48 陽だまりの記憶、小さな翼と夏の風
初夏の風は、春よりも少しだけ強くて、少しだけあたたかい。
青く澄んだ空の下、校庭の芝生はすっかり色濃くなっていた。草の香りは風に乗って広がり、木々の葉は陽の光をたっぷりと浴びて、きらきらと輝いている。
窓を開け放った教室には、さわさわと葉擦れの音が届いていた。時折、遠くから小鳥のさえずりも聞こえてくる。春の終わりを告げるその音色は、どこか名残惜しく、それでいて、次の季節を迎える喜びも感じさせてくれる。
「ふう……もうすっかり、夏の匂いだね」
マリナちゃんが、窓際で制服の襟元をぱたぱたと仰ぎながら呟いた。
「本当。空も、ずいぶん高くなった気がしますわ」
フィリーナさんが隣でうなずく。艶やかな銀髪が、風に揺れて陽を反射する。
私も、机の上に頬杖をついて、そっと外の景色に目をやった。
風が吹くたび、教室のカーテンがふわりと膨らむ。白い布越しに見える木々の緑が、光を受けて波のように揺れていた。
(……季節が、変わっていく)
春には春の、優しい柔らかさがあった。けれど、いま感じているこの空気は、もう少しだけ凛としていて、未来へ歩き出すような、そんな強さがあった。
私たちの学院生活も、少しずつ“いつもの日常”になってきた。
あの日、教室に舞い降りた小さな奇跡――ルゥとの出会いから、もう数週間が経っていた。
窓の外に目をやると、校舎の奥に広がる木立の向こう、学院の保護区域の一角にある温室が、陽光のなかで静かに佇んでいた。あの中に、ルゥがいる。
(元気になったかな……)
小さな命が癒やされた日。クラスのみんなの前で歌ったあの瞬間は、私にとって忘れられない記憶だ。そしてそれは、クラスメイトたちにとっても、何かを変えるきっかけになったようだった。
授業が終わるたびに、誰かがふと笑いかけてくれるようになった。
ちょっとしたことでも声をかけ合い、同じ時間を過ごすことに、温かさが宿るようになった。
(あのとき、ルゥが……教えてくれたのかもしれない)
魔物なのに、傷ついた身体で私たちの教室へ飛び込んできた、小さな竜。
恐れるよりも、助けたいと思ったその気持ちは――
今でも、胸の奥で静かに息づいている。
「今日も……会いに行こうかな」
私がぽつりとつぶやくと、マリナちゃんが顔を輝かせた。
「うんっ、行こう! わたしも、ルゥに会いたかったの!」
「では、授業が終わったら……三人で参りましょう」
フィリーナさんの優しい笑みに、私も自然と頷いた。
夏の風が、カーテンの隙間からふわりと舞い込んだ。
――そして、静かに新しい季節が、私たちの物語の続きを告げていた。
◇
放課後、私たちは学院の裏手にある保護区域へと向かった。
芝生の道を踏みしめるたび、夏の香りがふわりと鼻をかすめる。陽射しは春よりも少しだけ眩しくて、でもどこか心地よかった。
「今日も、元気にしてるといいね」
マリナちゃんが、両手を後ろで組みながら、足取り軽く言う。
「きっと大丈夫ですわ。エルシア先生も『順調に回復している』と仰っていましたし」
フィリーナさんが優雅な歩調で並び、穏やかに微笑む。
私たちは木々のあいだから続く小道を抜け、やがて温室の入口にたどり着いた。
そこは学院のなかでも特別に静かな場所で、魔物や珍しい動植物の保護のために設けられている。外の騒がしさとは違い、ここだけ時間がゆっくりと流れているような、そんな場所だった。
重たい扉をそっと押し開けると、柔らかな光が差し込んだ。
中は、たくさんの植物に囲まれていて、緑の香りと湿った空気が広がっていた。中央の広場のようなスペースには、木漏れ日が射し、色とりどりの花々が揺れている。
そして――
「……ルゥ」
その真ん中に、小さな影がいた。
透き通るような蒼緑の鱗。長い尾をふわりと揺らしながら、陽の光を背に受けて、ルゥがこちらを振り向いた。
「あっ……!」
私たちに気づいたルゥは、嬉しそうに小さく鳴いた。
ぴいっ、と澄んだ高い音。小鳥にも似たその声は、まるで音楽のように優しくて、私の胸に真っ直ぐ届いた。
マリナちゃんが走り出す。
「ルゥーっ! 元気だった?」
小さな竜はぴょこんと跳ねて、マリナちゃんに向かって前足をちょんと差し出す。それは、まるで「会いたかったよ」と言っているようで――見ているだけで胸があたたかくなった。
「ちゃんと、歩けてるわ……!」
フィリーナさんが目を細める。数週間前は、翼も傷だらけでまともに立つことすら難しそうだったのに、今ではもうしっかりと自分の足で動いている。
「……良かった、本当に」
私もそっとルゥに近づき、膝をついて目線を合わせる。
「会いに来たよ、ルゥ」
ルゥはぴいっとまた一声鳴くと、小さな頭を私の胸にすり寄せてきた。
体温が、ふわりと伝わってくる。とてもあたたかくて、やさしい。
(……あの日と、同じ)
私が“歌”を通して感じた命の鼓動。それが今、こうして元気にここにいる。
奇跡なんて、簡単な言葉で片付けたくないくらい――
胸の奥に、じんわりとこみ上げる想いがあった。
「本当に……元気になったね、ルゥ」
私の声に応えるように、ルゥが小さく鳴いて、私の手を鼻先でつんとつついた。
その仕草が、あまりにも嬉しそうで、愛おしくて。
「ねぇ、ルゥ……君は、これからどこへ向かうのかな」
そんな問いが、ふと心に浮かんだ。
でも今は、まだここにいてくれる。まだ、私たちのそばに――
◇ ◇ ◇
数日後、ルゥの回復ぶりが学院の許可を得て正式に発表されると、私たちの教室にも、そっと優しい空気が広がった。
「ルゥって、あのときの……小さな竜?」
「うん。今はね、学院の人たちが見守ってくれてて……ルゥ、元気を取り戻してきてるの。ちゃんと、笑ってるみたいで……嬉しいなって思うの」
私が説明すると、前の席のエリーゼさんがぱっと目を輝かせた。
「すごい! あのときの子が、元気に……。また会えるなんて、思ってなかったわ」
「私も……うれしいなあ。あのとき、シオンさんが歌った時のこと、今でも覚えてます」
「うん、私も! きらきらした光と、あたたかい空気と……あの瞬間、みんながひとつになった気がしたの」
昼休みの教室には、柔らかな陽射しが差し込んでいて、窓辺では風に揺れるカーテンが静かに踊っている。
そんな穏やかな空間で交わされる声のひとつひとつが、まるで風鈴のように心地よく響いた。
「ねぇ、今度また見に行ってもいいのかな?」
「みんなでルゥに会いに行きたいですわね」
フィリーナさんが微笑みながら言うと、マリナちゃんが嬉しそうに頷いた。
「ルゥも、きっと喜ぶよ! いっぱい動き回ってるんだよ」
「あの子、ぴいって鳴くのがすごく可愛くて……まるで、音楽の一部みたいだった」
「歌の魔法って、不思議ね。でも……とても優しい」
そんな言葉に、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
“歌”は、私の中にずっとあったもの。だけど、誰かと共有できるとは思っていなかった。
それが今、少しずつ――確かに、広がっている。
「……ありがとう。みんなの気持ち、きっとルゥにも届いてるよ」
自然と、そう言葉がこぼれていた。
優しい笑顔が教室いっぱいに咲いていた。
夏の始まりを告げる風が、窓の隙間から吹き込み、ページのめくれる音と、誰かの笑い声が混ざり合う。
その午後、私たちの教室は、ほんの少しだけ魔法にかけられたようだった。
◇ ◇ ◇
夏の気配が、少しずつ、確かに学院にも届いていた。
風は涼しさの中にほんのりとした熱を孕み、木陰では蝉の声がはじまりかけ、花壇の彩りは春の淡さから、濃く強い色合いへと変わっていく。
そんな季節の移ろいの中、ルゥもまた――確かな成長を遂げていた。
「おはよう、ルゥ。今日はごきげん、かな?」
保護区域に設けられた見晴らしのよい芝生の丘。その上で、ルゥは嬉しそうに小さな翼をばたつかせ、私たちのもとへと駆け寄ってくる。
「ぴいっ!」
軽やかな鳴き声と共に、私の膝にぽんっと飛び乗るルゥ。以前はよろよろとした足取りだったのに、今では跳ねるように動き回れるようになっていた。
「うわっ、びっくりしたぁ……でも、元気になったねぇ、ほんと」
マリナちゃんが楽しそうに笑いながら、そっとルゥの背をなでる。
「鱗も艶が出てきましたわね。あら……翼も、しっかりと筋が戻ってきてますわ」
フィリーナさんが落ち着いた口調でそう言いながら、ルゥの片方の翼にそっと触れる。羽ばたく力はまだ弱いけれど、もう痛みはなさそうだった。
「ルゥ……本当に、がんばったね」
私が小さく囁くと、ルゥは喉を鳴らすように「ぴう」と答え、顔をすり寄せてくる。
どこかくすぐったくて、くすりと笑いがこぼれた。
その瞬間、私はふと、風の向こうに目を向けた。
――青く広がる空。
その高みに、ルゥはいつか、きっと羽ばたいていく。
そのときが、少しずつ、近づいているのかもしれない。
「ねぇ、シオンさん」
マリナちゃんの声が横から響く。
「ルゥって……もしかして、もうすぐ“帰る”のかな?」
私は一瞬だけ言葉に詰まって、それでもゆっくりと頷いた。
「うん……。きっと、そのときが来る気がする。でも……」
言いかけて、私はルゥの姿を見下ろす。あどけない表情のまま、ルゥは空を見上げていた。
「……でも、今はまだ、ここにいたいって思ってる。そういう気がするの」
「うん、わかる気がするよ」
マリナちゃんが微笑み、フィリーナさんもそっと小さく頷いた。
「だから、もう少し……一緒にいましょう。きっとそれが、この子にとっても幸せな時間ですわ」
その言葉に、私は胸の奥があたたかくなるのを感じた。
ルゥはまだ、ここにいる。
私たちの側で、優しい夏を過ごしている。
それは、ほんの短い時間かもしれない。
けれど、きっと――忘れられない記憶になる。
風が吹いた。ルゥの小さな翼が、そっと揺れた。
あの空は、まだ少し遠いけれど――その日が来たら、私は笑って送り出せるように。
今はただ、共にあるこの季節を、心に刻もう。
◇
その日の午後、空は高く澄んでいた。
雲はほとんどなく、陽の光はゆるやかに傾きはじめていて、どこか名残惜しさを含んだ風が、そっと髪を揺らしていく。
私は、学院の保護区域にある小さな石畳の道をひとり歩いていた。
目的地は――あの丘。ルゥと出会ってから、何度も一緒に過ごした、大切な場所。
今日は、ひとりで来た。
ほんの少し、ひとりで向き合いたかったのだ。もうすぐ、きっと旅立ちのときが来る。それを、私自身が受け止めるために。
丘にたどり着くと、そこにはすでにルゥがいた。
夕暮れに照らされて、透き通るような薄青の鱗がきらきらと輝いている。
「……先に来てくれてたの?」
声をかけると、ルゥが小さく「ぴい」と鳴いた。
私はルゥの隣にそっと腰を下ろす。二人きりの、穏やかな時間。
「ねえ、ルゥ」
小さく問いかける。
「君は、空を飛べるようになったら……きっと、森に帰っていくんだよね」
答えはない。
けれど、ルゥの瞳は、まっすぐに空を見上げていた。
遠く、どこまでも続く蒼穹の先を見つめて――何かを確かめるように。
「寂しいよ、やっぱり。……でもね、分かってる」
私は続ける。
「君は、ここにいるべき存在じゃない。ずっと閉じ込めておくなんて、違うと思う。君の居場所は、あの空の向こうにあるんだよね」
それでも、胸がちくりと痛む。
ずっと一緒にいたい。毎朝、あの元気な声を聞きたい。翼をばたつかせて、駆け寄ってくる姿を見ていたい。
でも――だからこそ。
「ありがとう、ルゥ。君と過ごせて、本当に幸せだった。……私は、君に救われたんだよ」
ふと、ルゥが私の膝に頭をこすりつけてきた。
「ぴい……」
優しい声が、夕暮れの風に溶けていく。
私はそっとルゥを抱き寄せる。
まだ小さな体だけれど、その奥には――確かな強さが芽生えていた。
「いつか飛び立つ日が来ても――ずっと、友達だよ。忘れないでね、ルゥ」
そのとき。
空の高みに、ふわりと風が舞った。
ルゥが小さく翼を広げて、まるで応えるようにその風を受ける。
私の隣で、そっと囁くように鳴いた。
「……ぴいっ」
それは、きっと小さな翼が告げた――未来への約束。
私は、そっと微笑んだ。
夕陽が、世界をやさしく包んでいた。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
第46話『陽だまりの記憶、小さな翼と夏の風』では、シオンとルゥの絆、そして“旅立ち”という静かなテーマを描かせていただきました。
春の奇跡から始まった出会いは、やがて初夏の風の中で、やさしい約束へと変わっていきます。
ほんのひとときでも心を通わせた時間は、きっと消えることなく、誰かの胸の中に残り続ける――そんな願いを込めて。
別れは寂しいものだけれど、それは同時に、新しい季節の扉を開く鍵でもあります。
シオンが見つめた空の先に、ルゥの未来があり、そしてきっと、彼女自身の未来もまた、広がっていくのだと思います。
次回からは、夏の章へと物語が進みます。
成長を重ねていくシオンと、少しずつ変わっていく学院での毎日。
また、優しい風が吹くような、そんなお話をお届けできたら嬉しいです。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。
――星空りん




