45 ひとつの歌、ひとつの絆
学院の授業がすべて終わり、夕暮れが校舎をやさしく染め始めたころ。
私は、ひとり廊下を歩いていた。いつもはマリナちゃんやフィリーナさんと一緒に帰る時間――でも今日は、違う。
(教会との……面談)
朝に受け取った手紙。金の封蝋と、端正な筆跡。それが意味するものが、いかに重いものか、私は十分に理解していた。
王宮と侯爵家の監視下での“正式な面談”。
それは、もはやただの「挨拶」や「確認」では済まされない段階に入ったということ。
「こちらでございます、シオン様」
学院付きの案内係の方が、私の前に立ち、重厚な扉を指し示す。
私は、静かに頷いた。
(大丈夫。お母様も、フィリーナさんも……皆が、背中を押してくれた)
それでも、扉の向こうに何が待っているのか分からなくて――手のひらに、じんわりと汗が滲む。
ゆっくりと、息を吸う。
(行こう。私の“歌”が、誰かを癒やすものなら――その意味と向き合わなきゃ)
覚悟を胸に、私は一歩、扉の向こうへと足を踏み出した。
面談は、王族との連携下にある“特別応接室”で行われることになった。セレナリア教会の要請による学院内での面談。それも、王宮と侯爵家の監視下での。
私が案内されたのは、学院の奥にある重厚な扉の前だった。
「こちらでございます、シオン様」
学院付きの案内係が一礼し、静かに扉を開ける。
部屋の中には、すでに数名の人物が待っていた。
一人は、淡い灰色の法衣を身にまとった女性。凛とした佇まいに、どこか神秘的な気配を感じる。
「……初めまして、聖庁直属のエリア・クロイツと申します」
名乗った彼女は、シオンを“聖女”とは呼ばず、ただ名前で接した。
「今日は、あなたの“お力”について、お話を聞きたくて参りました」
私はゆっくりと頷いた。背後では、学院側から同席している教師や、エルステリア侯爵家の側近が控えている。
アリエッタからは、「あくまで形式上の面談」と言われていたが、空気はそれよりずっと緊張感を帯びていた。
「“癒しの歌”という噂が、すでに街のあちこちに広まり始めています。……教会としても、ただ見過ごすわけにはいきません」
「でも……私、自分が何をしてるのか、本当に全部は分かってなくて」
私は、正直に答えた。
「ただ、その子を助けたくて……それだけで、歌ったんです。いつもみたいに、歌いたいって、思っただけで……」
エリアは少しだけ目を伏せて、何かを思案するような仕草を見せた。
「あなたの言葉、偽りには聞こえません。けれど……その“歌”が持つ力が、本当に神の意思でないとしたら――」
その言葉に、私の心臓が一瞬だけ跳ねる。
「……異端とみなされるかもしれません」
静かに、けれど確かに告げられた言葉。
「私は、まだそう決めつけてはいません。ただ、教会の中には……あなたの力を“脅威”と見なす者もいるでしょう」
「……でも、それでも、私は……」
私はゆっくりと顔を上げる。
「歌いたいんです。誰かの笑顔が見えるなら、苦しみが和らぐなら、私は……“歌うこと”をやめたくない」
その声には、確かな決意がこもっていた。
エリアの瞳が、一瞬だけ揺れた気がした。
「――よく分かりました。今日のところは、これで」
そう言って、彼女は静かに立ち上がる。
「あなたの歌に、光が宿るのか、それとも……別の何かか。いずれにせよ、その真実はやがて明らかになるでしょう」
最後に、彼女は私に一礼し、部屋をあとにした。
その背中を見送りながら、私は胸の奥に、小さな覚悟の火を灯していた。
◇ ◇ ◇
その夜。
王都の一角、厳かな造りの石造りの建物――セレナリア教会王都本庁の奥深く。
燭台の炎が揺らめく回廊を、ひとりの人物が足早に進んでいた。
黒の法衣に身を包み、顔を覆うフードを目深にかぶったその姿は、信徒の中でも限られた者しか立ち入ることのできない“禁域”へと向かっていた。
扉の前で立ち止まると、指先で印を描く。
重々しい石扉が、低い音を立ててゆっくりと開いた。
その中には――数名の人物が、すでに揃っていた。
「……報告は?」
中央に座る、金糸を織り込んだ法衣を纏う老司祭が問う。
「“癒しの歌”の件、噂以上の“実例”が確認されました。対象は、王都学院に通う少女――名は、シオン・エルステリア」
「エルステリア……侯爵家の娘か」
「血筋は明白。だが、問題は“その力”だな」
「歌による癒し……六属性への適応性もありうると見られます」
「ただの光の祝福ではない……と?」
「はい。聖女の力と断定するには構造が異なります。“呪文も祈りもない”。ただ“歌う”だけで、魔力が世界に作用している」
「ならば……それは“神の意思”に依らぬ力」
「すなわち――異端、ということか」
場に、重い沈黙が落ちる。
だが、あるひとりの女が口を開いた。
「……このまま“彼女”を放置すれば、いずれ教会の秩序に波紋が生じます」
その声は冷たく、感情を一切交えない響きを持っていた。
「我らが主の名の下に。真に祝福された者か、それとも異端か――」
「――しかと見極めねばならぬ」
全員が頷き、会議は静かに幕を閉じる。
その場に漂う空気は、まるで処刑を前提とした“審問”の準備のようで――どこか、禍々しいものを含んでいた。
⸻
◇ ◇ ◇
数日後。
学院での生活に戻った私は、表面上は普段どおりに過ごしていた。
マリナちゃんと笑い合い、フィリーナさんと共に課題に取り組む。
けれど、彼女自身は気づいていた。
廊下で、ふと視線を感じることがある。
門の前に、見慣れない馬車が停まっている。
そして――
下校の道すがら、通りの向こうに、黒衣の人影が立っているのを見た。
(……また、あのときと同じ)
石畳の影に潜むように立ち尽くすその姿は、まるで“何か”を監視するようで。
振り返ったときにはもう消えている。
けれど、確かにそこに“誰かがいた”という痕跡だけが、心の奥に残る。
夜、屋敷に戻ってからも、不安は拭えなかった。
「……シオン?」
アリエッタお母様が、部屋の扉をそっと開けて、私のもとに近づいてくる。
「ごめんなさい、まだ眠れなくて……」
「教会との面談、よく頑張ったわね」
アリエッタはシオンの肩をそっと抱き寄せた。
「だけど……」
その声音に、母としての本心がにじんでいた。
「今後、彼らがどんな動きを見せるか……わたくしたちも気を抜けないわ」
その言葉に、私は頷く。
「でも……私は、大丈夫。誰かを癒やせるなら、歌い続けたい」
「その強さが、きっとあなたを守る。けれど、それだけじゃ足りないかもしれない。だから……わたくし達も、あなたを守るわ」
母の腕の中で、シオンはようやく、小さく微笑むことができた。
月はやがて雲に隠れ、夜がゆっくりと更けていった。
シオンは、母の腕の中で少しだけ涙を流したあと、やがて深い眠りに落ちていった。
◇ ◇ ◇
そして、次の日の朝。
鳥たちのさえずりと共に目を覚ました私は、淡い春色の光が差し込む寝室で、大きく伸びをした。まだ少し胸の奥はざわついていたけれど、それでも昨日よりは確かに前を向けている気がした。
学院へ行く為の馬車が、いつもどおり屋敷の前に止まっていた。
玄関先まで見送りに来たお母様は、私の手をそっと握って微笑む。
「行ってらっしゃい、シオン」
「……行ってきます、お母様」
馬車に揺られながら、私は静かに窓の外の景色を眺めた。石畳の道を進み、やがて学院の門が見えてくる。
(大丈夫。今日は、ちゃんと笑えるように)
そんな想いを胸に、学院の敷地に足を踏み入れる。
◇ ◇ ◇
午前の授業が終わり、昼休みの鐘が鳴る。
教室には、いつも通りの笑い声が響いていた……はずだった。
けれど――どこか、違っていた。
誰かの視線が、ふとした瞬間に私へと集まる。
すぐに逸らされるその目の奥には、どこか探るような光があった。
(……やっぱり、気づいてる人、増えてる)
それでも、昨日の母の言葉が胸に残っていた。
――ひとりで抱え込まないで。
それを信じて、私はゆっくりと席を立ち、窓辺へ歩み出た。
その時だった。
ひとりの男子生徒が、静かに立ち上がる――
「……シオン様」
呼ばれた瞬間、私は反射的に顔をあげた。教室の数人の生徒たちが、こちらを向いている。
「その、街での出来事……ぼくたち、見てたわけじゃないけど」
「でも、誰かを助けたってこと、ちゃんと伝わってます。だから……変なこと言う人がいたら、俺たちが止めますから!」
思いがけない言葉に、私は息をのんだ。
続けざまに、女子生徒も口を開く。
「そうです。私たち、シオン様のこと信じてます」
「……味方ですから」
まっすぐな瞳。照れくさそうな表情。それでも、彼らの声には嘘がなかった。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
私は静かに立ち上がり、胸に手をあてて深く頭を下げた。
「でも――ひとつ、お願いがあります」
私が顔を上げると、皆の視線が集まる。
「“様”は……できれば、つけないでほしいんです」
「……えっ?」
「私は、みんなと同じ学院の生徒です。確かにエルステリア侯爵家の娘ではあるけど、でも、それだけじゃなくて……皆と、友達でいたいんです」
教室が静まり返った。その沈黙の中、マリナちゃんがそっと私の隣に来て、ふわりと笑った。
「うん、それがシオンちゃんらしいよね」
「えへへ……ありがと、マリナちゃん」
次に、フィリーナさんが一歩前に出る。
「わたくしは、シオンさんと友達になれて、本当によかったと思っています。ですから……皆さんが対等な“友達”として接してくださるのなら、それほど嬉しいことはありません」
いつもの凛とした声なのに、その響きはどこかやさしく、柔らかかった。
やがて、誰かがぽつりとつぶやく。
「……じゃあ、その……シオンさん、でいいかな?」
「わ、私も……! シオンさんって、呼んでもいい?」
「うん、嬉しいです!」
教室にふわりと笑い声が広がる。
その輪の中に、確かに“クラスメイト”としての絆が生まれていた。
ほんの少し前まで、どこか遠くに感じていた距離。けれど今、その距離は確かに近づいている。
私は、小さく息を吸って――ふんわりと微笑んだ。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
今回は、教会との正式な面談、そして“シオン”という名前に込められた想いと、クラスのみんなとの距離がぐっと近づく、そんな一日を描きました。
シオンにとって、歌は誰かを癒やすための“当たり前”の行為でしかなかったけれど、それが“特別”とされる世界で生きるということは、時に疑いの目や試練とも向き合うことでもあります。
それでも彼女は、「歌うことをやめたくない」と、まっすぐに言える強さを持っていました。
そして、その想いは――少しずつ、仲間たちの心にも届いていきます。
“様”ではなく、“さん”と呼び合える関係。
その小さな一歩が、きっと彼女たちの未来を変えていくと信じています。
次回も、どうぞよろしくお願いいたします。




