていた。
◇
教会の中は、外から見た以上に静かだった。
香のかすかな匂いと、壁に反響する足音の余韻。
白と金を基調とした空間の中心には、六柱の女神像が並び、それぞれの足元には祈りの台座が設けられていた。
私は、そっと足を止める。
「……これが、六女神……」
リメルが、隣で静かにうなずいた。
「はい。アルメシア教国が信仰する六柱の女神――六つの属性の調和を守る象徴です。
この場で、聖女候補の祈りが“正式に”捧げられることになります」
“正式に”。
その言葉に、またひとつ、心が波打った。
村で祈っていたころ、私にとって祈りは“だれかを想う”ことだった。
けれどここでは、それが――“儀式”なのだ。
評価されるもの。証明されるもの。
誰かが見て、誰かが記録する祈り。
私は、白い袖の先をそっと握りしめた。
六女神の像は、どれも石でできているはずなのに、どこか柔らかさとあたたかさを感じさせる顔をしていた。
その前に並べられた祈りの台座は、中央にひとつ、そして六柱それぞれの前にもひとつずつ――合計七つ。
中央の台座は、教国において“聖女”が祈るために用意された特別なものだと、リメルが静かに告げた。
「どうか、緊張なさらず。普段どおりで構いません」
普段どおり。
その言葉の意味を、私はもう少しで聞き返してしまいそうだった。
私の“普段”は、納屋の隅や、野原の一角で、小さな手を組むだけの祈りだった。
それを“ここ”で、“この場所”で、“誰かに見られながら”祈ることが――同じだと言えるのだろうか。
けれど、私はうなずいた。
怖くない、と言えば嘘になる。
でも、それでも、私は逃げたくなかった。
白く磨かれた床に、膝をつく。
両手を胸の前で組み、目を閉じる。
その一連の動作が、まるで台本のように自然にできる自分に驚いた。
私は、いつから“祈る動作”を体で覚えていたのだろう。
◇
「……神さま」
声は、ごく小さくしか出なかった。
でも、それでも空間に吸い込まれていく。
「今日も、誰かが笑えますように」
それは、村を出る日にも唱えた言葉だった。
母のために。カイのために。そして、知らない誰かのために。
「誰かが、寒さに凍えないように。
病気の人が、朝を迎えられるように。
祈りが、誰かの悲しみをすこしでも軽くできますように――」
声に出す言葉は、やがて震えはじめる。
怖いのでも、苦しいのでもない。ただ、気づけば涙がこぼれていた。
だれの顔も見ていない。
でも、だれかを、ずっと思っていた。
その気持ちが、胸の奥からあふれて、言葉に混ざってしまったのだ。
最後のひと呼吸を、そっと空に捧げて、私はゆっくりと目を開けた。
◇
――教会の広間は、静かだった。
誰も、声を出していなかった。
神官たちも、リメルも、建物の奥から見守っていた他の聖女候補らしき少女たちも。
ただ、すべての視線が、私に注がれていた。
けれど、不思議と、私は怖くなかった。
むしろ、どこか穏やかな気持ちさえしていた。
……私は、ちゃんと、祈れた。
そう思えたから。
だが、その静けさを破ったのは、白銀の装束を身に纏った一人の神官だった。
額に光の紋章を持ち、ゆっくりと前に進み出ると、私の祈りのあとに、小さく言った。
「――“純祈”。そのように記録します」
純祈? 私はその言葉を知らなかった。
神官は続けた。
「いかなる術式の加護もなく、神経誘導も行われていない。祈りの構文に偽りなし。
この祈りは、完全に自発的な、神への純祈と認められます」
周囲に小さなどよめきが広がる。
私は、何が起きているのか分からなかった。
リメルが、静かに私のそばへと歩み寄り、ひざまずいて言った。
「……おめでとうございます。セレスティア様。
この瞬間より、あなたは正式に――教国が認める“聖女候補”となりました」
◇
何も、変わっていない気がした。
それでも、世界が違って見えた。
神殿の柱が、天井が、女神像が、今までよりも遠く、そして重く感じられた。
私は、誰かの期待に応えたのだろうか。
それとも、自分の祈りが、ほんの少しでも届いたから、認められたのだろうか。
その答えは、まだわからなかった。
けれど、私は静かに、目を伏せたまま祈りの姿勢を保った。
――神さま。
この祈りが、私だけのものになりませんように。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。
村を離れ、教国という大きな世界へと歩み出したセレスティア。
たった一つの“祈り”しか持たなかった少女が、それでも誰かの笑顔のために手を伸ばそうとする姿を、丁寧に描きたいと心がけました。
まだ始まったばかりの彼女の旅路を、これからも静かに見守っていただけたら嬉しいです。
感想やブクマ、応援のお言葉、本当に励みになります。
あなたの心にも、優しい祈りが灯りますように。
―― 星空りん




