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『異世界転生でアイドル目指します。』  作者: 星空りん
第三章 声にならない願い
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52 神の名のもとに迎えられて

 扉が閉じられたとき、私はひとつの世界を置いてきたのだと、はじめて実感した。

 木製の馬車が軋むたびに、その音は後ろへ遠ざかっていく。凍えた村の風も、弟の寝息も、母の手のぬくもりも。すべてが、もう戻らない場所に変わっていくようだった。


 窓の外には、見知らぬ森と、白い霧。

 私は、毛布にくるまったまま、何も言わずにそれを見つめていた。


 ――祈りは、終わらない。


 そう、言葉にしたのは自分だったはずなのに、胸の奥には、ぽつりと穴が開いたような感覚が残っていた。


「セレスティア様」


 馬車の奥から、やわらかな声が届いた。

 隣に座っていたのは、教国からの使者とともに村へやってきた女性神官――リメルという名の女性だった。私よりはるかに年上で、穏やかな物腰の中に、冷静な観察者の目を持っている人だった。


「こちらをお預かりください。……あなたが聖都へ到着するその日、正式に“聖女候補”として迎えられるための衣です」


 そう言って差し出された包みは、私の膝の上にそっと置かれた。

薄い布に丁寧にくるまれたもの。手を添えた瞬間、その中にあるものの柔らかさと、どこか張りつめた気配が伝わってきた。


「……ありがとうございます」


 私は声を落としてそう言い、包みを抱きしめた。

 まだ、その中を開くことはできなかった。


「着替えの際は、こちらの者が支度いたします。ご無理なさらず、お申しつけください」


 そう言ったリメルは、淡く微笑んだが、そこに感情はあまり見えなかった。

 それでも私は、その人のやさしさを疑うことはできなかった。


 この人は、きっと、“職務”として私を迎えてくれている。

 感情や期待ではなく、“そうあるべきもの”として。


 それが、少しだけ寂しかった。



 旅は、三日かけて行われると告げられていた。

 教国の都は遠い。道中には村も町も少なく、馬車も交代なしでは持たない距離だった。


 一日目の夕刻、私たちは最初の宿にたどり着いた。


 石造りの建物。教会に付属した宿舎のようで、外から見れば簡素だが、内部はとても清潔で、壁には教国の紋章が掲げられていた。祈りの言葉が刻まれた装飾板が廊下に並んでおり、その中央には、教国の象徴である“六女神”を模した燭台が灯されていた。


「こちらがセレスティア様のお部屋になります。ご不便な点があれば、お申しつけくださいませ」


 案内役の神官がそう言って頭を下げた。


 部屋に入ると、淡い白の寝具と、小さな机、祈り用の台座がひとつ置かれていた。窓は西を向いていて、ちょうど夕陽の色がほんのり差し込んでいた。


 私はそっと扉を閉め、包みを机の上に置いた。


 白い布に包まれたその衣装を、まだ開くことができずにいた。

 でも、どこか、開かずにはいられない気持ちが胸の奥にあった。


 私は、椅子に腰かけたまま、しばらく窓の外を見つめていた。

 陽は、ゆっくりと沈んでいく。その色は金のようで、夕暮れの空とよく似ていた。


 私は、机の上の包みに手を伸ばす。

 布の端をつまみ、そっとめくると――


 中から現れたのは、白い長衣だった。


 やわらかな布地。胸元には金の糸で施された教国の紋章。そして、袖と裾には細やかな金の縁取り。

 光を反射するように織られた生地は、陽光をそのまま織り込んだかのように、静かに輝いていた。


 ――これが、聖女の衣。


 見た瞬間、そう思った。


 触れるのがためらわれるほど、美しい。

 でも、私は、そっと両手でその布を持ち上げた。


 ひとりで、鏡もない部屋で、私は静かにその衣に袖を通した。


 布は思ったよりも軽かった。けれど、着終えた瞬間、背筋が自然と伸びるのを感じた。

 その重みは、布の重さではない。

 ――私が“聖女”として見られる、これからの重みだった。


 私は、その姿を誰にも見せないまま、祈りの台座の前に立った。


 手を胸に重ね、静かに目を閉じる。


「……神さま。今日も、誰かが笑っていますように」


 それは、いつも通りの祈り。

 けれどそのとき、私はほんの少しだけ違う言葉を心の中で加えていた。


 ――私が、笑えますように。

 ――自分を、忘れてしまわないように。


◇ ◇ ◇


 宿を出てから、さらに二日。

 馬車は朝早くから夕方まで進み続け、夜になると教会が管理する中継所に泊まった。

 私はそのあいだ、窓の外を静かに見つめるか、本を読むふりをして時間をやりすごしていた。

 けれど、どの村も町も、知らない人ばかりで、どんな文字も、今の私には胸に入ってこなかった。


 見知らぬ村をいくつも過ぎた。

 山道を抜け、霧に包まれた谷を越え、緩やかな丘をいくつも越えて、

 石畳が徐々に整い始めたあたりで、私は思った――ああ、本当に、もう戻れないんだ、と。


 旅の三日目の朝。

 空は高く澄み渡り、遠くに白い壁がうっすらと見えてきた。


「セレスティア様。あれが、神聖アルメシア教国の聖都――ルミナリアでございます」


 リメルがそう告げたとき、馬車の中に静かな緊張が走った。

 私は自然と、背筋を伸ばしていた。


 馬車の揺れはそのままに、呼吸だけが少し早くなった気がした。

 この三日間、旅の疲れよりも、未来のことばかり考えていた。

 家族のこと。村のこと。そして、これから“祈る”ことになる自分の姿を。


 まだ、うまく想像はできなかった。



 聖都は、高く、そして白かった。


 朝の光を受けて輝くその壁は、まるで空と地平の境界を引く線のようだった。

 城壁のように聳える外郭。門の前には衛兵が整然と立っていたが、教会の使者と教国の印章を掲げた馬車が来たことを知ると、すぐに通行を許された。


 私は、窓の外を息を潜めて見つめていた。


 整然と並ぶ石造りの家々。薄い青や白の屋根。縦に伸びる鐘塔の影。

 路地の隙間から、祈りを捧げる人の姿が見える。

 その一つ一つが、村で見たものとは全く違っていた。


 空気が澄んでいるように感じた。けれど、それは“静けさ”というよりも、“整いすぎた冷たさ”のようでもあった。

 目の前の世界が、まるで誰かの理想通りに彫刻された空間のようで、私はどこか、自分が浮いているような気持ちになった。


 この都のどこかで、私は祈ることになるのだ。

 “聖女候補”として。


 その言葉だけが、心の奥に重く沈んでいた。



 しばらくして、馬車はゆっくりと停まった。


 窓の外に立つ荘厳な建物――それが、教国の中央教会だった。

 聖都の中心、リュミエルの名のもとに築かれたという、白亜の大聖堂。


 二本の高塔が空を切り裂くように天へ伸び、そのあいだに飾られた円形のステンドグラスには、六柱の女神が描かれていた。


 光の女神リュミエルは天へ手を差し伸べ、

 闇のノクティアは静かに伏し目がちに微笑み、

 火のファラーナ、水のセレヴィーナ、風のアリエルシア、土のテルミナが、それぞれの象徴を手に、円環の中に調和を築いていた。


 私はしばらく、言葉を忘れて見上げていた。

 その美しさに。

 その荘厳さに。

 そして――その中心で“私が祈る”ことになるという現実に。


「参りましょう、セレスティア様」


 リメルの声に促されて、私はゆっくりと馬車から降りた。

 石畳に足をつけた瞬間、今朝着替えた衣が、ふと重くなったような気がした。


 村で着ていたものとは違う、柔らかな布。

 白と金の聖女衣装。

 誰かの目に映るために着せられたこの服が、私の背中に確かな重みを乗せていた。



 教会の中は、外から見た以上に静かだった。

 香のかすかな匂いと、壁に反響する足音の余韻。

 白と金を基調とした空間の中心には、六柱の女神像が並び、それぞれの足元には祈りの台座が設けられていた。


 私は、そっと足を止める。


「……これが、六女神……」


 リメルが、隣で静かにうなずいた。


「はい。アルメシア教国が信仰する六柱の女神――六つの属性の調和を守る象徴です。

 この場で、聖女候補の祈りが“正式に”捧げられることになります」


 “正式に”。


 その言葉に、またひとつ、心が波打った。


 村で祈っていたころ、私にとって祈りは“だれかを想う”ことだった。

 けれどここでは、それが――“儀式”なのだ。


 評価されるもの。証明されるもの。

 誰かが見て、誰かが記録する祈り。


 私は、白い袖の先をそっと握りしめた。


 六女神の像は、どれも石でできているはずなのに、どこか柔らかさとあたたかさを感じさせる顔をしていた。

 その前に並べられた祈りの台座は、中央にひとつ、そして六柱それぞれの前にもひとつずつ――合計七つ。

 中央の台座は、教国において“聖女”が祈るために用意された特別なものだと、リメルが静かに告げた。


「どうか、緊張なさらず。普段どおりで構いません」


 普段どおり。


 その言葉の意味を、私はもう少しで聞き返してしまいそうだった。

 私の“普段”は、納屋の隅や、野原の一角で、小さな手を組むだけの祈りだった。

 それを“ここ”で、“この場所”で、“誰かに見られながら”祈ることが――同じだと言えるのだろうか。


 けれど、私はうなずいた。

 怖くない、と言えば嘘になる。

 でも、それでも、私は逃げたくなかった。


 白く磨かれた床に、膝をつく。

 両手を胸の前で組み、目を閉じる。

 その一連の動作が、まるで台本のように自然にできる自分に驚いた。


 私は、いつから“祈る動作”を体で覚えていたのだろう。



「……神さま」


 声は、ごく小さくしか出なかった。

 でも、それでも空間に吸い込まれていく。


「今日も、誰かが笑えますように」


 それは、村を出る日にも唱えた言葉だった。

 母のために。カイのために。そして、知らない誰かのために。


「誰かが、寒さに凍えないように。

  病気の人が、朝を迎えられるように。

   祈りが、誰かの悲しみをすこしでも軽くできますように――」


 声に出す言葉は、やがて震えはじめる。

 怖いのでも、苦しいのでもない。ただ、気づけば涙がこぼれていた。


 だれの顔も見ていない。

 でも、だれかを、ずっと思っていた。

 その気持ちが、胸の奥からあふれて、言葉に混ざってしまったのだ。


 最後のひと呼吸を、そっと空に捧げて、私はゆっくりと目を開けた。



 ――教会の広間は、静かだった。


 誰も、声を出していなかった。

 神官たちも、リメルも、建物の奥から見守っていた他の聖女候補らしき少女たちも。

 ただ、すべての視線が、私に注がれていた。


 けれど、不思議と、私は怖くなかった。

 むしろ、どこか穏やかな気持ちさえしていた。


 ……私は、ちゃんと、祈れた。


 そう思えたから。


 だが、その静けさを破ったのは、白銀の装束を身に纏った一人の神官だった。

 額に光の紋章を持ち、ゆっくりと前に進み出ると、私の祈りのあとに、小さく言った。


「――“純祈”。そのように記録します」


 純祈? 私はその言葉を知らなかった。


 神官は続けた。


「いかなる術式の加護もなく、神経誘導も行われていない。祈りの構文に偽りなし。

 この祈りは、完全に自発的な、神への純祈と認められます」


 周囲に小さなどよめきが広がる。

 私は、何が起きているのか分からなかった。


 リメルが、静かに私のそばへと歩み寄り、ひざまずいて言った。


「……おめでとうございます。セレスティア様。

 この瞬間より、あなたは正式に――教国が認める“聖女候補”となりました」



 何も、変わっていない気がした。


 それでも、世界が違って見えた。

 神殿の柱が、天井が、女神像が、今までよりも遠く、そして重く感じられた。


 私は、誰かの期待に応えたのだろうか。

 それとも、自分の祈りが、ほんの少しでも届いたから、認められたのだろうか。


 その答えは、まだわからなかった。

 けれど、私は静かに、目を伏せたまま祈りの姿勢を保った。


 ――神さま。

 この祈りが、私だけのものになりませんように。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。


村を離れ、教国という大きな世界へと歩み出したセレスティア。

たった一つの“祈り”しか持たなかった少女が、それでも誰かの笑顔のために手を伸ばそうとする姿を、丁寧に描きたいと心がけました。


まだ始まったばかりの彼女の旅路を、これからも静かに見守っていただけたら嬉しいです。


感想やブクマ、応援のお言葉、本当に励みになります。

あなたの心にも、優しい祈りが灯りますように。


―― 星空りん

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