番外編 放課後のひだまりと、宝石のひとみ
5000PV突破記念の番外編になります、これまで読んで頂いた皆様、本当にありがとうございます。
放課後の学院の裏庭。
いつもと変わらないはずの帰り道で、私たちは一匹の猫に出会いました。
柔らかな毛並み、宝石のような瞳――そして、どこか不思議な雰囲気をまとったその猫は、まるで何かを伝えたそうに私たちを見つめていて。
それは、ほんの一瞬の出来事だったのかもしれません。
けれど、私たち三人の心に、確かに残る“出会い”でした。
心にふれた言葉。
思い出した気持ち。
そして、名前を呼んでもらえることの、あたたかさ。
これは、“ほんとうの自分”に出会うための、小さな奇跡のお話です。
――それでは、どうぞ。
春の午後、学院の裏庭にある静かな広場で、私たちは肩を並べて座っていた。
優しい陽光が木々の隙間から降り注ぎ、芝生には柔らかな影が揺れている。遠くで鳥がさえずり、風が葉をそっと揺らす音が、まるで誰かの小さなささやきのように聞こえた。
「この時間、好きだわ。授業が終わって、空が少しずつ柔らかくなっていく感じ」
フィリーナさんがそう言って微笑む。落ち着いた声は、どこか安心する響きを持っている。
「うん。なんかね、風も優しくなる気がするの。ほら、ちょっとだけ――お昼の続き、してるみたいな」
マリナちゃんの声が、春の空気に溶けていく。
「お昼の続き……ですか?」
私は思わず笑ってしまった。
「そうそう。おしゃべりの、ね」
そんな何気ないやりとりが、どうしようもなく心地よかった。学院での暮らしにも慣れてきて、三人で過ごすこの放課後のひとときが、いつの間にか私の宝物になっていた。
……そのとき。
芝の向こうに、ふと白い影がよぎった。
「……あれ?」
私が思わずつぶやくと、マリナちゃんも目を細める。
「猫……かな?」
「見かけないわね。学院で飼われている子ではなさそう」
フィリーナさんが慎重に周囲を見渡した。
木々の間、陽の光が揺れる先に、その“猫”はいた。
白銀の毛並みは光を帯び、しっぽの先がほんのりと淡く輝いている。そしてなにより、私たちを見つめるその瞳は――
まるで、深い水底に沈んだ宝石のように、静かで澄んでいた。
その瞳に、なぜだか胸の奥がきゅっとなった。
猫は一度も鳴くことなく、ゆっくりと背を向け、木々の奥へと歩き出す。
「……追いかけてみましょうか?」
フィリーナさんの一言で、私たちは自然と立ち上がっていた。
猫のあとを追って、私たちは芝の広場を抜けた。
木々の隙間から差し込む光は、春の午後をやさしく照らしていたけれど、その奥に続く小道は、どこかひっそりとしていて――まるで、生徒たちに見つからないように、静かに息を潜めているようだった。
踏み入れた先の細道には、春の草がやわらかく茂り、足元でさらさらと擦れる音がする。時折、枝が肩や髪にふれて、軽く跳ね返る。
「ここ……通れるんだね。知らなかった」
マリナちゃんが、声をひそめてつぶやく。
「学院の地図には載っていませんわね。けれど、道は確かに整っています」
フィリーナさんは注意深く辺りを見渡しながらも、歩みを止めなかった。
その先を、白い猫が軽やかに進んでいく。
ときおり、ふり返るようにしてこちらを見つめてくるその瞳が、不思議とやさしく感じられる。
まるで「こっちへおいで」と言ってくれているみたいだった。
恐怖や不安は、なかった。
むしろ、心のどこかが温かくなっていくような、そんな感覚。
(この道……どこかで……)
言葉にできない、懐かしさのようなものが胸に広がる。
そして――
ふと、風が止んだ。
空気が静まり返る。
目の前に、光の粒がひとつ、ふわりと浮かび上がった。
「……なに、これ……」
マリナちゃんが、息をのむ。
粒は、ふわふわと舞いながら、やがてゆっくりと大きくなっていく。
まるで空間そのものが滲んでいくように。
やがてそこには、淡い光をまとった“扉”のようなものが浮かび上がっていた。
輪郭はぼやけているのに、確かに“そこにある”と分かる何か。
そして、その前に――猫が座っていた。
真っ直ぐに、私たちを見つめている。
「……見えますか?」
私が問いかけると、フィリーナさんとマリナちゃんはそろって小さく頷いた。
「うん。あの光……なんだか、私たちを呼んでる気がする」
「これは、偶然できたものではありませんわ。明確な意思を感じます」
猫の目が細められる。まるで「もう迷わないで」と伝えるように。
私はそっと一歩を踏み出した。
扉の光が、やわらかく揺れる。
そして――私たちは、導かれるようにその中へと足を踏み入れた。
光が、全身を包む。
足元の感覚が消え、風の音が遠のいていく。
まるで、夢の奥へと沈み込んでいくような――そんな、不思議な感覚だった。
――気がつくと、私たちは知らない場所に立っていた。
まるで、絵本の中の世界に紛れ込んだような、非現実的な光景だった。
空は、どこまでも澄み渡っていた。けれど、その青は幾重にも重なっていて、まるで透明な層が空に浮かんでいるようだった。
上空には淡い光が滲み、雲は形を保たないまま、ゆるやかに流れていく。
風は――吹いていなかった。
けれど、木々の葉は静かに揺れていた。
風の気配がないのに、空気が動いている。
そして、そのすべての風景が、どこか音を失っていた。
音のない世界。
花のようなものが、逆さに落ちるように空へと舞っていた。
白い綿毛のような、それでいてほのかに光を放つ小さな花びら。
それが、音もなく、空に昇っていく。
「ここ……どこ……?」
マリナちゃんが、私の袖をそっとつかむ。かすかに指が震えていた。
「夢……ではなさそうですわね」
フィリーナさんは冷静だったけれど、その目には、言いようのない違和感と緊張が浮かんでいた。
私も、答えられなかった。
ただ、立ち尽くすしかなかった。
広がる草原、歪んだ空、音のない風景――
でも、不思議と、怖くはなかった。
どこかで、知っている気がした。
この空気、この光、この静けさ。
(……ここを、私は――)
思い出せない。
けれど、心のどこかが微かにうずいた。
フィリーナさんが、ぽつりと呟いた。
「……まるで、心の奥にしまっていた記憶の中にいるような……そんな感覚ですわ」
私はその言葉に、強く共鳴するものを感じた。
誰かにそう言われたのではない。
私自身の中から湧き上がってくる、得体の知れない既視感。
何も思い出せないのに――なぜか、懐かしい。
「進んでみましょう」
私はそう言って、静かに一歩、足を踏み出した。
音のない草原を、私たちはゆっくりと歩いていた。
足元には、淡く色づいた草花が揺れていたけれど、それはまるで“記憶の中の色”のように輪郭が曖昧で、今にも風に溶けてしまいそうだった。
空は透き通るほど青く、なのにどこか、深く、遠い。
世界のすべてが、どこか現実から切り離されているようで――それでも、不思議と恐怖はなかった。
私たちは無言のまま歩き続けていた。
言葉にするには、あまりにも多くの違和感が、空気の中に溶けていたから。
「……ねえ、シオンちゃん」
ふと、マリナちゃんが私の方を見た。
「この世界……魔法って、使えるのかな」
私は立ち止まり、そっと右手を胸元に当てる。
呼吸を整え、魔力を静かに集めようとする――けれど。
……何も、起きなかった。
力の流れが感じられない。
私の中には、確かに“ある”はずの魔力が、まるで外の世界と断絶されているかのように、反応を見せなかった。
光も、風も、動かない。
何度呼びかけても、私の魔力は応えようとしなかった。
「……?」
私はそっと眉をひそめる。
そして、もう一つ、確かめてみたくなった。
この場所で――“歌”は、届くのだろうか。
私は、静かに唇を開く。
心を込めて、短い旋律を紡ぐ。
――風よ、光よ、願いを運んでください。
その声は、確かにこの胸の内から生まれた。
けれど――
歌は、空に響かなかった。
風にも乗らなかった。
ただ、そこにあったはずの“旋律”は、ふわりと浮かび、何にも触れることなく、そのまま音もなく消えていった。
何かに吸い込まれたように。
……歌が、届かない。
私の“想い”が、この空に――どこにも触れていない。
その事実に、私は深く動揺していた。
「……なんだか、ここには“流れ”がないみたい」
私は、無意識のうちにそう口にしていた。
「魔力の流れも、空気の通り道も、何もかもが閉じている。……“想い”すら、届かない」
マリナちゃんもフィリーナさんも、何も言わずに頷いた。
ただ、その沈黙の中に、同じ困惑と不安が宿っていた。
言葉ではなく、感じ取ったもの。
この世界は、何かを失っている。
――そんな気がした。
どこかに“扉”があるのだと、私たちは信じていた。
この世界に音が戻るときが来るのなら、その先に何かがあるはずだと――そんな確信のようなものが、足元を支えていた。
やがて、私たちの前に、森が姿を現した。
けれどそれは、見慣れた学院の林とは、まるで異なっていた。
幹はまっすぐではなく、白くなめらかな線を描き、まるで生き物のようにゆるやかに曲がっている。
枝先からは、宝石のように透き通った葉が垂れ下がり、かすかな光を反射していた。
風がないのに、葉は微かに揺れている。
私たちは無言のまま、その森の中へと足を踏み入れた。
言葉を交わさなくても、みんなが感じていた。
――この森は、心を映す鏡だ。
静かで、やさしくて、けれど逃れられない気配。
歩き続けていくうちに、やがて道が三つに分かれた。
それは、地図に描かれたような交差ではなかった。
もっと曖昧で、けれど確かに“選ばせる”ように伸びていた三つの道。
私たちは、その場に立ち止まる。
「……別れ道?」
マリナちゃんが小さくつぶやく。
フィリーナさんが、静かに前へ出る。
「いえ、これは――」
その目が、まっすぐに一つの道を見つめていた。
「……おそらく、私たちそれぞれの“中”に続いているものですわ」
私は、はっと息をのむ。
理由もなく、意味もなく。
ただ“そうだ”と、心の奥が応えていた。
誰かに言われたわけでも、教わったわけでもない。
けれど、この道は、自分の“影”と向き合うためのものだと――わかってしまった。
「……行ってみよう」
私は一歩、前に出る。
マリナちゃんも、フィリーナさんも、それぞれの道を見つめて、静かに頷いた。
三人は、同時に歩き出した。
別々の場所へ。
けれど、きっと、心の深いところで――つながっていた。
私が選んだのは、白く光る木々の間をまっすぐに続く、小さな小径だった。
一歩、また一歩と進むうちに、森がふと開けていく。
目の前に広がっていたのは、鏡のように静まり返った水辺。
風はなく、水面はぴくりとも動かない。
音もなく、ただそこに私の姿だけが、くっきりと映っていた。
――私。でも、違う。
水面の中にいたのは、私と同じ顔をした少女だった。
同じ髪、同じ瞳のはずなのに――その目には、色がなかった。
感情も、希望も、温もりさえも感じられない。
まるで、空虚な何かが、私の姿を借りてそこに立っているようだった。
少女は、口を開いた。
「……どうして、“歌う”の?」
その声は、私のものだった。
けれど、どこか遠く、ひどく冷たく感じた。
「癒やしたいから? 認められたいから? 誰かのためって、ほんとうに言えるの?」
私は、言葉を探した。
何かを伝えたいのに、口を開いても、すぐに声にはならなかった。
「“歌”がなければ、あなたには何も残らないの?
想いだけじゃ、何も届かないの?」
問いかけは鋭く、逃げ道のないほど真っすぐだった。
その目が、私の心の奥を見透かすようにじっと見つめてくる。
けれど――私は、逃げなかった。
「……私は、“歌”で想いを届けたいの」
胸にそっと手を当てる。
形にならない想いが、波のように静かに押し寄せてくる。
「言葉だけじゃ、伝えきれないときがある。
涙が止まらないとき、心が苦しいとき……それでも誰かの隣にいたくて、そばで、少しでも力になりたくて――」
声が震える。けれど、心の奥から湧きあがるように、言葉が流れていく。
「……だから私は、“歌”うの」
その言葉が、水面にふわりと落ちた。
波紋ひとつ生まれないまま、静かに、でも確かに――届いた。
次の瞬間、鏡の中の少女が、ふっと微笑んだ。
色を失っていた瞳に、ほんのりと光が戻っていた。
その笑みは、どこまでも優しく、あたたかかった。
そして少女は、何も言わずに静かに――水の中へと、消えていった。
◇ ◇ ◇
マリナちゃんの前に現れたのは、小さな女の子だった。
制服ではなく、ふわりとした白いワンピース姿。
風に揺れる裾も気にすることなく、彼女は草の上で小さく体を丸めていた。
肩がかすかに震えている。
抱えた膝に顔をうずめ、声だけが、かすかに漏れた。
「……迷惑かけたくないの。怖いの。話しても、うまく言えないし……笑われたら、いやだよ……」
その言葉に、マリナちゃんは一歩だけ踏み出した。
そして、そっと膝をつき、ゆっくりと同じ高さまで身をかがめる。
目の前の少女は、かつての“自分”だった。
誰にも届かないと思っていた気持ち。
言葉にできず、飲み込んで、ただただ笑っていた頃の――。
「……わかるよ」
その声は、優しかった。
だけど、どこか痛みを伴っていた。
「私も、ずっとそうだった」
震える指をそっと伸ばす。
恐れと、祈りと、願いを込めて――。
「緊張しちゃって、言葉が出なくなるの。
うまく伝えようとすればするほど、胸がぎゅってなって……」
彼女の声が震える。
でも、それは迷いではなかった。
「変なふうに思われたらどうしようって、怖くて……
だから何も言えなくて……ずっと、ひとりだったの」
そのとき。
小さな手が、そっとマリナちゃんの指先に触れた。
まるで、ためらいがちに灯る、微かな勇気のように。
マリナちゃんは、ふっと微笑む。
胸の奥で、あたたかな何かがほどけていく。
「でも、大丈夫になってきたの」
その言葉には、確かな強さがあった。
小さな手を、そっと包み込むように握り返す。
「ほんの少しずつだけど……
私には、大切な友達ができたから」
ふと、目の前の少女が顔を上げる。
そこにいたのは――
ほんの少し幼い、自分自身。
かつての“私”は、もう泣いていなかった。
その瞳に、ほのかな光が差していた。
◇ ◇ ◇
フィリーナさんの前に立ちはだかっていたのは、まるで空気を閉ざすかのような、鏡の壁だった。
その表面には、凛とした佇まいの少女が映っている。
背筋はまっすぐ、髪は一糸乱れず整えられ、控えめな微笑みを浮かべたその姿は、まさに“完璧”だった。
それは、誰もが称賛し、誰もが模範とする理想像。
けれど、フィリーナさんは、その姿を見つめながら、ふっと小さく息を吐いた。
「……これは、“私”ではありませんのね」
足元を見やれば、鏡の中の少女の影が、かすかに揺れていた。
光の中にあってなお消えぬその影は、言葉にならなかった孤独や不安を、そのまま映しているようだった。
「いつからか、私は“期待に応える存在”として生きるようになりましたの。
周囲が望む姿に、自分を寄せて、形を整えて……そうしていれば、否定されることもないと思っていましたわ」
フィリーナさんの声は静かだった。けれど、芯のある声だった。
言葉を紡ぐたび、胸の奥に積もっていたものが、ひとつずつほどけていく。
「間違えてはならない。傷ついてはならない。誰よりも優秀でなければ、存在する意味がない。
――そんなふうに、自分を縛りつけていたことにも、気づかないままで」
鏡の中の少女が、そっと目を伏せる。
その肩から、ひとすじの光が零れ落ち、地面へと消えた。
まるで、張り詰めていた仮面が、静かに溶け出すように。
「けれど……今の私は、もう一人ではありませんの」
ふと、フィリーナさんの表情がやわらぎ、頬にあたたかな気配が宿る。
“あの子”が、私を――名前で呼んでくれるから」
名を呼ばれること。
それはただの呼びかけではない。
存在を認め、心を結ぶ、たしかな絆の音。
完璧である必要などないのだと、ようやく知ることができた。
私は私のままで、誰かに大切に思ってもらえる。
そんな奇跡のような日々を、今、私は生きている。
その想いが、静かに空へと昇っていく。
鏡は、音もなく光へと変わり、波紋のように広がって――やがて、跡形もなく消えていった。
三人が再び顔を合わせたのは、宝石のように光をたたえた木々に囲まれた、小さな広場だった。
言葉はなかった。
けれど、その沈黙には、確かな“変化”が宿っていた。
互いの瞳を見つめれば、そこにあるのは――やわらかな決意。
それぞれが、自分の心と向き合い、何かを乗り越えたのだと、誰もが自然に感じ取っていた。
そして。
――あの“猫”が、再び姿を現した。
芝の向こう、光の粒が舞う木陰から、するりと歩み出る白銀の毛並み。
ゆっくりと私たちのもとへと近づき、静かに立ち止まったその姿は、先ほどまでの“猫”とは、どこか違って見えた。
その身体から、淡い光がこぼれていた。
輪郭がにじみ、まるで空気の粒が形を成しているかのよう。
宝石のような瞳だけが、変わらずまっすぐに私たちを見つめていた。
――それは、カーバンクル。
けれど今は、“本来の姿”に近いものなのだと、私は直感的に理解していた。
「……ありがとう。あなたたちの心が、鍵となりました」
その声は、耳ではなく、心の奥へと直接届いた。
あたたかく、やさしく、どこか懐かしい響き。
「この世界は、かつて“歌”に守られていました」
語りは、静かに始まった。
「“歌姫”と呼ばれた存在がいて、彼女の歌は風を導き、雨を癒し、人々の心を結んでいたのです」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
どこかで聞いたような――でも思い出せない、深い記憶に触れるような感覚。
「けれど、ある時を境に、“歌”は世界から失われました」
マリナちゃんが、そっと私の袖を握る。
フィリーナさんは、視線を落とし、静かに聞き入っていた。
「彼女が去ったあと、世界は音をなくし、人々は“想いを声に乗せること”を忘れていったのです」
「まるで……この世界自体が、眠ってしまったような印象ですわ」
フィリーナさんのつぶやきに、私は小さく頷いた。
「でも、どうして私たちがここに?」
マリナちゃんの問いに、カーバンクルは少しだけ間を置いた。
「……“きっかけ”が必要だったのです。
想いをつなぐ力が、再びこの世界に届くための」
そして、宝石の瞳が、まっすぐに私を見た。
名は呼ばれなかった。
それなのに、その視線だけで、すべてを語られているような気がした。
「あなたの中に眠るもの……それは、かつての世界が求めていたものと、よく似ています」
私の胸の奥が、ひとつ脈打つ。
理由はわからない。けれど――たしかに、心が静かに震えていた。
風が、そっと揺れる。
木々の葉が微かに鳴り、あの静かだった世界に、わずかな“旋律”が戻ってきていた。
「……歌は、想いは、きっとまた届きます。
あなたたちが、それを思い出させてくれたのです」
やがて、カーバンクルの身体は光に包まれ、その姿を溶かしていく。
同時に、広場の中央――空間が、やさしく波打った。
帰還のための“扉”が、静かに開かれていた。
三人で手をつなぎ、光の扉の前に立った。
躊躇いはなかった。
それぞれの心に灯った想いが、確かに“次”へと進む力になっていた。
――一歩、踏み出す。
光がやわらかく包み込む。
まるで夢の中に沈んでいくような感覚とともに、空気が変わるのを感じた。
けれどその瞬間、私はふと振り返ってしまった。
何かが、胸の奥を引き止めた気がして――
そこにいた。
光の中、静かに佇む“猫”の姿。
白銀の毛並みと、あの宝石のような青い瞳が、私をまっすぐに見つめていた。
風もないのに、しっぽがふわりと揺れる。
まるで――「またね」と言っているようだった。
目が合った気がした。
けれど、次の瞬間――
光は音もなく消え、私たちの足元に、いつもの芝の感触が戻ってきた。
気がつくと、私たちは学院の裏庭に立っていた。
空は夕焼けに染まり、木々の影がやわらかく伸びている。
ほんの少し前まで、確かに“あの場所”にいたはずなのに。
足元には、やさしい草の感触と、風の音だけが残っていた。
誰も言葉を発しなかった。
けれど、三人の間に流れる空気が、すべてを物語っていた。
風が、そっと通り抜ける。
まるで、光とともに消えたはずの“存在”が、まだ私たちを見守っているかのように――
――そのとき。
一匹の猫が、芝生の奥からこちらをじっと見つめていた。
宝石のような瞳が、やわらかく細められる。
……やはり、あの御方は――変わらぬまま。
どれほど記憶を失っても、心は……何も変わらぬ。
またいつか、この世界の調べを紡がれる日まで。
そして、最後にそっと。
『……“……様”。』
誰の耳にも届かない、けれど確かにあった、そのささやき。
それは、記憶の底に沈んだ“誰か”の名を、やさしく呼んでいた。
学院の午後は、いつも通りの静けさに包まれていた。
けれど私たちにとって、その空気はどこか違って感じられた。
校舎の窓から差し込む光がやわらかく、机の木目が少しだけきらめいて見える。
さっきまで確かに――“別の場所”にいたのに。
それなのに、不思議なくらい違和感はなかった。
まるで、そこに“行くこと”が、最初から決まっていたみたいに。
「……ここに戻ってきたら、なんだか現実じゃない気がしてくるよね」
マリナちゃんが、ぽつりと呟いた。
私とフィリーナさんは、視線を交わして、ふっと微笑み合う。
「ええ。でも確かに“起きたこと”ですわ。あの猫――いえ、カーバンクルの導きは、夢ではありませんでしたもの」
フィリーナさんの言葉に、私も小さく頷いた。
胸の奥に、まだあの光の気配が残っている。
そして、心のどこかで、何かが変わりはじめているのを、私は感じていた。
音もなく過ぎていく午後の光の中、
私たちはただ、そっと微笑み合っていた。
――胸の奥に、小さな奇跡を抱きながら。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
この物語は、いつもと少しだけ違う放課後――
それぞれが、自分の心と向き合う、ささやかで不思議な時間を描きました。
誰かに届いてほしい気持ち。
うまく言えないまま、胸にしまっていた想い。
それでも、一歩ずつ進んでいこうとする強さと優しさを、三人は見つけてくれたように思います。
きっと、私たちの日常にも、こんな“ひだまり”のような瞬間があるのかもしれません。
また、物語のなかでお会いできたら嬉しいです。
星空りん




