43 風にのせた奇跡、聖女と呼ばれて
午後のひとときを過ごしたカフェを後にして、私たちは街をゆっくりと歩いていた。
広場へ向かう小道には、やわらかな日差しが差し込み、色とりどりの花々が咲き誇っている。レンガ造りの店先からは焼き菓子の香ばしい匂いが流れ、どこか穏やかな時間が流れていた。
マリナちゃんが「ねえ、あれ見て!」と指差した先には、小さな露店が立ち並んでいて、木彫りの小物や手作りのアクセサリーが並んでいた。
フィリーナさんも興味深そうに視線を向けて、三人で並んで立ち止まる。
どれもきらきらしていて、見ているだけで心が躍った。家族と一緒に訪れたときとは違う、不思議な高揚感。友達と並んで歩くという、それだけのことが、こんなにも特別に感じられるなんて。
(ああ……来てよかった)
そう思ったとき――
日が傾きはじめ、石畳に映る影が少しずつ伸びていく。
「そろそろ、帰りの時間……ですね」
フィリーナさんが、広場の時計塔に視線を向けながらつぶやいた。
そのときだった。
広場の外れ、道の向こう側――
小さな声が、かすかに聞こえた気がした。
「……っ、うぅ……」
私はふと立ち止まり、音の方へと目を向けた。
そこには、小さな影がしゃがみこんでいた。
うつむいたまま、苦しそうに呼吸を整えようとしている子ども。
そのすぐ隣では、若い女性――おそらく母親だろう――が、必死に背をさすっていた。
「大丈夫よ、もうすぐ落ち着くから……ほら、ゆっくり息して」
「……っ、はぁ、はぁ……」
息を詰まらせるような呼吸。顔は赤く、目の焦点も定まっていない。
「なにか……あったんでしょうか?」
マリナちゃんが小さくつぶやいた。
私の胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
(……この子、苦しんでる)
周囲には数人の通行人がいたけれど、誰も立ち止まらない。みんな、遠巻きに視線を送るだけだった。
「マリナちゃん、フィリーナさん……」
私はふたりを見て、そっと言った。
「行ってもいいですか?」
ふたりはすぐに頷いてくれた。
「もちろん」
「……わたくしたちも、行きましょう」
三人で歩み寄ると、母親が顔をあげた。
その瞳には、かすかな警戒――それよりも強く、助けを求める光がにじんでいるように見えた。
「あの……大丈夫ですか?」
私が声をかけると、女性は小さく頷いた。
「す、すみません。この子、持病があって……。
昼をすぎると、たまにこうして発作のような症状が……っ」
その子は、まだ三歳くらいに見えた。小さな体に、無理がかかっているのがわかった。
「薬は……今日は持っていなくて……。病院に向かってたんですけど、途中で……」
母親の手は震えていた。誰にも頼れず、どうすればいいかわからないまま、ただ苦しむ我が子を抱きしめている姿。
私の胸の奥が、強く揺れる。
(……助けたい)
思わず、そっとしゃがみこんだ。
その子の額に、手を当てる。
火照った肌。浅く苦しげな呼吸。
私の手がふれると、その子は少しだけ視線をこちらに向けた。
「……ね、こわくないよ」
私は、そっと語りかける。
「ゆっくりでいいから。……安心して――」
心の奥に、あの旋律が浮かんだ。
誰かを思い浮かべて、優しさを重ねていくと、自然とその“歌”が胸の奥に灯っていく。
私は、そっと息を吸った。
誰かが、息をのんだ音がした気がした。
街のざわめきが、ふと遠くなる。
まるで時間だけが、少しだけ止まったようだった。
そして――
小さく、優しく、歌い始めた。
それは、祈るような旋律だった。
風が、ふと止んだ気がした。
ざわめく街角に、私の声だけが、静かに響く。
母親が驚いたように目を見開く。
けれど私は、その子の手をとり、ただ歌う。
ぬくもりが、ふわりと満ちていく。
胸の奥に宿った魔力が、音に乗って広がり、その子の体を優しく包み込んでいく。
まるで春の光が、その身に舞い降りたように。
そして――
その子の体が、すっと楽になったように見えた。
呼吸が、ゆっくりと整っていく。
「……っ、ママ」
かすかな声。確かに、意識が戻っていた。
「……よかった……!」
母親が、涙をこぼす。
「ありがとう……本当に……」
母親の腕にすがるように身を寄せながら、子どもは小さな声で“ありがとう”と呟いた。
――そして、何もなかったように、空気が静かに満ちていく。
その瞬間だった。
「い、今のって……」
「歌って、たよね……?」
「いま、光……?」
周囲の人々が、徐々に立ち止まり、こちらを見つめ始めていた。
「“歌”で……治したのか……?」
「まるで、奇跡……」
「もしかして――あれは、“神の癒し”じゃ……?」
ぽつりと、誰かがつぶやいた。
(……まさか)
「聖女様……?」
その囁きは、静かに広がる波紋となり、人々の心に静かに沈んでいった。
「本当に人間の力なのか……でも、あの子は助かってた……」
そんな戸惑いの声が、賛美の合間に紛れて聞こえた気がした。
その言葉は、ひとひらの羽のように、静かに空気を揺らし――
やがて、通り全体を包む波紋となっていった。
(……あ)
気づいたときには――もう、誰かに見られていた。
“歌の魔法”が、誰かを癒やす瞬間を――この街の人々の前で。
「……まさか、あの子が……聖女、さま……?」
そんな戸惑いがちの声が、どこからともなく漏れ聞こえた。
まるで風に乗った小さな疑問が、人々の心にふわりと舞い降りたように。
その瞬間、広場の空気が、静かに、けれど確かに変わりはじめていた。
誰かがひとり、またひとりと足を止め、広場の一角に人の輪ができていく。ざわめきが生まれ、まるで何かを目撃したかのように、視線が一斉に私に向けられた。
――でも、私はまだ、その子のそばにいた。
その子の体温の余韻が、私の掌にそっと染み込んでいた。
胸の奥から生まれた“歌”の魔力が、たしかに誰かを癒した――その実感が、静かにそこに宿っていた。
「本当に、ありがとうございました……」
母親の目からは、涙が止まらなかった。震える手で子どもを抱きしめながら、何度も何度も頭を下げる。
「いえ……私、ただ……」
どう返していいか分からず、私は言葉に詰まってしまう。
そのとき、マリナちゃんが一歩前に出て、私の肩をそっと抱いた。
「シオンちゃん、ありがとう。……すごく、優しかったよ」
その一言に、少しだけ心がほどけた。
「わたくしも……あんなに温かい“歌”、初めて聞きましたわ」
フィリーナさんも、隣で静かに頷く。
◇
けれど――
その温かい空気の中に、少しだけ違う“視線”が混ざっていたことに、私は気づいていなかった。
石畳の影。通りの端。フードを目深にかぶった黒衣の人物が、じっとこちらを見つめていた。
その場所には、いつの間にか黒い影が――
興味を持つように。
何かを“確認”するように。
その視線に、気づく者はいなかった。
◇ ◇ ◇
「シオンちゃん、そろそろ行こう? 人が……少し集まりすぎちゃったし」
「……うん」
マリナちゃんの声にうなずいて、私はゆっくりと立ち上がる。母親とその子にもう一度会釈をし、そして、三人で静かにその場を離れた。
背中に、たくさんの視線が刺さっていた。
「歌って、癒したんだよな……」
「まさか、本当に“聖女”が現れたのか?」
「……あの子の様子、明らかに変わってたよな」
「いや、本物だよ……光が見えたんだ」
そんな声が、背後からかすかに聞こえてくる。
(……どうしよう)
胸の奥に、また別のきゅっとした痛みが生まれていた。
不安と、戸惑いと、そして――少しの、恐怖。
でも――
ふと、マリナちゃんが私の手をぎゅっと握ってくれた。
「大丈夫。あれは、間違ってないよ」
フィリーナさんも、そっと私のもう片方の手を握る。
「わたくしたちが、ちゃんといますから」
その温もりに、私はようやく小さく頷くことができた。
いつの間にか、広場の空気がすっかり変わっていた。
やわらかな夕陽が、石畳に影を落としていた。
◇ ◇ ◇
その日、王都の片隅で起きた“小さな奇跡”は――
ほんの数日後、“教会”の耳にも届くことになる。
“聖女の再来”か、それとも“異端の兆し”か。
運命の歯車が、静かに、しかし確実に動き始めていた――。
誰かの苦しみに気づき、そっと手を差し伸べること。
その“勇気”は、特別な力よりもずっと尊くて――
そして時に、世界を静かに変える力を持っています。
シオンがこの街で起こした“小さな奇跡”は、
優しさとともに風に乗り、やがて思いもよらぬところへ届いていくでしょう。
それは祝福か、それとも試練か。
でもきっと、彼女の心は変わらずに、
誰かの痛みに寄り添う“歌”を胸に灯し続けるはずです。
これから訪れる波紋のなかでも、
その光がどうか、曇ることなく彼女を照らしますように――。




