51 春の祈り、奇跡の芽吹き
季節は、気づかぬうちに、冬の背を追い越していた。
その年の春は、いつもより少し早く訪れた。
寒風の切っ先が和らぎ、土の匂いが風に混じる。木々の芽がほころび始め、子どもたちは厚手の服を脱ぎ捨て、陽だまりの中で走り回っていた。
私の家の前にも、小さな花がひとつ、咲いた。
見覚えのない花だった。
母に聞いても、司祭様に尋ねても、「こんな時季に、こんな花は知らない」と首をかしげるばかりだった。
けれど私は、その小さな花を見た瞬間に思った。
(……この子は、私の祈りに応えてくれたんだ)
それはきっと、誰にでも見えるような奇跡ではなかった。
でも、私にとっては十分すぎるほどだった。
私はその花の前で、静かに手を組んだ。
「ありがとう。寒かったよね。よくがんばって出てきてくれたね」
風が吹いた。花びらがかすかに揺れた。それだけのことが、とても嬉しかった。
◇
その日、母が久しぶりに外に出た。
咳はまだ続いていたけれど、顔色は明らかによくなっていた。
弟のカイが喜んで、母の手を引いて庭先を歩き回っていた。
「ねえちゃ、ねえちゃ、見てよ!」
カイが指さしたのは、近所の石壁。去年の夏に壊れかけたままになっていたところに、誰かがそっと木の枝を組んで補強していた。
「村の人、きっと直してくれたんだよ」
「……ほんとにね。誰だろう、ありがとうって言いたいね」
「じゃあ、ねえちゃが祈っておいて!」
「……うん、わかった」
私は、笑ってうなずいた。
“ありがとう”を祈ることも、きっと意味のあることだと、あの花が教えてくれたから。
◇
次の日の朝、私は教会の裏でひとり祈っていた。
すると、見知らぬ人影が立っていた。
村の人ではなかった。灰色の外套に、旅装束のような長靴。帽子を深くかぶって顔は見えなかったけれど、私の祈る姿をじっと見つめていた。
私は、そっと立ち上がった。
「……ごめんなさい。ここ、通れなかったですか?」
その人は、ふと首を横に振った。
「いや、ただ……風が気持ちよかったから、立ち止まっていただけだ」
男の人だった。やわらかい声。けれどどこか鋭さを秘めた響き。
「君が、“セレス”か?」
「……はい。そうです」
「なるほど……確かに、あの人が言っていた通りだ」
私は、その言葉の意味がよくわからなかった。
彼は帽子を取り、軽く頭を下げた。
「私は、ただの旅の者だよ。だが……この村には、不思議な風が吹いているな。とても静かで、あたたかい風だ」
それだけを言って、彼は背を向けた。
まるで“確認しに来た”だけのようだった。
◇
午後、村の集会場に、何人かの大人が集まっていた。
私は見つからないように、窓の外からそっと様子をうかがった。
「あの子が祈ってから、家畜の死にが減ったってのは、本当か?」
「おれのとこも、去年まで冬越せなかった古羊が、生きてる」
「病気の子が、ふっと熱を下げたって、さっきの婆さんが言ってたよ」
「で……それって、“あの子”のお陰、なのか?」
沈黙が落ちた。
そして、誰かがぽつりと呟いた。
「……奇跡かもしれん」
その瞬間、私の胸が、ぎゅっと縮こまった。
“奇跡”という言葉は、あまりに重かった。
誰かの命を救うかもしれない。
でも、同じくらい、誰かの“運命”を縛るかもしれない。
私は、それを望んだことなんて、一度もなかった。
ただ、母に笑ってほしかった。弟に、寒くない日をあげたかった。
けれど、村は少しずつ変わっていく。
私を避けていた子どもたちが、「ねえ、あれ本当に君の祈りなの?」と聞いてきた。
大人たちが、「よく、祈ってくれてるね」と声をかけてくるようになった。
そして――司祭様が、再び私を呼んだ。
今度は、ひとりではなかった。
司祭様の隣には、灰色の法衣を纏った旅人がいた。
その人は、光を纏っているように見えた。
陽が傾きかけた午後、村の広場に現れたその女性は、まるで風に溶けるような身のこなしで馬車を降りた。灰色の長衣に金の刺繍がほどこされ、顔の半分は薄い白布で覆われていた。
教国からの使者――そう言って司祭様が頭を垂れたとき、私は息を呑んでいた。
女性の後ろには、二人の随行者。小柄な神官らしき男と、馬の手綱を引いていた騎士風の若者。どちらも、村には似つかわしくないほど整った装いをしていた。
けれど、不思議なことに――私は、怖くなかった。
それどころか、なぜか胸の奥が、ほっとしたような、安堵のような、けれど名付けようのない感情で満ちていった。
(……この人たちは、わたしを“見つける”ために来たんだ)
理由もなく、そう思った。
◇
村の集会場が臨時の面談所になった。
私は、母に背中を押されて、そこへ足を運んだ。
弟は泣きそうな顔で私の袖を引いたが、私は微笑んで手を振った。
建物の中は、空気が張り詰めていた。
その中心に、あの灰衣の女性が座っていた。顔の半分はまだ覆われていたが、瞳はまっすぐにこちらを見ていた。
「……セレスティア。そう呼ばれているのですね?」
私はこくんと頷いた。
「失礼。私たちは、神聖アルメシア教国より遣わされた者です。……あなたに関心があって、ここへ来ました」
女性の声は柔らかかった。でも、奥に冷たい芯があった。
その言葉が、どれほどの重みをもっているか、私にはまだよく分からなかった。
「……祈りを、しているそうですね?」
「……はい。毎日、しています」
「誰のために?」
私は少しだけ考えて、それから答えた。
「お母さんと、弟と、それから……この村の、みんなのためです」
女性の目が細くなった。それが笑みだったのか、ただの観察だったのか、私にはわからなかった。
「では……ここで、祈ってみせてくれますか?」
私は、一瞬だけ戸惑った。けれど、うなずいた。
部屋の片隅、煤けた木床の上に膝をつく。
何度も座った、あの納屋の感触とは違う。でも、目を閉じれば、同じ空が広がっていた。
「……神さま、今日も、村に光をください」
「母が笑えるように。弟が、元気に走れるように。
お腹が空いた子に、少しでも食べものが届くように。
病気の人が、朝を迎えられるように――
……どうか、誰かの“悲しい夜”が、短くなりますように」
声は、小さく震えていた。けれど、その言葉は、まっすぐだった。
祈り終えたあと、私は目を開けた。
部屋は、静かだった。
何も起きなかった。光も、音も、奇跡も――なにも。
だけど、女性の瞳は、どこか満足げに揺れていた。
「……なるほど」
彼女は立ち上がると、司祭様の方を向いて言った。
「この子を、教国へお迎えします。正式に、聖女候補として登録いたしましょう」
「え……」
私は思わず、小さな声を漏らした。
選ばれた? 私が?
私の中で、それがどういうことかが、まだ形にならなかった。
◇
帰り道、私は母の顔を見られなかった。
弟は「ねえちゃはすごい!」と飛び跳ねていたけれど、私の心はまだ追いついていなかった。
それでも――
空は、少しだけ春の色に染まっていた。
その夜、村の空は雲に覆われていた。
星も月も見えなかったけれど、不思議と暗くはなかった。
家の外には、焚き火の明かりが揺れていた。近所の人たちが、私のために少しだけ火をくべてくれていたらしい。
「寒いだろうから、せめて少しでも温まっていけ」と、誰かが言ってくれた。
私は、その火に近づくことはなかった。けれど、窓越しに見えるその炎は、胸の奥をじんわりと温めてくれていた。
◇
母は、夜の間ずっと起きていた。
布団の中から上半身を起こし、細い体にショールを巻いて、かまどの前に座っていた。
私が隣に座ると、母は優しく笑った。
「眠れない?」
「……うん。お母さんこそ、寝ないと」
「もう眠れるわけないでしょ。明日、大事な日なのに」
母の笑顔には、隠しきれない寂しさがにじんでいた。
「行くのが……こわい?」
「……ちょっとだけ。こわい。けど……」
「けど?」
「でも、行かなきゃって思う。私……何もできないけど。祈ることしかできないけど、それでも、もしほんとに誰かの力になれるなら……」
母は、その言葉を聞きながら、私の頭をそっと撫でた。
その手はやっぱり細くて、冷たかった。でも、いちばん安心できる手だった。
「セレス……あなたは、ほんとに強い子ね」
「そうかな……?」
「うん。私はそう思う。あなたは、小さな奇跡を起こせる子よ。……たぶん、それってね、“神さまに届いてる”ってことじゃなくて、“あなたの心が誰かに届いてる”ってことなんだと思う」
その言葉に、私は少しだけ黙ってしまった。
でも、心のどこかで、ふわっと光が灯ったような気がした。
母は続ける。
「祈りって、特別なものじゃなくていいのよ。ただ、“誰かを思うこと”が祈りなの。あなたは、それができる子。だから、選ばれたんだと思うわ」
私は――その言葉が、すごく嬉しかった。
そして、こみあげる涙をこらえるように、ぎゅっと母の手を握った。
◇
その晩、私はひとりで外に出た。
風は冷たかったけれど、痛いほどではなかった。
家の裏手、納屋の脇。いつも祈っていた“私だけの場所”に立ち、そっと目を閉じる。
「神さま、明日、私は村を離れます」
声は自然と震えた。泣いてはいなかったけど、胸の奥がぎゅうっと締めつけられていた。
「この村で、たくさんのことがありました。寒くて、つらくて……でも、家族がいて、笑ってくれる人がいて、花が咲いて、粥の匂いがして……私は、幸せでした」
深く、息を吸う。
「だから、どうか……私が、どこに行っても、この村のことを忘れないように。誰かのために祈る気持ちを、忘れないように……どうか、見守っていてください」
祈りの言葉が終わったとき、風が吹いた。
ふわり、とてもやさしく。春の匂いが、かすかに混じっていた。
それだけで十分だった。奇跡なんて起こらなくていい。
私は、ちゃんと祈れた。それが、今の私にできるすべてだった。
◇
家に戻ると、カイが布団の上で丸くなっていた。
私がそっと隣に寝転ぶと、彼は寝ぼけ眼で手を伸ばしてきた。
「……ねえちゃ、いっちゃうの?」
「うん、ちょっとだけ遠くに。教会ってところに行くんだよ」
「どのくらい?」
「……山、三つ分くらいかな。歩いたら、何日もかかるって」
「そんなに?」
「うん。でもね、帰ってくるよ。きっと。だから……待っててね」
「うん。……おかゆ、つくってくれる?」
「もちろん」
私は笑って、カイの髪をそっと撫でた。
「じゃあ、約束ね。帰ってきたら、いっしょに食べよう」
「うん……」
弟の小さな寝息が、やがて静かな夜に溶けていった。
私は、目を閉じた。
朝が、来る。旅立ちの朝が――
◇ ◇ ◇
朝は、静かに訪れた。
鳥の声も、風の音も、まだ眠っているようだった。
でも、私は目が覚めていた。夜のうちに何度も目を開けて、まだ暗い天井を見上げていた。
夢を見たような気もしたし、何も見なかったような気もした。
布団の中にいる母とカイは、まだ寝息を立てていた。
けれど私は、そっと起き上がった。薪を足して、かまどに火をくべる。音を立てないように、粥を炊きはじめた。
かすかな湯気が立ち上り、部屋の空気がほんの少しやわらぐ。
そうしていると、母が起き上がった。
「……もう、起きてたのね」
「うん。最後に、ちゃんとごはん食べたかったから」
母は笑って、うなずいた。
カイも少し遅れて目を覚ました。けれど、今日がどんな日なのか、まだよくわかっていない顔をしていた。
◇
粥を三つの器に分けて、私たちは静かに食卓を囲んだ。
ナッツと塩だけの、いつもと変わらない味。
だけど、私はその味を、きっと一生忘れないだろうと思った。
食べ終えたあと、母が荷物を渡してくれた。
小さな布袋。中には、干した根菜と、火打ち石と、家族の刺繍が縫い込まれた白布。
「これだけで、いいの?」
「これだけあれば、十分よ。……あとは、あなたの中に全部あるでしょう?」
私は、ゆっくりとうなずいた。
◇
外に出ると、すでに教国の馬車が村の入り口に待っていた。
昨日の灰衣の女性が立っていた。その隣に、司祭様がいた。
今日はいつもの法衣ではなく、どこか格式のある装束に身を包んでいた。
村の人々が、家の前や通りの影から、そっとこちらを見ていた。
誰も声はかけなかった。けれど、それは冷たい沈黙ではなかった。
誰かが、目元をぬぐった。
誰かが、深く頭を下げた。
誰かが、小さな花を門の柱にそっと結んだ。
私は、それだけで、胸がいっぱいになった。
「……行ってくるね」
小さく、そう言って、母と弟の前に立った。
カイは、今にも泣き出しそうな顔で唇を噛んでいた。
「やだよ……ねえちゃ、ずっといっしょにいたい」
「わかってる。私も、いたいよ。……でも、がんばってくるから」
「ほんとに、帰ってくる?」
「絶対、帰ってくる。だから――元気で待ってて。ちゃんと、笑ってて」
母は、何も言わずに私を抱きしめた。
冷たかった身体の奥から、かすかに伝わる体温。それだけで、涙が出そうになった。
「……誇りに思ってるよ、セレス」
「ありがとう。お母さん、私……ちゃんとがんばるね」
◇
馬車の扉が開かれた。
私は、何度も振り返りながら、その足を一歩、また一歩と進めた。
灰衣の女性が、静かに頭を下げる。
「ようこそ、聖女候補セレスティア。あなたの祈りは、神に届いています」
私はその言葉に返事をせず、ただ一度だけ空を見上げた。
雲の切れ間から、淡い光が差し込んでいた。
ああ――この光を、あの花も、きっと見ている。
扉が閉まる音がして、馬車が動き出した。
村が、遠ざかる。
家が、小さくなる。
あの祈りの日々が、過去になっていく。
でも、私は知っていた。
祈りは、終わらない。
誰かを想う気持ちは、どこへ行っても、きっと私の中にある。
旅立ちの馬車の中、私はそっと目を閉じて、祈った。
「――神さま、今日も、みんなが笑えますように」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
寒さと孤独の中で、それでも祈ることをやめなかったセレスティア。
その“名もなき祈り”が、誰かの心に触れ、静かに運命を変えていきました。
奇跡とは、大きな光や神の声ではなく――
誰かを想う、そのまっすぐな気持ちの中に宿るものなのかもしれません。
大切なものを胸に、彼女は旅立ちました。
まだ何も知らず、何も持たない彼女ですが、
それでも“祈れる心”だけは、きっとどこまでも届いていくと信じています。
この春の光のようにやさしい物語が、
読んでくださったあなたの心にも、そっと灯りますように。
次回からは、彼女が“聖女候補”として新たな世界へ踏み出していく物語が始まります。
どうか引き続き、見守っていただけたら嬉しいです。
もし、少しでも心に残る場面がありましたら……
感想やブクマ、いいねなど頂けたら、とても励みになります。
――星空 りん




