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『異世界転生でアイドル目指します。』  作者: 星空りん
第三章 声にならない願い
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50 名もなき祈りの中で

 その日も、朝は音もなく訪れた。

 けれど、陽は昇っていなかった。雲に覆われた空の下、わずかに白みはじめた地平だけが、かろうじて今日という一日の訪れを告げていた。


 私の村では、朝が来ることは、ただ「寒くなる時間が増える」ということだった。


 火は貴重だった。薪はもっと貴重で、濡れた枝を煙らせて乾かすより、息を白くして震えていた方が、まだましだった。そんな生活が、私にとっての日常だった。


 扉を押し開けると、冷気がすぐに胸まで滑り込んできた。

 かすれた木の板を踏みしめて、一歩外へ出る。足の裏に伝わる地面の硬さが、まだ夜が残っていることを教えてくれる。


 私の手には、空の桶。井戸へ向かうには、まだ足元が滑るかもしれない。でも、遅れたら、母の薬を煎じる水が間に合わない。


 私は、息を詰めて歩き出した。


 井戸の縁にたどりつくと、手を伸ばして桶を落とす。

 細い音を立てて落ちていく滑車。冷えた水音が底から響いた。


 少し、風が吹いた。

 その風に混じって、遠くのどこかで鶏が鳴いた。今日も、村は生きている。


 私は水をくみ上げながら、そっと口を開いた。


「……神さま、今日も、水が凍っていませんように」


 手を組む必要はなかった。もう慣れてしまっていたから。

 ただ、水が凍っていなければ、母の咳が少しでも楽になる。弟の朝粥がすこし早く炊ける。


 祈るというより、願う。それが私の“祈り”の形だった。



 家に戻ると、母は布団にうずくまり、咳をこらえていた。

 夜の間に冷え切った空気を、何度も小さな咳が切り裂くように響いていた。


 「お母さん、起きなくていいよ。今から火を焚くから」


 私は、水瓶に水を移し、薬草を刻んで鍋に入れる。

 弟はまだ眠っていた。母の咳で目を覚ますこともあったけれど、今日は静かだった。


 火がついたとき、小さくパチパチと音が鳴った。

 その音が、まるで何かを褒めてくれているような気がして、私はすこしだけ笑った。



 それが、いつもの朝だった。


 誰も見ていない。

 誰も気づかない。


 でも、私は、ずっと祈っていた。


 この冷たい朝に。

 この凍った村に。

 少しだけ、光が射すように。


 それが、誰かを救うのか。

 それとも、何も起こらないのか。

 わからないまま、でも私は、祈ることをやめなかった。


 火の匂いが、部屋の隅々に広がっていく。


 古い石のかまどに、ようやく炎が宿った。小さな枝と乾燥させた雑草を何層にも重ね、口を近づけて何度も息を吹き込んで。やっと、火がついた。


 私は、ふうっと息を吐き、ひとつだけ肩をゆるめた。


 鍋の中で煎じられた薬草が、淡い茶色に色を変えていく。干したラズリの葉と、傷んでいないクスカの皮、それから野の花の根。全部、司祭様が教えてくれた組み合わせだった。


 しばらくして、母が小さく身じろぎをした。咳ではなかった。ただ、少しだけ顔をこちらに向けただけ。


 私は、そっと布団のそばに膝をついた。


「お母さん、薬できたよ。あつくないから、ゆっくりで大丈夫」


 母は、目をうっすらと開けた。

 やせ細った頬に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。


「……ありがとうね、セレス……」

「ほんと、いい子に育ってくれて……」


 声が弱い。けれど、たしかに届いていた。


 私は器にすくった薬を、両手で持って差し出した。母は、震える手でそれを受け取る。飲み干すたびに、わずかに顔をしかめたけれど、最後まで残さなかった。


「ほら、ちょっと顔色よくなったよ」


 私はそう言って、母の手をそっと握った。冷たかった。けれど、その冷たさにも、私は慣れていた。



 弟が目を覚ましたのは、薬の器を片づけた直後だった。


「……ねえ、ねえ……ねえちゃ……」


 ぼそぼそと寝言のような声で、布団の中から手が伸びる。


 私は笑って、すぐそばにしゃがみこんだ。


 「おはよう、カイ。今日もちゃんと、起きれたね」


「さむい……さむいの、やだぁ……」


 「大丈夫。火、ちゃんとついてるから。ほら、粥つくってるよ」


「……おかゆ? ほんとに?」


「ほんと。がんばってつくってるの。ちょっとだけ、いい匂いしてるでしょ?」


 カイは、布団から顔を出し、鼻をくんくんと動かした。くしゃくしゃの髪の毛が跳ねて、丸い頬が火の明かりに照らされる。


「……におい、する。ちょっとだけ、した」


「でしょ?」


 その瞬間、彼はぱちっと目を開けて、満面の笑みを浮かべた。


「ねえちゃ、おかゆのにおいがした!!」


 ああ、そうだ――この笑顔が、私はいちばん好きだった。


 小さな歯を見せて、手をぱたぱたと振りながら笑う姿。

 冬の朝の凍えを、少しだけ忘れさせてくれる、私にとっての光だった。



 粥には、ほんの少しの塩と、砕いたナッツを入れた。

 それだけでも、今日は少し贅沢だった。昨日、村の外れで拾った実が、思いのほか香りを残していたのだ。


 三人で粥を囲んでいるとき、母がふと、遠くを見るように言った。


「……いつか、あの山を越えてみたいね」


 私は、匙を止めた。


「山?」


「うん……お父さんが言ってたの。あの山の向こうにはね、もっと暖かい土地があって、花がずっと咲いてる場所があるんだって」


「ほんとに……?」


「ほんとよ。嘘じゃない」


 母の目は、少しだけ涙を含んでいた。けれど、それを見せまいと、強く微笑んでいた。


 私は、思わずその手を握った。


「じゃあ、行こうよ。三人で、いつか」


「……そうね。そうだね。……セレスとカイと、三人で」


 私は、願うようにうなずいた。

 それが、あまりに遠い夢だということを、きっと母も、私も、どこかで分かっていた。


 でも、それでも、口にしなければ届かない気がした。

 だから私は、祈るように、夢を言葉にしたのだった。


◇ ◇ ◇


 うちの家のすぐ近くに、朽ちかけた納屋がある。


 かつて村の炭焼きたちが使っていた建物で、今では壁が抜け、屋根の半分は崩れている。人も入らず、風と雪だけが吹き込んでいくその場所が、私にとっての“祈りの部屋”だった。


 教会のような立派な窓も、聖女像もないけれど、私はそこが好きだった。

 誰にも見つからない、静かな場所。祈ることが、ただの日課になってしまわないように、心を置く場所が欲しかった。


 その納屋の奥に、割れた樽がある。

 私はその樽の前に座り、手を組む。目を閉じる。深く、静かに息を吸って――


「神さま。きょうも、みんなが笑えますように」


 それだけの祈り。


 でも、不思議なことがあった。


 その日から数えて三日後、村の仕立屋のばあさまが、動かなくなっていた右手の指を少しだけ曲げられるようになった。


「ほら、あの子だよ。教会の後ろで、いつも静かに祈ってる子」


 そう言ったのは、井戸端で洗濯していた女の人だった。


 私は驚いて、そっと物陰に隠れた。

 私が祈ったことなんて、誰にも知られるはずがなかったのに。


 次の日、羊飼いの少年が、ぬかるみに転んで足をひねった。

 医者もいないこの村では、足を傷めればすぐに生活がままならなくなる。


 けれど、少年は一晩だけ布団にくるまって、次の朝にはもう歩けるようになっていた。


「……あの子に会ったからじゃない?」


「また、教会の近くにいたらしいよ」


「ほんとに“聖女様”だったりしてね」


 笑い混じりの言葉だった。

 でも、私はその夜、納屋の奥でひとり震えていた。


 奇跡――それは、本当に起こったのか?

 それとも、偶然だったのか?


 私は誰かに見せるために祈ったことなんて、一度もなかった。

 でも、“誰かのために”祈ったことは、何度も、何度もあった。


 それが、届いているのだとしたら――


 それは、うれしいことのはずだった。


 けれど同時に、こわかった。


 誰かの“ために祈る”ことが、誰かの“期待”になること。

 誰かの“救い”になると同時に、“責任”を背負うということ。


 私の中のどこかが、それを知っていた。



 しばらくして、村の子どもたちが、私のことを「ほこらの子」と呼ぶようになった。


 けして悪い意味ではなかった。けれど、距離が生まれた。


 誰も、私に石を投げたりはしなかった。

 でも、誰も、遊びに誘ってはくれなかった。


 私は、ただ静かに祈っていた。

 風の吹く日も、雪の舞う日も、土の匂いがする春の日も。


 そうしていると、不思議なことに、村の空気が少しだけやわらいでいった。


 カイの咳は減った。

 母の笑顔も、ほんの少し増えた。

 納屋の前の枯れた土に、小さな芽がひとつ、芽吹いた。


 私は、その芽に心を込めて祈りを捧げた。

 名もない花だった。けれど、こんな寒い村で花が咲くなんて――


 その花が咲いた日、司祭様が私を呼んだ。


「セレス。少し、教会まで来てくれるかい?」


 その声は、今までとは違っていた。



 教会は、村の高台にある。


 年老いた木製の扉。風に擦れる鐘の音。ひび割れた床石。

 けれどその場所だけは、村のどこよりも清潔だった。


 司祭様は私を正面の椅子に座らせ、ゆっくりと話し始めた。


「……おまえが、祈っている姿を、何度も見た」


「……そうですか」


「祈る相手も、理由も聞かん。けれど、なぜか、その声が……空気をやわらかくするような、そんな気がしてな」


 私は、言葉に詰まった。


 なにか、言わなければならない気がした。けれど、それが何かわからなかった。


「……私は……ただ、お母さんの咳が止まればって……弟が笑えばって……そう思っていただけなんです」


「それで、いいのだよ」


 司祭様は、目を細めた。


「神は、声にではなく、“心”に宿る。……私は、そう思っておる」


 そう言って、彼は立ち上がり、奥の棚からひとつの石を持ってきた。


 白く、なめらかに磨かれた、小さな石。

 手のひらに乗せると、ほんのりと温かかった。


「これは、“聖印石”と呼ばれるものじゃ。……昔な、わしが若い頃、教国で授かったものだ」


「どうして……それを、私に?」


「持っておくがよい。……まだ、なにも決まったわけではないがな。だが、セレス……」


 司祭様は、目を細めたまま、こう言った。


「おまえの祈りは、きっと――どこかに届いとる」


 その言葉の意味を、私はまだ知らなかった。

 けれど、胸の奥で小さな灯がともる音がした気がした。

 それが、私の運命を静かに動かしはじめたことに、私はまだ気づいていなかった。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。


“祈り”は、誰かに見せるためのものではなく、

ただ、心から誰かを想う気持ち――

それが、セレスティアの原点であり、彼女の歩みの始まりでした。


奇跡かもしれない。

偶然かもしれない。

それでも、名もなき想いが静かに誰かに届いていたとしたら、

きっと、それは世界を少しだけやさしくするのだと思います。


孤独と共に、それでも祈りを手放さなかった少女の胸に、

小さな灯がともったこの瞬間を、

どうか、心に残していただけたなら幸いです。


ここから、セレスティアの物語は少しずつ、動き出します。


感想やブクマ、応援のお言葉、本当に励みになります。

また次の章で、お会いしましょう。


――星空 りん

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