44 囁かれる光、届かぬ真実
あの日、あの広場で起きた“小さな奇跡”は――静かに、けれど確かに広がっていた。
街での出来事から一夜明けて、私はいつも通りの生活を送っているはずだった。教室での授業も、中庭でのおしゃべりも、以前と何も変わらないはずなのに――なぜだろう。誰かの“気配”が、背中をかすめる。
(……まただ)
教室の隅。何気ない雑談の合間に、ふと目が合う――けれど、その瞳はすぐに泳ぎ、逸れていく。でも、その直前に――“探るような目線”と、確かに見つめ合っていた。
私が“あの時”に歌ったこと。それが、どれだけの意味を持ってしまったのか。
(あれは……ただ、助けたかっただけで)
目の前で苦しんでいたあの子。震える手。母親の涙。
そして、私の掌に残った、確かなぬくもり。
あれは、誰かの命に届いた“歌”だった。それだけのはずなのに――
「……シオンちゃん?」
机の隣から、マリナちゃんの声がそっとかけられる。
「ごめん、ぼーっとしてた……」
私はそっと微笑んでみせる。けれど、その笑顔がきちんと届いていたかは、自分でもわからなかった。
「……最近、ちょっと空気が変わってきてる気がするよね」
マリナちゃんの言葉に、私はゆっくり頷いた。
「うん。なんとなく、だけど……気づいてる人、増えてきたのかなって」
「でもね、あれは誰が見たって“奇跡”だったよ」
そう言って、マリナちゃんは真っ直ぐな目で私を見る。
「私、あの時思ったの。“ああ、シオンちゃんって、やっぱりすごいな”って」
「マリナちゃん……」
私は少しだけ、胸の奥があたたかくなるのを感じた。
けれどそのあたたかさの裏側で、別の感情がそっと芽を出していた。
(“すごい”……それでいいのかな)
“歌う”ということ。
“癒す”ということ。
それが、どこか遠くへ、自分の手の届かないところへ行ってしまうような――そんな怖さが、心の片隅にあった。
「……シオンさん」
後ろから声をかけられ、私は振り返る。
そこに立っていたのは、フィリーナさんだった。
「少しだけ、お時間いただけるかしら?」
瞳の奥に、静かな決意がにじんでいた。
「はい。もちろん……」
フィリーナさんの言葉に、私は小さく頷いた。
教室の片隅。まだ誰もいない朝の中庭へと、二人でそっと足を運ぶ。
春の風が、そよそよと髪をなでる。花壇の花がそっと揺れた。
「昨日の……街でのことですわね」
フィリーナさんが、柔らかく切り出した。
その声には責めるような色はなかった。ただ、私のことを思いやるような、優しい気遣いがにじんでいた。
「わたくし、あの時……シオンさんの“歌”が、まるで魔法のように、子どもを癒していくのを見て……本当に、驚きました。でも、きっと……それ以上に」
「……いちばん、驚いているのは……たぶん、私です」
思わず口をついて出た言葉は、少し震えていた。
「本当は、助けようと思っただけなんです。目の前の子が苦しそうで……気づいたら、体が動いてて……歌ってて」
「……でも、それが“癒し”になった。確かに、ですわね」
私は頷いた。
「わからないんです。どうして“歌”で癒せたのか。それとも、私だけが、特別……?」
自分の声が、風に溶けていくようだった。
「……父――陛下から、お聞きしておりました。シオンさんには“特別な力”があると」
「……知ってたんですね」
「ええ。でも……昨日それを目の当たりにして、わたくし、この力は……とても優しいものだと、心から思いましたわ」
フィリーナさんはそっと微笑んだ。
「ありがとうございます……」
私は小さく息を吐いた。胸の奥のざわつきが、少しだけ、和らいだ気がした。
けれど――
「だからこそ、シオンさん。これからは、もっと“気をつけなければ”いけないと思うの」
「……気をつける?」
「“奇跡”は、人を惹きつけます。でも同時に――“恐れ”も、呼ぶのですわ」
フィリーナさんの言葉に、私は、昨日の街角の空気を思い出した。
賞賛と、畏怖。そして、何かを測るような視線。
(……そうだ。私は、何かを知られてしまった)
「……これから、何が起きると思いますか?」
私の問いに、フィリーナさんはわずかに目を伏せて――静かに、言った。
「――やがて、教会が動くはずですわ」
その言葉は、風に乗って、確かに私の胸に届いた。
世界が、少しずつ動き出している――そんな気がして、私はそっと拳を握りしめた。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
王都の一角に佇む、エルステリア侯爵家の屋敷。私は自室の窓辺に座り、揺れるカーテン越しに夜空を見上げていた。
昼間の会話が、まだ胸の奥に残っている。フィリーナさんのまっすぐな眼差しと、「いずれ教会が動く」という言葉。
(……こわい)
自分がなにか大きな渦の中にいるような気がして、心がざわつく。
けれど、そのざわつきを打ち消すように――
「コン……」と小さなノック音が響いた。
扉が静かに開いて、お母様がゆっくりと入ってくる。
「シオン、まだ起きているの?」
「……うん。少し、眠れなくて」
「そう……よろしければ、少しだけお話ししても?」
私は頷いて、お母様の隣に席を移す。ふわりとしたラベンダーの香りが、ほっと胸に染みこんでくるようだった。
「今日、学院から帰ってきたあと……少し気になる話を耳にしたの」
「……気になる話?」
お母様は静かに頷いた。
「王都の街角で、“歌で子どもを癒した少女”がいたって。光のような魔力が見えたとも、“聖女の再来”だとも……」
私は、はっと息をのんだ。
「……噂になって、るんだ」
その一言が、ぽつりと口から漏れた。
お母様は、私の手をそっと包むように握ってくれた。
「教えてくれないかしら? そのとき、何があったのか」
私はゆっくりと、でも確かに、あの日のことを話し始めた。苦しむ子ども、泣きそうな母親、どうしても助けたくて、歌ったこと――。
「……気がついたら、あの子が、少しずつ楽になっていって。魔法っていうより、なんだろう……それは、魔法じゃなくて……たしかに“歌”だったと思うの」
話し終えたあと、お母様はしばらく沈黙したまま、私の手を包み込んでいた。
「……あなたの力は、特別なの。けれど、それを恐れる人も、利用しようとする人もいるわ」
「……うん、わかってる。でも、私……あの子の顔を見たら、放っておけなかったの」
「それでいいのよ」
お母様は、やさしく微笑んだ。
「大切なのは、自分の心に正直であること。あなたが信じるままに歩めば、私たちがちゃんと支えるわ」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「ありがとう……お母様」
「シオン……あなたがあなたでいてくれる限り、私は何があっても、あなたの味方よ」
夜の帳が降りる中、私はようやく深く息を吐くことができた。
◇ ◇ ◇
その翌朝――
いつもどおりに学院へ向かおうとした私に、家政のレーネさんが、一通の封筒を差し出した。
「シオン様、今朝方、王宮経由でこちらが届けられました。差出人は――“セレナリア教会”です」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。
真っ白な封筒。金の封蝋には、神殿の紋章。
(教会……)
ついに、来たのだ。
広場での“歌”が、どこかで誰かの耳に届いて――そして、動いた。
手紙を受け取った私の指先が、わずかに震えていた。
封筒を握る手に、少しだけ力が入っていた。
「……ありがとうございます、レーネさん」
「ご無理なさらず。何かございましたら、すぐに私かアリエッタ様へお伝えください」
レーネさんは深く一礼して、静かにその場を下がっていく。
私は封を切る前に、もう一度だけ深く息を吸った。
――落ち着いて。
震える指先をなだめるように、ゆっくりと封を開く。
中には、端正な筆跡で書かれた招待状が一通。
『セレナリア教会王都本庁より、貴女に面談の機会を願う旨、正式にお伝え申し上げます。詳細は王立セレナリア学院を通じて調整のうえ、後日正式な場を設けさせていただきます』
丁寧な言葉。けれど、その文面からは明らかに――「ただの挨拶」ではない意図がにじみ出ていた。
(やっぱり、あの“歌”が……)
ただ誰かを救いたかっただけ。だけど、それはこの世界にとって“特別”すぎることだった。
「……怖がってる暇なんて、ないよね」
私は、そっと手紙を畳んで、胸にしまった。
自分が選んだ“歌”の力。その責任から、もう逃げられない。
差し込む朝の光が、封蝋をそっと照らしていた。
それは、“歌”が描く新たな道の、始まりのしるし。
奇跡の先にある未来へ――私は、歩き出す。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、街角での“歌”が巻き起こした波紋と、その余波を描きました。
小さな奇跡が、誰かの心に届いたこと。
けれどそれは、同時に静かに――でも確かに、“世界”を動かし始めてしまったことでもあります。
戸惑いながらも、自分の力と向き合おうとするシオン。
そっと手を差し伸べてくれるマリナやフィリーナ、そして家族たち。
そのぬくもりを胸に、彼女は一歩ずつ歩みを進めていきます。
次回はいよいよ、“教会との正式な面談”が描かれる予定です。
シオンにとって、それが何を意味するのか――どうか見守っていただけたら嬉しいです。
それでは、また次のお話でお会いしましょう!




