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『異世界転生でアイドル目指します。』  作者: 星空りん
第三章 声にならない願い
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51 春の祈り、奇跡の芽吹き

 季節は、気づかぬうちに、冬の背を追い越していた。


 その年の春は、いつもより少し早く訪れた。

 寒風の切っ先が和らぎ、土の匂いが風に混じる。木々の芽がほころび始め、子どもたちは厚手の服を脱ぎ捨て、陽だまりの中で走り回っていた。


 私の家の前にも、小さな花がひとつ、咲いた。


 見覚えのない花だった。

 母に聞いても、司祭様に尋ねても、「こんな時季に、こんな花は知らない」と首をかしげるばかりだった。


 けれど私は、その小さな花を見た瞬間に思った。


 (……この子は、私の祈りに応えてくれたんだ)


 それはきっと、誰にでも見えるような奇跡ではなかった。

 でも、私にとっては十分すぎるほどだった。


 私はその花の前で、静かに手を組んだ。


「ありがとう。寒かったよね。よくがんばって出てきてくれたね」


 風が吹いた。花びらがかすかに揺れた。それだけのことが、とても嬉しかった。



 その日、母が久しぶりに外に出た。


 咳はまだ続いていたけれど、顔色は明らかによくなっていた。

 弟のカイが喜んで、母の手を引いて庭先を歩き回っていた。


「ねえちゃ、ねえちゃ、見てよ!」


 カイが指さしたのは、近所の石壁。去年の夏に壊れかけたままになっていたところに、誰かがそっと木の枝を組んで補強していた。


「村の人、きっと直してくれたんだよ」


「……ほんとにね。誰だろう、ありがとうって言いたいね」


「じゃあ、ねえちゃが祈っておいて!」


「……うん、わかった」


 私は、笑ってうなずいた。

 “ありがとう”を祈ることも、きっと意味のあることだと、あの花が教えてくれたから。



 次の日の朝、私は教会の裏でひとり祈っていた。


 すると、見知らぬ人影が立っていた。

 村の人ではなかった。灰色の外套に、旅装束のような長靴。帽子を深くかぶって顔は見えなかったけれど、私の祈る姿をじっと見つめていた。


 私は、そっと立ち上がった。


「……ごめんなさい。ここ、通れなかったですか?」


 その人は、ふと首を横に振った。


「いや、ただ……風が気持ちよかったから、立ち止まっていただけだ」


 男の人だった。やわらかい声。けれどどこか鋭さを秘めた響き。


「君が、“セレス”か?」


「……はい。そうです」


「なるほど……確かに、あの人が言っていた通りだ」


 私は、その言葉の意味がよくわからなかった。


 彼は帽子を取り、軽く頭を下げた。


「私は、ただの旅の者だよ。だが……この村には、不思議な風が吹いているな。とても静かで、あたたかい風だ」


 それだけを言って、彼は背を向けた。


 まるで“確認しに来た”だけのようだった。



 午後、村の集会場に、何人かの大人が集まっていた。


 私は見つからないように、窓の外からそっと様子をうかがった。


「あの子が祈ってから、家畜の死にが減ったってのは、本当か?」


「おれのとこも、去年まで冬越せなかった古羊が、生きてる」


「病気の子が、ふっと熱を下げたって、さっきの婆さんが言ってたよ」


「で……それって、“あの子”のお陰、なのか?」


 沈黙が落ちた。


 そして、誰かがぽつりと呟いた。


「……奇跡かもしれん」


 その瞬間、私の胸が、ぎゅっと縮こまった。


 “奇跡”という言葉は、あまりに重かった。


 誰かの命を救うかもしれない。

 でも、同じくらい、誰かの“運命”を縛るかもしれない。


 私は、それを望んだことなんて、一度もなかった。

 ただ、母に笑ってほしかった。弟に、寒くない日をあげたかった。


 けれど、村は少しずつ変わっていく。


 私を避けていた子どもたちが、「ねえ、あれ本当に君の祈りなの?」と聞いてきた。


 大人たちが、「よく、祈ってくれてるね」と声をかけてくるようになった。


 そして――司祭様が、再び私を呼んだ。


 今度は、ひとりではなかった。

 司祭様の隣には、灰色の法衣を纏った旅人がいた。


 その人は、光を纏っているように見えた。


 陽が傾きかけた午後、村の広場に現れたその女性は、まるで風に溶けるような身のこなしで馬車を降りた。灰色の長衣に金の刺繍がほどこされ、顔の半分は薄い白布で覆われていた。


 教国からの使者――そう言って司祭様が頭を垂れたとき、私は息を呑んでいた。


 女性の後ろには、二人の随行者。小柄な神官らしき男と、馬の手綱を引いていた騎士風の若者。どちらも、村には似つかわしくないほど整った装いをしていた。


 けれど、不思議なことに――私は、怖くなかった。


 それどころか、なぜか胸の奥が、ほっとしたような、安堵のような、けれど名付けようのない感情で満ちていった。


 (……この人たちは、わたしを“見つける”ために来たんだ)


 理由もなく、そう思った。



 村の集会場が臨時の面談所になった。


 私は、母に背中を押されて、そこへ足を運んだ。

 弟は泣きそうな顔で私の袖を引いたが、私は微笑んで手を振った。


 建物の中は、空気が張り詰めていた。


 その中心に、あの灰衣の女性が座っていた。顔の半分はまだ覆われていたが、瞳はまっすぐにこちらを見ていた。


「……セレスティア。そう呼ばれているのですね?」


 私はこくんと頷いた。


「失礼。私たちは、神聖アルメシア教国より遣わされた者です。……あなたに関心があって、ここへ来ました」


 女性の声は柔らかかった。でも、奥に冷たい芯があった。

 その言葉が、どれほどの重みをもっているか、私にはまだよく分からなかった。


「……祈りを、しているそうですね?」


「……はい。毎日、しています」


「誰のために?」


 私は少しだけ考えて、それから答えた。


「お母さんと、弟と、それから……この村の、みんなのためです」


 女性の目が細くなった。それが笑みだったのか、ただの観察だったのか、私にはわからなかった。


「では……ここで、祈ってみせてくれますか?」


 私は、一瞬だけ戸惑った。けれど、うなずいた。


 部屋の片隅、煤けた木床の上に膝をつく。

 何度も座った、あの納屋の感触とは違う。でも、目を閉じれば、同じ空が広がっていた。


「……神さま、今日も、村に光をください」


「母が笑えるように。弟が、元気に走れるように。

  お腹が空いた子に、少しでも食べものが届くように。

  病気の人が、朝を迎えられるように――

  ……どうか、誰かの“悲しい夜”が、短くなりますように」


 声は、小さく震えていた。けれど、その言葉は、まっすぐだった。


 祈り終えたあと、私は目を開けた。


 部屋は、静かだった。


 何も起きなかった。光も、音も、奇跡も――なにも。


 だけど、女性の瞳は、どこか満足げに揺れていた。


「……なるほど」


 彼女は立ち上がると、司祭様の方を向いて言った。


「この子を、教国へお迎えします。正式に、聖女候補として登録いたしましょう」


「え……」


 私は思わず、小さな声を漏らした。


 選ばれた? 私が?


 私の中で、それがどういうことかが、まだ形にならなかった。



 帰り道、私は母の顔を見られなかった。

 弟は「ねえちゃはすごい!」と飛び跳ねていたけれど、私の心はまだ追いついていなかった。


 それでも――

 空は、少しだけ春の色に染まっていた。


 その夜、村の空は雲に覆われていた。


 星も月も見えなかったけれど、不思議と暗くはなかった。

 家の外には、焚き火の明かりが揺れていた。近所の人たちが、私のために少しだけ火をくべてくれていたらしい。


「寒いだろうから、せめて少しでも温まっていけ」と、誰かが言ってくれた。


 私は、その火に近づくことはなかった。けれど、窓越しに見えるその炎は、胸の奥をじんわりと温めてくれていた。



 母は、夜の間ずっと起きていた。


 布団の中から上半身を起こし、細い体にショールを巻いて、かまどの前に座っていた。

 私が隣に座ると、母は優しく笑った。


「眠れない?」


「……うん。お母さんこそ、寝ないと」


「もう眠れるわけないでしょ。明日、大事な日なのに」


 母の笑顔には、隠しきれない寂しさがにじんでいた。


「行くのが……こわい?」


「……ちょっとだけ。こわい。けど……」


「けど?」


「でも、行かなきゃって思う。私……何もできないけど。祈ることしかできないけど、それでも、もしほんとに誰かの力になれるなら……」


 母は、その言葉を聞きながら、私の頭をそっと撫でた。

 その手はやっぱり細くて、冷たかった。でも、いちばん安心できる手だった。


「セレス……あなたは、ほんとに強い子ね」


「そうかな……?」


「うん。私はそう思う。あなたは、小さな奇跡を起こせる子よ。……たぶん、それってね、“神さまに届いてる”ってことじゃなくて、“あなたの心が誰かに届いてる”ってことなんだと思う」


 その言葉に、私は少しだけ黙ってしまった。

 でも、心のどこかで、ふわっと光が灯ったような気がした。


 母は続ける。


「祈りって、特別なものじゃなくていいのよ。ただ、“誰かを思うこと”が祈りなの。あなたは、それができる子。だから、選ばれたんだと思うわ」


 私は――その言葉が、すごく嬉しかった。


 そして、こみあげる涙をこらえるように、ぎゅっと母の手を握った。



 その晩、私はひとりで外に出た。


 風は冷たかったけれど、痛いほどではなかった。

 家の裏手、納屋の脇。いつも祈っていた“私だけの場所”に立ち、そっと目を閉じる。


「神さま、明日、私は村を離れます」


 声は自然と震えた。泣いてはいなかったけど、胸の奥がぎゅうっと締めつけられていた。


「この村で、たくさんのことがありました。寒くて、つらくて……でも、家族がいて、笑ってくれる人がいて、花が咲いて、粥の匂いがして……私は、幸せでした」


 深く、息を吸う。


「だから、どうか……私が、どこに行っても、この村のことを忘れないように。誰かのために祈る気持ちを、忘れないように……どうか、見守っていてください」


 祈りの言葉が終わったとき、風が吹いた。


 ふわり、とてもやさしく。春の匂いが、かすかに混じっていた。


 それだけで十分だった。奇跡なんて起こらなくていい。

 私は、ちゃんと祈れた。それが、今の私にできるすべてだった。



 家に戻ると、カイが布団の上で丸くなっていた。


 私がそっと隣に寝転ぶと、彼は寝ぼけ眼で手を伸ばしてきた。


「……ねえちゃ、いっちゃうの?」


「うん、ちょっとだけ遠くに。教会ってところに行くんだよ」


「どのくらい?」


「……山、三つ分くらいかな。歩いたら、何日もかかるって」


「そんなに?」


「うん。でもね、帰ってくるよ。きっと。だから……待っててね」


「うん。……おかゆ、つくってくれる?」


「もちろん」


 私は笑って、カイの髪をそっと撫でた。


「じゃあ、約束ね。帰ってきたら、いっしょに食べよう」


「うん……」


 弟の小さな寝息が、やがて静かな夜に溶けていった。


 私は、目を閉じた。

 朝が、来る。旅立ちの朝が――


◇ ◇ ◇


 朝は、静かに訪れた。


 鳥の声も、風の音も、まだ眠っているようだった。

 でも、私は目が覚めていた。夜のうちに何度も目を開けて、まだ暗い天井を見上げていた。

 夢を見たような気もしたし、何も見なかったような気もした。


 布団の中にいる母とカイは、まだ寝息を立てていた。

 けれど私は、そっと起き上がった。薪を足して、かまどに火をくべる。音を立てないように、粥を炊きはじめた。


 かすかな湯気が立ち上り、部屋の空気がほんの少しやわらぐ。


 そうしていると、母が起き上がった。


「……もう、起きてたのね」


「うん。最後に、ちゃんとごはん食べたかったから」


 母は笑って、うなずいた。

 カイも少し遅れて目を覚ました。けれど、今日がどんな日なのか、まだよくわかっていない顔をしていた。



 粥を三つの器に分けて、私たちは静かに食卓を囲んだ。


 ナッツと塩だけの、いつもと変わらない味。

 だけど、私はその味を、きっと一生忘れないだろうと思った。


 食べ終えたあと、母が荷物を渡してくれた。


 小さな布袋。中には、干した根菜と、火打ち石と、家族の刺繍が縫い込まれた白布。


「これだけで、いいの?」


「これだけあれば、十分よ。……あとは、あなたの中に全部あるでしょう?」


 私は、ゆっくりとうなずいた。



 外に出ると、すでに教国の馬車が村の入り口に待っていた。


 昨日の灰衣の女性が立っていた。その隣に、司祭様がいた。

 今日はいつもの法衣ではなく、どこか格式のある装束に身を包んでいた。


 村の人々が、家の前や通りの影から、そっとこちらを見ていた。


 誰も声はかけなかった。けれど、それは冷たい沈黙ではなかった。


 誰かが、目元をぬぐった。

 誰かが、深く頭を下げた。

 誰かが、小さな花を門の柱にそっと結んだ。


 私は、それだけで、胸がいっぱいになった。


「……行ってくるね」


 小さく、そう言って、母と弟の前に立った。


 カイは、今にも泣き出しそうな顔で唇を噛んでいた。


「やだよ……ねえちゃ、ずっといっしょにいたい」


「わかってる。私も、いたいよ。……でも、がんばってくるから」


「ほんとに、帰ってくる?」


「絶対、帰ってくる。だから――元気で待ってて。ちゃんと、笑ってて」


 母は、何も言わずに私を抱きしめた。

 冷たかった身体の奥から、かすかに伝わる体温。それだけで、涙が出そうになった。


「……誇りに思ってるよ、セレス」


「ありがとう。お母さん、私……ちゃんとがんばるね」



 馬車の扉が開かれた。


 私は、何度も振り返りながら、その足を一歩、また一歩と進めた。


 灰衣の女性が、静かに頭を下げる。


「ようこそ、聖女候補セレスティア。あなたの祈りは、神に届いています」


 私はその言葉に返事をせず、ただ一度だけ空を見上げた。


 雲の切れ間から、淡い光が差し込んでいた。


 ああ――この光を、あの花も、きっと見ている。


 扉が閉まる音がして、馬車が動き出した。


 村が、遠ざかる。

 家が、小さくなる。

 あの祈りの日々が、過去になっていく。


 でも、私は知っていた。


 祈りは、終わらない。

 誰かを想う気持ちは、どこへ行っても、きっと私の中にある。


 旅立ちの馬車の中、私はそっと目を閉じて、祈った。


「――神さま、今日も、みんなが笑えますように」

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


寒さと孤独の中で、それでも祈ることをやめなかったセレスティア。

その“名もなき祈り”が、誰かの心に触れ、静かに運命を変えていきました。


奇跡とは、大きな光や神の声ではなく――

誰かを想う、そのまっすぐな気持ちの中に宿るものなのかもしれません。


大切なものを胸に、彼女は旅立ちました。

まだ何も知らず、何も持たない彼女ですが、

それでも“祈れる心”だけは、きっとどこまでも届いていくと信じています。


この春の光のようにやさしい物語が、

読んでくださったあなたの心にも、そっと灯りますように。


次回からは、彼女が“聖女候補”として新たな世界へ踏み出していく物語が始まります。

どうか引き続き、見守っていただけたら嬉しいです。


もし、少しでも心に残る場面がありましたら……

感想やブクマ、いいねなど頂けたら、とても励みになります。


――星空 りん

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