49 夏風の午後、小さな竜とひとときの庭
夏の風は、春よりも少しだけ背伸びして、木々の枝葉をしなやかに揺らしていた。
王立セレナリア学院の裏手にある保護区域――そこは生徒の立ち入りが制限されている場所だけれど、特別な許可を得て、私たちはときどき足を運んでいた。
今日は、久しぶりの午後の自由時間。
陽射しは眩しくもやわらかで、空はすっかり夏の色に染まっていた。
「……ふふっ、今日はほんとうにいいお天気ですね」
そう微笑んだのはフィリーナさん。揺れる日傘の影の下、淡い水色のリボンが夏風にふわりと揺れている。
「ルゥも、きっと喜んでくれるよねっ!」
隣でマリナちゃんが嬉しそうに手を振った。
私たちは三人で、保護区域の奥にあるあの丘へと向かっていた。そこは、ルゥ――あの小さな竜がいま暮らしている場所。春の日に出会い、あの奇跡の日を経て、今もこの学院で静かに保護されている。
ルゥは、元気になった。
傷も癒え、今ではひとりで飛ぶ練習をしていると聞いた。けれどまだ幼く、森に帰るにはもう少し時間が必要だと、先生たちが判断してくれている。
だから、こうしてまた会える。
あの日のお別れが、まだ先になったこと――私は、心の奥でそっと感謝していた。
「ねぇ、もう見えてきたよ。……あっ、いた!」
先を歩いていたマリナちゃんが、指を伸ばして声を上げた。
視線の先には、小高い丘の上。
風に揺れる草原のなか、小さな竜――ルゥが、くるくると飛び跳ねていた。
翼をばたつかせ、しっぽをくるりと振って、嬉しそうにこちらへ駆けてくる。
「ルゥ……!」
思わず声がこぼれる。
ルゥは小さな体をふわりと浮かせるようにして、私の腕の中に飛び込んできた。
「ぴぃっ!」
透き通るような声が、空に弾けた。
私は、そっとルゥを抱きしめた。やわらかくて、あたたかくて――それでいて、確かな命の鼓動を感じる。
「……元気そうで、よかった」
「うん、ほんとに! 春のときよりも、ちょっと大きくなってる気がしませんか?」
マリナちゃんの声に、フィリーナさんも頷いた。
「はい。顔つきも少し引き締まって……あの頃よりも、ずっとたくましくなりましたわ」
私たちは、ルゥの周りにそっとしゃがみこんだ。
草の上に座り込んで、夏の風のなか、ゆっくりと時間が流れていく。
「ルゥ、今日は遊びに来たんだよ」
優しく語りかけると、ルゥはくるりと回って、私の膝に頭をこすりつけた。
「ぴいぃっ!」
嬉しそうな声に、私たちは思わず顔を見合わせて、同時に笑ってしまった。
「ほら、ルゥ。これ、覚えてる?」
マリナちゃんが懐から取り出したのは、小さな赤い木の実だった。春に一緒に遊んだとき、ルゥが特に気に入っていたものだ。
ルゥはぴょこんと首をかしげて、それから小さく「ぴっ」と鳴いて近づいてくる。小さな鼻先でそっと木の実をつつくと、ぱくりとひとくちで口にした。
「ふふ、食べた!」
「ちゃんと覚えていたのね」
フィリーナさんが微笑む。頬にかかる金髪を耳にかけながら、その様子を見つめる眼差しはとても優しかった。
私たちは草の上に輪になって座り、ルゥを囲むようにしておしゃべりを続ける。ルゥは、くるくると私たちのまわりを跳ねまわったかと思えば、すぐにまたぴたりと止まって尻尾を振る。まるで、「次は何をするの?」とでも聞いているようだった。
「……ねえ、今度はこれで遊んでみない?」
私はスカートのポケットから、薄布でくるんだ小さなボールを取り出した。手のひらほどの大きさで、中にはふわふわの詰め物が入っている。
「安全なおもちゃだって、お母様が作ってくださったの。ルゥに渡してあげたら、喜ぶかもって……」
「まあ、素敵。シオンさんのお母様って、やっぱり優しい方なのですね」
「わっ、これならぶつかっても痛くないし!」
ふたりが感嘆の声をあげる中、私は布のボールをそっと投げた。
ぽすん、と柔らかく草の上に落ちたボールを、ルゥがぴょんと飛びついて押し返す。
「ぴー!」
その声があまりに楽しそうで、思わず私たちは顔を見合わせて笑ってしまった。
その後もしばらく、ルゥは私たちとボールで遊んだ。前足でぽんっと跳ね返したり、勢い余って転んだり、たまにしっぽでボールを巻き込んでしまって自分でもびっくりした顔をしたり……そのたびに、私たちは笑って、名前を呼んだ。
「ルゥ、それっ!」
「こっちだよー!」
「ほら、しっぽ、しっぽに絡まってますわよ」
風が通り抜けるたび、草の匂いと夏の光が混ざりあって、まるで季節そのものが祝福してくれているようだった。
――きっと、この時間は、二度と戻ってこない。
けれど、だからこそ。
今という瞬間が、宝物のように胸の奥に刻まれていく。
◇
たくさん遊んだあとは、ルゥもさすがに少し疲れたのか、草の上にぺたんと座り込んで、尻尾をくるりと巻き込んだ。
「ふふ、少し休憩しようか」
私たちも木陰の芝生に腰を下ろす。夏の風が通り抜けて、頬を撫でていく。麦わらの香りと花の匂いが混じったような、どこか懐かしい風。
「今日は……ほんとに、来てよかった」
私がぽつりとそう言うと、マリナちゃんがこちらを向いて微笑んだ。
「うん。ルゥが元気に走り回ってる姿、こうして見られるなんて……春には想像できなかったよね」
「ええ。本当に……奇跡のような回復でしたもの」
フィリーナさんがそう言って、そっとルゥを見つめる。その瞳はどこか、祈るような温かさをたたえていた。
「私、あのときのこと、ずっと忘れないと思う」
マリナちゃんが続けるように口を開いた。
「シオンさんが歌って、光がふわって広がって……ルゥが、あんなに弱っていたのに、生きようって目をしたあの瞬間。あれ、きっと“魔法”なんかじゃなくて……もっと特別な、心の力だと思う」
私は、そっと目を伏せた。
あのとき、私も確かに感じていた。歌という形を借りて、何かが心から溢れ出ていたこと。言葉にできない“想い”が、あの子に届いたのだと――今なら、そう思える。
「……ありがとう、マリナちゃん」
「ううん、こっちこそ。あのときから、私……もっと“信じること”って大事なんだって思えるようになったから」
少し照れたように笑うマリナちゃんに、私は思わず微笑みを返した。
「……あら?」
そのとき、フィリーナさんが小さな声をあげた。
見ると、ルゥが少しだけ飛び上がって、空中でくるりと回るように翼を広げていた。
「ひとりで飛んだ……!」
「ほんのちょっとだけ、だけど!」
私たちは目を見開き、それから――声を揃えて拍手を送った。
「すごいよ、ルゥ!」
「やったわね!」
「……おめでとう、ルゥ」
ルゥは嬉しそうに何度も「ぴい、ぴいっ」と鳴いて、くるくると地面を駆け回った。
ほんの数秒の宙。でも、その一瞬に込められていたのは、確かな“希望”の羽ばたきだった。
風がそよぐ。
木々の葉がやさしく揺れて、影が地面に模様を描いていた。ルゥはしばらく私たちのまわりを走り回ったあと、ふと足を止めてこちらを振り返った。
「おつかれさま、ルゥ。すごかったよ、あのジャンプ」
私が言うと、ルゥは自慢げに胸を張って――それから、ごろんと芝生の上に転がった。
「ふふっ、かわいい……」
マリナちゃんがくすっと笑い、そっとルゥの頭を撫でる。ルゥはうれしそうに喉を鳴らして、目を細めた。
「こうしてると……本当に、普通の小さな子みたいですね」
フィリーナさんも、膝の上に手を重ねながら静かに微笑んだ。
私は、少しだけ空を見上げた。
真っ青な空。雲一つないその広がりは、まるで未来そのもののように、果てしなく続いている。
「ルゥは、きっといつかあの空を……」
そう呟いた私の言葉に、マリナちゃんが静かにうなずいた。
「うん。きっと、もっと高く飛べるようになるね」
「でも、それまでは――こうして一緒に過ごしましょう」
フィリーナさんのその言葉に、私たちはそっと微笑み合った。
ルゥが、くうくうと寝息を立てていた。
羽根を少しだけ広げて、安心したように丸まっている。眠っている顔は、やっぱりどこか子どもみたいで――愛おしくてたまらなかった。
「……今日は、たくさん遊んだものね」
私の言葉に、誰もが頷いた。
そして、誰もが言葉を失い、しばし静かな時間に身を委ねた。
風が葉を鳴らし、小鳥のさえずりが遠くで聞こえる。芝生に横たわるルゥの寝息と、陽射しのぬくもり。
世界が、ただ穏やかだった。
「シオンさん、また来ようね」
マリナちゃんが、小さな声で言った。
私は頷く。
「ええ。きっと……また、来ようね」
この時間が、永遠ではないと知っているからこそ。
だからこそ、今を大切にしたいと思えた。
◇
日が少しずつ傾き、木々の影が長く伸びていく。
風も少しひんやりとして、夏の午後が夕暮れに近づいているのを、肌で感じるようになった。
「そろそろ……戻りましょうか」
フィリーナさんがそう言って立ち上がると、マリナちゃんも小さく伸びをした。
「うん。ルゥも……起きてくれるかな」
芝生の上で丸まっていたルゥに、私はそっと手を伸ばす。
「ルゥ……起きて。もう帰る時間だよ」
優しく声をかけると、ルゥは小さくあくびをして、ぱちりと目を開けた。しばらく瞬きをしたあと、私の顔を見て――「ぴい」と鳴く。
「ふふっ、おはよう。って、もう夕方だけどね」
私はそう言って微笑み、ルゥの額に手を置いた。
「楽しかったね、今日も」
ルゥは満足そうに、ふたたび「ぴい」と鳴いて、今度は私の胸元にすり寄ってきた。
「ルゥ……」
そのあたたかさが、なんだか胸の奥にじんと染みてくる。
また、こうして会えること。
元気な姿を見られること。
小さな体を、両腕でそっと受けとめられること。
全部――奇跡みたいに、大切な時間だった。
「また、来るからね」
私はそっと囁く。ルゥはまるでその言葉を理解したかのように、小さく翼をばたつかせて、こちらを見上げた。
「ねえ、ルゥ。また明日、会おうね」
マリナちゃんが優しく手を振ると、ルゥも「ぴい」と短く返事をして、三人を見送るように丘の上で首を傾げた。
私たちは、ゆっくりと歩き出す。
森の木々の間から差し込む光が、金色に染まっていく。
振り返れば、ルゥがまだそこにいて、小さな姿でじっとこちらを見つめていた。
(ねぇ、ルゥ――今日も、ありがとう)
私は胸の中でそっとつぶやく。
未来がどうなるかはわからない。けれど、こうして過ごした日々は、きっと私たちの心に残っていく。
それは、季節のように移ろっていくものではなく――
もっと深く、確かに、心に刻まれていくもの。
そう思えたから、私はそっと笑って、また一歩、足を前に出した。
◇
丘を下りて、学院へと続く小道を歩く。
夕陽は斜めから差し込み、木々の葉が金色に透けていた。風が枝を揺らすたび、ささやくような音が耳に届き、どこか懐かしい気持ちになる。
「なんだか……夏の終わりみたい」
マリナちゃんがぽつりとつぶやく。
「まだ始まったばかりなのにね」
私も笑って返すと、マリナちゃんは「でも、今日の風がそんな感じだったの」と、頬に手を当てて目を細めた。
「うん、わかるわ。それに、あの丘の空……少し寂しそうな色をしてた気がする」
フィリーナさんの声も、どこか柔らかく、夕暮れの空に溶けていくようだった。
私たちは言葉少なに歩く。
それでも、心の中には同じ風景が広がっていた。
ルゥと過ごした、あの丘の午後。
空の色、芝の手触り、耳に残る小さな鳴き声。
どれも、かけがえのない思い出として――静かに胸の奥に刻まれていく。
「明日も……ルゥに会えるかな」
マリナちゃんの言葉に、私はそっと頷いた。
「きっと。あの子、明日も待っててくれるよ」
「ええ。そうね。……私たちも、また会いに行きましょう」
フィリーナさんがやわらかく微笑む。
夕暮れの学院が、少しずつ近づいてくる。
その佇まいは、いつもと変わらないはずなのに――私たちの心の中には、小さな変化があった。
それは、きっと“つながり”のかたち。
誰かと心を通わせたことで、ほんの少しだけ、明日がやさしくなるような気がしていた。
門をくぐると、学院の灯りがゆっくりとともされていく。
今日という一日が、そっと静かに幕を下ろす合図。
私は振り返る。遠く、木立の向こうに見えなくなった丘のほうへ――ほんの少しだけ、想いを馳せて。
(また明日、会おうね……ルゥ)
その祈りのような言葉を、心の中でそっと結んでから、私はマリナちゃんとフィリーナさんのもとへ歩いていった。
◇ ◇ ◇
夕食を終え、自室に戻ると、私はそっと窓を開けた。
夜の風が、ひんやりと頬を撫でていく。昼間の暑さを忘れさせるような優しい風だった。
空には、ひとつ、またひとつと星が瞬きはじめている。
「……今日は、いい日だったなあ」
ぽつりとつぶやくと、ベッドの上で待っていたルナちゃんが、ふわりと揺れた気がした。
私はルナちゃんをそっと抱き上げる。
「ただいま、ルナちゃん。……待っててくれたの?」
ぬいぐるみのボタンの瞳が、静かにこちらを見つめている気がする。
「うん。ちゃんと話したいなって思ってたの。……今日、ルゥとたくさん遊んだのよ。マリナちゃんとフィリーナさんも一緒にね。あの子、とっても元気で、少しずつだけど、飛ぶ練習も始めてて……」
私は窓辺に腰を下ろし、ルナちゃんを膝に乗せたまま、そっと語りかけた。
「……昔の私だったら、誰かとこんなふうに過ごすことすら、怖くてできなかったと思う。自分の力も、想いも、どう向き合えばいいか分からなくて……」
静かに視線を落とす。
机の上には、昼間ルゥがくれた、小さな羽根が置かれていた。
淡い青色のそれは、どこかあたたかく、微かな光を帯びているようだった。
「でもね……ルナちゃん。ルゥと出会ってから、私、少しだけ勇気を出せるようになったの。誰かのそばにいること、誰かを想うことって……怖いだけじゃないんだって、知ったの」
ふと、ルナちゃんを見つめる。
「……ルナちゃんも、そうだったよね。ずっと、私のそばにいてくれた。ひとりぼっちだって思っていた時も、泣きたい夜も……何も言わずに、そっと手を握ってくれてた気がするの」
私はルナちゃんをぎゅっと抱きしめる。
「ありがとう、ルナちゃん。私、ようやく……誰かにちゃんと“ありがとう”って言えるようになったよ」
窓の外では、木々の葉が夜風に揺れていた。静かなささやきが、まるで誰かの優しい歌のように響いている。
私は羽根にそっと触れた。
「明日も、ルゥに会えるかな。……きっと、また会えるよね」
胸の奥にある“音”が、そっと脈を打つ。
“歌”にはならないけれど、確かにそこに在る、あたたかなもの。
(ありがとう。ルゥ。……そして、ルナちゃん)
私は目を閉じた。
この静かな夜を、そっと大切にしたかった。
ルナちゃんのぬくもりと、小さな羽根の光を胸に抱きながら――。
(おやすみ。明日もきっと、大丈夫だよね)
――第二章『響きあう想い』、完。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
小さな竜のルゥと過ごした、ひとときの夏の午後――
それは、シオンにとっても、私たちにとっても、きっと忘れられない宝物のような時間でした。
「また会える」と信じられること。
「いまが大切」だと思えること。
そんなあたたかな想いを、少しでも感じていただけたなら、とても嬉しいです。
この静かなひとときが、あなたの心にもやさしく届きますように。
そしてまた、次の物語でお会いできる日を楽しみにしています。
――星空 りん




