46 教室に咲いた春
春の朝、王立セレナリア学院の校庭には、やわらかな陽射しが差し込んでいた。
花壇の花々が風に揺れ、小鳥のさえずりがあちこちから聞こえてくる。
そんな空の下、私は中庭を通って、マリナちゃんとフィリーナさんと共に教室へ向かっていた。
「――おはようございます、シオンさん!」
一歩教室に足を踏み入れた瞬間、ぱっと明るい声が響いた。
何人かのクラスメイトが、笑顔でこちらに手を振る。
マリナちゃんが隣で嬉しそうに笑みかけ、フィリーナさんも静かに頷いた。そのふたりの姿が、自然と胸が温かくなった。
教室の中では、数人の生徒がそっと目を見張っていた。
あの“王女殿下”と“侯爵令嬢”が、ごく自然にそこにいる――。
そんな光景も、今ではすっかり、教室の朝に溶け込んでいた。
――あの“フィリーナ様”が、クラスで笑っている。
私の頬が、ふわりと緩んだ。
「おはよう。……今日は、いい天気ですね」
「うん、春って感じで気持ちいい!」
「ええ。朝の光が、すこし優しく感じられるわね」
ほんの数日前までは、“エルステリア侯爵家の令嬢”や、“王女殿下”として、どこか遠巻きに見られていたはずの私たちが――
今はこうして、みんなと同じ空気の中にいる。
(……みんなが、こんなふうに声をかけてくれるなんて)
それだけで、心がふわりとあたたかくなる。
教室の空気も、やさしく包み込むように感じられた。
教室の扉をくぐると、ふわりとした朝の空気が迎えてくれた。窓辺から射し込む光が、机や椅子を柔らかく照らしている。
クラスの中は、なんだか昨日よりも明るく感じられた。
誰かが挨拶する声、ノートを開く音、小さな笑い声。
それらが、ゆっくりと混ざり合いながら、一日のはじまりを告げていた。
「おはよう、シオンさん」
声をかけてくれたのは、前の席のエリーゼだった。
昨日まで少し緊張した面持ちだった彼女が、今朝は自然に笑っていた。
「おはようございます、エリーゼさん」
私も微笑み返す。そのやりとりを聞いて、周囲の子たちも、次々に挨拶の声をかけてくれる。
「シオンさん、おはよう」
「今日もよろしくね!」
声をかけるタイミングを見計らっていたかのように、マリナも手を振りながらやってきた。
「わあ、今日はなんだか教室の空気がぽかぽかしてるね!」
マリナのその言葉に、何人かの生徒が頷く。
「うん。昨日、みんなで話して……よかったと思う」
「シオンさんも、もう“クラスの仲間”って感じだよね!」
そう言ったのは、いつもはあまり前に出てこないシャーロットだった。
小さな声だったけれど、心のこもったその一言に、私の胸がじんわりとあたたかくなる。
「ありがとう……ございます」
照れたように頭を下げた私の声は、ほんの少し震えていた。
◇
第一時限が静かに始まる。やさしい空気に包まれていた教室では、魔物学の基礎が取り上げられた。
先生が教室の前で板書しながら、動物と魔物の違いについて説明する。
「――たとえば、森にすむ“フロリナウサギ”は魔物ではありません。ただし、強い魔力を浴び続けると、変異して“フロリナバウム”という魔物になる可能性があります」
「変異って、どういう風にですか?」
マリナが手を挙げると、先生は笑みを浮かべて続けた。
「よい質問ですね。まず、見た目に異常が出ます。耳が黒ずんだり、目の色が変わることもある。魔力を感知する力が敏感になれば、そうした小さな兆候にも気づけるはずですよ」
先生の言葉に、みんなが一斉にノートを取り始めた。
私も、ぎこちないながら丁寧に文字を綴っていく。
ペンを走らせる音が、静かな教室に心地よく響く。春の風が開けた窓からそっと吹き込み、カーテンを揺らすたび、差し込む光も机の上で揺れていた。
視線を落としたまま、隣の席からマリナがそっとノートをこちらへ傾けてくれる。そこに並んだ綺麗な字が、私の筆の動きを導いてくれるようで――ふと、肩の力が抜けた。
(マリナちゃん……ありがとう)
言葉にはしなかったけれど、胸の奥でそっと感謝を伝える。
先生は黒板に、森の動物と魔物の進化系統図を描きながら言葉を続けた。
「では、もしフロリナウサギが“フロリナバウム”へと変異したとき、その見た目だけでなく、行動にも変化が出ることが分かっています。誰か、例を挙げられますか?」
数人の生徒が首をかしげるなか、そっと手を挙げたのは――
「……草陰に隠れて動かないようになる、でしたっけ」
答えたのは、普段は控えめな印象の男子生徒だった。
「ええ、よく覚えていましたね。魔物は本能的に気配を隠そうとします。これは“捕食される側”ではなく、“捕食する側”の習性です。皆さんが森で見かけたとき、それに気づけるかどうかが分かれ道になりますよ」
先生の言葉に、教室の空気が少し引き締まった。だが、それは決して重苦しいものではなく、知識を得ることへのまっすぐな関心に満ちていた。
その空気の中で、誰かが小さくつぶやく。
「なんか、ちょっと面白いかも……」
それは、授業に真剣に向き合う気配が、教室の隅々に広がっている証だった。
窓の外では、春の光がゆらめく。風に揺れるカーテンが、淡い音を立てた。
私も静かにペンを走らせる。クラスの空気に溶け込むように。
まるで、自分の中に新しい何かが灯り始めるような――
そんな感覚と共に。
やがて鐘の音が鳴り、第一時限が静かに終わりを告げた。
教室にふわりとした解放感が広がるのも束の間、すぐに次の先生が入ってくる。
落ち着いた雰囲気の中等部担当の先生が教壇に立ち、黒板には、矢印で結ばれた六つの属性が、円を描くように配置されていた。矢印の向きは、それぞれの“流れ”と“拮抗”を示しているようだった。
「この“相性”というのが、魔法の発動と制御に大きく影響します。火と風、水と氷、光と闇……それぞれの力は時に反発し、時に支え合う。皆さんも、自分の得意な属性を意識して学ぶようにしてください」
淡々とした口調の中にも、わずかな情熱が込められていた。
黒板に書かれた矢印が、まるで呼応するように関係を示している。
(魔力の流れって……なんだか“歌”と似てる)
シオンは、ふとそんなことを思った。
旋律にも、相性がある。柔らかな音と強い音。高音と低音。重ね合わせることで調和が生まれ、響きが広がる。
「シオンさん、ここ。書き写せた?」
小声で隣からマリナが覗き込む。
彼女のノートはすでに図と補足まで綺麗にまとめられていて、思わず感心してしまう。
「うん、大丈夫……たぶん。でも、後で写させてもらってもいい?」
「もちろんっ。あとで一緒に確認しよ!」
声をひそめながらも、マリナの言葉には柔らかな親しみがあった。
そのやりとりをそっと見ていたフィリーナも、小さく微笑んで頷く。
「後ほど……私のものでもよろしければ、お使いくださいませ。……ふふっ」
「えっ、ありがとう。助かるよ」
三人の間に流れる空気は、確かに以前とは違っていた。
糸のように細く、けれど確かに結ばれていく絆。そんな感覚が、胸の奥で静かに広がっていく。
授業は静かに進んでいく。けれど、シオンの心はどこかあたたかかった。
――ここにいても、いいんだ。
そんな小さな確信が、胸の中に宿り始めていた。
春の光のように、静かに、けれど確かに。
やがて、午前中の授業が終わりを告げる鐘が鳴り響いた。
軽やかな音色が天井に反響し、教室の空気が一変する。席を立つ生徒たちの間には、どこか緩やかで、楽しげな空気が流れはじめていた。
「シオンさん、一緒に食べよっ!」
マリナちゃんが机の上に両手をついて、にこっと笑いかけてくれる。
その声に応えるように、フィリーナさんも静かに立ち上がった。
「よろしければ、今日もご一緒させてくださいね」
「うん。ぜひ、三人で」
返す言葉に、自然と笑みがこぼれる。気づけば、もう“緊張”というものはどこかへ消えていた。
昼食は、学院内の食堂で用意されたものをそれぞれ受け取り、空いた席に並んで座る形だ。
木目の長机が並ぶ広々とした食堂には、あちこちに明るい声が飛び交っている。
テラスに面した窓から差し込む光は、春らしい柔らかさを含んでいて、どこか心をほぐしてくれる。
「今日のスープ、いい香り……」
「メインは、チキンのハーブ焼きのようですわね。……まあ、焼きたてかもしれませんわ」
トレイの上に並んだ料理を見て、マリナちゃんとフィリーナさんが小さく弾んだ声をあげる。思わず、こちらまで気持ちが明るくなる。
三人並んで腰を下ろし、食事を前にして手を合わせる。
「「「いただきます」」」
その声が重なった瞬間、どこかほっとした空気が生まれる。
(こうして並んでごはんを食べてるなんて……なんだか、夢みたい)
小さな感動を胸に、そっとスプーンを取る。
温かいスープの香りが鼻をくすぐり、口に含めば、やさしい味が広がった。
こんな風に誰かと笑い合いながら過ごす昼休みが、自分にも訪れるなんて――
(本当に、ここに来てよかった)
あたたかな陽射しの中で過ごす、静かなひととき。
誰かと並んで食事をして、他愛ない言葉を交わして、微笑み合える――そんな時間が、こんなにも心を満たしてくれるなんて、思ってもみなかった。
気づけば、空のトレイにはごちそうさまの余韻だけが残っていた。
(午後も……がんばろう)
そう心の中で小さくつぶやいて、私はそっと立ち上がる。
春の光が差し込み、三人の笑顔をやわらかく照らしていた。
今回は、学院での一日を丁寧に描かせていただきました。
シオンがクラスの輪の中に少しずつ溶け込んでいく様子――
挨拶やノートの貸し借り、お昼ご飯を並んで食べる時間……
そうした小さな出来事が、彼女の心をやさしく変えていくきっかけになります。
派手な展開はありませんが、だからこそ“日常のあたたかさ”を
感じていただけたなら嬉しいです。
次回は、さらにクラスの絆が深まるきっかけが……?
どうぞお楽しみに!




