50 名もなき祈りの中で
その日も、朝は音もなく訪れた。
けれど、陽は昇っていなかった。雲に覆われた空の下、わずかに白みはじめた地平だけが、かろうじて今日という一日の訪れを告げていた。
私の村では、朝が来ることは、ただ「寒くなる時間が増える」ということだった。
火は貴重だった。薪はもっと貴重で、濡れた枝を煙らせて乾かすより、息を白くして震えていた方が、まだましだった。そんな生活が、私にとっての日常だった。
扉を押し開けると、冷気がすぐに胸まで滑り込んできた。
かすれた木の板を踏みしめて、一歩外へ出る。足の裏に伝わる地面の硬さが、まだ夜が残っていることを教えてくれる。
私の手には、空の桶。井戸へ向かうには、まだ足元が滑るかもしれない。でも、遅れたら、母の薬を煎じる水が間に合わない。
私は、息を詰めて歩き出した。
井戸の縁にたどりつくと、手を伸ばして桶を落とす。
細い音を立てて落ちていく滑車。冷えた水音が底から響いた。
少し、風が吹いた。
その風に混じって、遠くのどこかで鶏が鳴いた。今日も、村は生きている。
私は水をくみ上げながら、そっと口を開いた。
「……神さま、今日も、水が凍っていませんように」
手を組む必要はなかった。もう慣れてしまっていたから。
ただ、水が凍っていなければ、母の咳が少しでも楽になる。弟の朝粥がすこし早く炊ける。
祈るというより、願う。それが私の“祈り”の形だった。
◇
家に戻ると、母は布団にうずくまり、咳をこらえていた。
夜の間に冷え切った空気を、何度も小さな咳が切り裂くように響いていた。
「お母さん、起きなくていいよ。今から火を焚くから」
私は、水瓶に水を移し、薬草を刻んで鍋に入れる。
弟はまだ眠っていた。母の咳で目を覚ますこともあったけれど、今日は静かだった。
火がついたとき、小さくパチパチと音が鳴った。
その音が、まるで何かを褒めてくれているような気がして、私はすこしだけ笑った。
◇
それが、いつもの朝だった。
誰も見ていない。
誰も気づかない。
でも、私は、ずっと祈っていた。
この冷たい朝に。
この凍った村に。
少しだけ、光が射すように。
それが、誰かを救うのか。
それとも、何も起こらないのか。
わからないまま、でも私は、祈ることをやめなかった。
火の匂いが、部屋の隅々に広がっていく。
古い石のかまどに、ようやく炎が宿った。小さな枝と乾燥させた雑草を何層にも重ね、口を近づけて何度も息を吹き込んで。やっと、火がついた。
私は、ふうっと息を吐き、ひとつだけ肩をゆるめた。
鍋の中で煎じられた薬草が、淡い茶色に色を変えていく。干したラズリの葉と、傷んでいないクスカの皮、それから野の花の根。全部、司祭様が教えてくれた組み合わせだった。
しばらくして、母が小さく身じろぎをした。咳ではなかった。ただ、少しだけ顔をこちらに向けただけ。
私は、そっと布団のそばに膝をついた。
「お母さん、薬できたよ。あつくないから、ゆっくりで大丈夫」
母は、目をうっすらと開けた。
やせ細った頬に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。
「……ありがとうね、セレス……」
「ほんと、いい子に育ってくれて……」
声が弱い。けれど、たしかに届いていた。
私は器にすくった薬を、両手で持って差し出した。母は、震える手でそれを受け取る。飲み干すたびに、わずかに顔をしかめたけれど、最後まで残さなかった。
「ほら、ちょっと顔色よくなったよ」
私はそう言って、母の手をそっと握った。冷たかった。けれど、その冷たさにも、私は慣れていた。
◇
弟が目を覚ましたのは、薬の器を片づけた直後だった。
「……ねえ、ねえ……ねえちゃ……」
ぼそぼそと寝言のような声で、布団の中から手が伸びる。
私は笑って、すぐそばにしゃがみこんだ。
「おはよう、カイ。今日もちゃんと、起きれたね」
「さむい……さむいの、やだぁ……」
「大丈夫。火、ちゃんとついてるから。ほら、粥つくってるよ」
「……おかゆ? ほんとに?」
「ほんと。がんばってつくってるの。ちょっとだけ、いい匂いしてるでしょ?」
カイは、布団から顔を出し、鼻をくんくんと動かした。くしゃくしゃの髪の毛が跳ねて、丸い頬が火の明かりに照らされる。
「……におい、する。ちょっとだけ、した」
「でしょ?」
その瞬間、彼はぱちっと目を開けて、満面の笑みを浮かべた。
「ねえちゃ、おかゆのにおいがした!!」
ああ、そうだ――この笑顔が、私はいちばん好きだった。
小さな歯を見せて、手をぱたぱたと振りながら笑う姿。
冬の朝の凍えを、少しだけ忘れさせてくれる、私にとっての光だった。
◇
粥には、ほんの少しの塩と、砕いたナッツを入れた。
それだけでも、今日は少し贅沢だった。昨日、村の外れで拾った実が、思いのほか香りを残していたのだ。
三人で粥を囲んでいるとき、母がふと、遠くを見るように言った。
「……いつか、あの山を越えてみたいね」
私は、匙を止めた。
「山?」
「うん……お父さんが言ってたの。あの山の向こうにはね、もっと暖かい土地があって、花がずっと咲いてる場所があるんだって」
「ほんとに……?」
「ほんとよ。嘘じゃない」
母の目は、少しだけ涙を含んでいた。けれど、それを見せまいと、強く微笑んでいた。
私は、思わずその手を握った。
「じゃあ、行こうよ。三人で、いつか」
「……そうね。そうだね。……セレスとカイと、三人で」
私は、願うようにうなずいた。
それが、あまりに遠い夢だということを、きっと母も、私も、どこかで分かっていた。
でも、それでも、口にしなければ届かない気がした。
だから私は、祈るように、夢を言葉にしたのだった。
◇ ◇ ◇
うちの家のすぐ近くに、朽ちかけた納屋がある。
かつて村の炭焼きたちが使っていた建物で、今では壁が抜け、屋根の半分は崩れている。人も入らず、風と雪だけが吹き込んでいくその場所が、私にとっての“祈りの部屋”だった。
教会のような立派な窓も、聖女像もないけれど、私はそこが好きだった。
誰にも見つからない、静かな場所。祈ることが、ただの日課になってしまわないように、心を置く場所が欲しかった。
その納屋の奥に、割れた樽がある。
私はその樽の前に座り、手を組む。目を閉じる。深く、静かに息を吸って――
「神さま。きょうも、みんなが笑えますように」
それだけの祈り。
でも、不思議なことがあった。
その日から数えて三日後、村の仕立屋のばあさまが、動かなくなっていた右手の指を少しだけ曲げられるようになった。
「ほら、あの子だよ。教会の後ろで、いつも静かに祈ってる子」
そう言ったのは、井戸端で洗濯していた女の人だった。
私は驚いて、そっと物陰に隠れた。
私が祈ったことなんて、誰にも知られるはずがなかったのに。
次の日、羊飼いの少年が、ぬかるみに転んで足をひねった。
医者もいないこの村では、足を傷めればすぐに生活がままならなくなる。
けれど、少年は一晩だけ布団にくるまって、次の朝にはもう歩けるようになっていた。
「……あの子に会ったからじゃない?」
「また、教会の近くにいたらしいよ」
「ほんとに“聖女様”だったりしてね」
笑い混じりの言葉だった。
でも、私はその夜、納屋の奥でひとり震えていた。
奇跡――それは、本当に起こったのか?
それとも、偶然だったのか?
私は誰かに見せるために祈ったことなんて、一度もなかった。
でも、“誰かのために”祈ったことは、何度も、何度もあった。
それが、届いているのだとしたら――
それは、うれしいことのはずだった。
けれど同時に、こわかった。
誰かの“ために祈る”ことが、誰かの“期待”になること。
誰かの“救い”になると同時に、“責任”を背負うということ。
私の中のどこかが、それを知っていた。
◇
しばらくして、村の子どもたちが、私のことを「ほこらの子」と呼ぶようになった。
けして悪い意味ではなかった。けれど、距離が生まれた。
誰も、私に石を投げたりはしなかった。
でも、誰も、遊びに誘ってはくれなかった。
私は、ただ静かに祈っていた。
風の吹く日も、雪の舞う日も、土の匂いがする春の日も。
そうしていると、不思議なことに、村の空気が少しだけやわらいでいった。
カイの咳は減った。
母の笑顔も、ほんの少し増えた。
納屋の前の枯れた土に、小さな芽がひとつ、芽吹いた。
私は、その芽に心を込めて祈りを捧げた。
名もない花だった。けれど、こんな寒い村で花が咲くなんて――
その花が咲いた日、司祭様が私を呼んだ。
「セレス。少し、教会まで来てくれるかい?」
その声は、今までとは違っていた。
◇
教会は、村の高台にある。
年老いた木製の扉。風に擦れる鐘の音。ひび割れた床石。
けれどその場所だけは、村のどこよりも清潔だった。
司祭様は私を正面の椅子に座らせ、ゆっくりと話し始めた。
「……おまえが、祈っている姿を、何度も見た」
「……そうですか」
「祈る相手も、理由も聞かん。けれど、なぜか、その声が……空気をやわらかくするような、そんな気がしてな」
私は、言葉に詰まった。
なにか、言わなければならない気がした。けれど、それが何かわからなかった。
「……私は……ただ、お母さんの咳が止まればって……弟が笑えばって……そう思っていただけなんです」
「それで、いいのだよ」
司祭様は、目を細めた。
「神は、声にではなく、“心”に宿る。……私は、そう思っておる」
そう言って、彼は立ち上がり、奥の棚からひとつの石を持ってきた。
白く、なめらかに磨かれた、小さな石。
手のひらに乗せると、ほんのりと温かかった。
「これは、“聖印石”と呼ばれるものじゃ。……昔な、わしが若い頃、教国で授かったものだ」
「どうして……それを、私に?」
「持っておくがよい。……まだ、なにも決まったわけではないがな。だが、セレス……」
司祭様は、目を細めたまま、こう言った。
「おまえの祈りは、きっと――どこかに届いとる」
その言葉の意味を、私はまだ知らなかった。
けれど、胸の奥で小さな灯がともる音がした気がした。
それが、私の運命を静かに動かしはじめたことに、私はまだ気づいていなかった。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
“祈り”は、誰かに見せるためのものではなく、
ただ、心から誰かを想う気持ち――
それが、セレスティアの原点であり、彼女の歩みの始まりでした。
奇跡かもしれない。
偶然かもしれない。
それでも、名もなき想いが静かに誰かに届いていたとしたら、
きっと、それは世界を少しだけやさしくするのだと思います。
孤独と共に、それでも祈りを手放さなかった少女の胸に、
小さな灯がともったこの瞬間を、
どうか、心に残していただけたなら幸いです。
ここから、セレスティアの物語は少しずつ、動き出します。
感想やブクマ、応援のお言葉、本当に励みになります。
また次の章で、お会いしましょう。
――星空 りん




