42 風が運んだ街の光
春の朝は、どこかふんわりとしている。
窓から差し込む陽光が、カーテンの隙間を抜けて、部屋の空気をあたたかく染め上げていた。ゆるやかな光の粒が、ゆらゆらと揺れている。
「……今日は、特別な日」
私はベッドの上で、毛布をぎゅっと抱きしめた。
いつもと同じはずの朝。でも、胸の中には、少しだけ弾むような期待がある。だって今日は、マリナちゃんと、フィリーナさんと……三人でお出かけする約束をした日なのだから。
前に、お母様とリリカお姉さまと一緒に街へ行ったことはある。でも、友達と出かけるのは、初めて。
「ふふ……」
思わず、笑みがこぼれる。
そんな私の様子を、ぬいぐるみのルナちゃんが、いつも通りの優しい目で見つめていた。
「……いってきます、ルナちゃん」
そう声をかけて、私はベッドからそっと降りる。
◇ ◇ ◇
「まあ、三人で街へ? それは素敵なことね」
身支度を整えて朝食に向かうと、お母様がやわらかな笑みで迎えてくれた。
「じゃあ今日は、特別に――私が結ってあげましょうか」
その一言に、背後で控えていた侍女がそっと微笑み、一歩だけ下がる。
静かな所作が、今日の支度が“お母様の手によるもの”であることを自然に示していた。
お母様は椅子に座る私の背後に立ち、やさしく髪に櫛を通していく。
細やかな手つきで髪を編み、最後にリボンを軽く結びながら、優しく声をかけた。
「でも、気をつけてね。街は楽しいけれど、学院と違ってたくさんの人がいるわ。迷子にならないように、三人で手を離さないようにね」
「はい、お母様」
私は大きく頷いた。いつもより少し緊張していたけれど、それでも、胸の奥には小さな冒険のはじまりを感じていた。
食卓には、リートお兄さまとリリカお姉さまの姿もあった。
いつもの朝なのに、皆と一緒にいることが、今日は少しだけ特別に感じられた。
「シオン、街はにぎやかで見るものがたくさんあるけれど――迷子にならないように、ちゃんと二人と一緒に行動するんだよ」
リートお兄さまが、いつもの落ち着いた声で言った。
それは注意というより、私の初めての外出を案じてくれているような、やさしい響きを帯びていた。
「はい、気をつけます」
思わず、深く頷いていた。胸の中に、小さな冒険を前にした緊張と、それを支えてくれる家族の温もりが、静かに灯っていた。
リリカお姉さまが優しく微笑みかけてくれる。
その笑顔に背を押されるように、気づけば、背筋がぴんと伸びていた。
「うん、楽しんでくる!」
「ふふっ……大丈夫、シオンならきっと楽しい一日になるわ」
◇ ◇ ◇
学院の正門前で、私たちは待ち合わせをしていた。
マリナちゃんはすでに来ていて、明るい水色のワンピースに、いつもより髪がふわっと巻かれていて、どこか華やかだった。
「シオンちゃん、こっちこっち!」
手を振って笑うその顔を見て、私もぱっと明るい気持ちになる。
「マリナちゃん、今日はすごく……可愛いです」
「えへへ、ありがとう。シオンちゃんも、その白いワンピースすごく似合ってるよ!」
お互いに褒めあって笑っていると、もう一人の姿がゆっくりと近づいてきた。
「……お待たせしましたわ」
上品なミントグリーンの外套を羽織ったフィリーナさんが、少しだけ恥ずかしそうに、けれどしっかりとした足取りで私たちのもとへと歩いてくる。
「フィリーナさんも、とっても素敵です」
「ありがとう、シオンさん……少し迷いましたの。こういうお出かけ、実は初めてで……」
その声に、マリナちゃんがくすっと笑った。
「じゃあ、三人とも“はじめて”だね。だからこそ、すごく楽しい一日になりそう!」
その言葉に、私たちはうなずき合った。
◇ ◇ ◇
三人は、事前に予約していた馬車に乗り込んだ。
貴族街から街の中心部まで、馬車でゆっくりと揺られながら進む。車内にはほのかなラベンダーの香りが漂っていた。
「……こうしてお出かけするのって、なんだか夢みたいですね」
私はぽつりとつぶやいた。
「ええ、本当に。こんな風に並んで座っているなんて、少し前の私では考えられませんでしたわ」
フィリーナさんの声には、ほんの少し照れくささと、あたたかさが混ざっていた。
「でも、すごく嬉しいです。ふたりと一緒に出かけられて」
マリナちゃんが窓の外を眺めながら、にこっと笑う。
馬車の窓から見える景色は、徐々に華やかさを増していった。
石畳の通り、行き交う人々。魔道具の商店やお菓子屋、広場に咲く色とりどりの花々……。
まるで“冒険の舞台”に足を踏み入れるかのような、ときめきが、胸の奥で小さく弾けた。
◇ ◇ ◇
馬車が止まり、扉が開かれたとき――
「わぁ……!」
私は思わず、声を漏らしていた。
王都の中心、〈セレナ広場〉。石畳の広がる空間に、噴水の水がキラキラと陽光を跳ね返していた。周囲には色とりどりの店々が並び、果物や焼き菓子の香り、遠くで奏でられる楽器の音色が風に乗って漂ってくる。
「……すごい、人がいっぱいいる」
私はその景色に目を奪われていた。市場には親子連れや旅人、小さな動物を連れた少女までいて、それぞれの会話が楽しげに響いていた。
「ふふっ、シオンちゃん、初めて見る感じ?」
マリナちゃんがくすっと笑って私を見る。
「はい。家族と来たことはありますけれど、こんなにゆっくり歩いたことはなくて……」
「私も、こんな風に歩くのは初めてですわ」
フィリーナさんも静かに頷く。彼女の金の髪が陽に照らされ、柔らかく揺れていた。
「じゃあ、今日は三人で、ぜんぶ見てまわりましょう!」
マリナちゃんは少し跳ねるように足踏みして、小さな声で呟いた。
「実はね、昨日の夜、持ち物チェック三回もしちゃったんだ〜」
「まあ……ふふっ、それならわたくしも。鏡の前で帽子を五回くらいかぶり直しましたの」
私も思わず笑ってしまう。みんな、それぞれに今日を楽しみにしていた。
マリナちゃんが弾むように声をあげて、私たちをぐいっと手招きする。
「いきましょう、ふたりとも!」
◇ ◇ ◇
最初に訪れたのは、広場の片隅にある〈花飾りの店〉だった。
「ここ、いつもお母さんと来るんだけど……この季節だけ売ってる花冠があってね。すごく可愛いの」
そう言いながら、マリナちゃんは小さな屋台の前で立ち止まる。
並べられていたのは、色とりどりの花を編んで作られた、春の冠。淡い桃色の小花や、ラベンダーのつぼみ、緑の小枝が丁寧に編み込まれている。
「……まあ。綺麗」
フィリーナさんがふとつぶやいた。
「マリナちゃん、これは――?」
「試着できるよ。ね、店主さん」
呼びかけられた店主のおばあさんが、にこにこと頷く。
「ええ、どうぞご自由に。似合いそうだわ、この三人さんには」
「じゃあ……えいっ!」
マリナちゃんは、私の髪の上にそっと花冠をのせた。
「……!」
頭の上が、ふわっと花の香りに包まれる。
「似合ってる、すっごく可愛い!」
「う、うれしい……ありがとう、マリナちゃん」
照れて頬が熱くなる。
「次はフィリーナさん!」
「えっ、わたくしも……?」
「もちろん!」
促されるままに、フィリーナさんも試着する。すると、金の髪にラベンダー色の花がふわりと馴染んで、思わず私は息をのんだ。
「……とても、素敵です」
「そ、そうですの? ありがとう、シオンさん」
三人で見つめ合って、思わず同時に笑ってしまう。
お店の前にあった小さな鏡に映る私たちは、まるで――春の妖精のようだった。
◇ ◇ ◇
そのあとは、小さな焼き菓子屋さんに立ち寄った。
ショーケースの中には、バターたっぷりのマドレーヌや、果実をのせたタルト、甘い香りのスコーンが並んでいる。
「見て、これ“はちみつのしずく”っていうの。春限定の焼き菓子だって!」
マリナちゃんが指差したのは、透明な飴細工をまとった、可愛らしい丸いお菓子。
「わたくし、それをいただきますわ」
「じゃあ、私はこれ……ふふ、“妖精の小舟”ですって」
「どれどれ……うん、私は“はるいろブーケ”にしてみます」
三人で少しずつ違うものを選び、店先のテーブルで紙包みを開いた。
「……おいしいっ!」
「甘すぎなくて、すごく上品な味ですわ」
「うん……これ、リリカお姉さまにも食べさせてあげたいかも」
ぽろりとこぼれたその言葉に、マリナちゃんがふわっと微笑んだ。
「うん、わかる。こういう気持ちを、誰かに分けたくなるよね」
◇ ◇ ◇
そのあとも、三人で小さなガラス細工の店をのぞいたり、路地裏の本屋さんで詩集を見つけたり、街角の音楽家の演奏に立ち止まったり――
何気ない時間が、どこまでも鮮やかに流れていった。
それは“特別な出来事”ではない。
けれど、“はじめての自由な一日”として、確かに私の心に刻まれていった。
午後の陽射しが少しずつ傾きはじめたころ、三人は広場近くのカフェに立ち寄った。
「ふぅ……少し歩きすぎたかも」
椅子に座ったフィリーナさんが、そっと足をさする。
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫ですわ。……でも、こうして疲れるのも、悪くありませんのね」
「たしかに。がんばって歩いたあとの休憩って、なんだか幸せです」
「うんっ。じゃあ、ここでもう少しおしゃべりしよ!」
テーブルに紅茶とお菓子が運ばれ、ティーカップが軽く触れ合う音がした。
「……楽しい一日になって、本当によかったです」
そうつぶやいた私の声に、ふたりが優しくうなずいてくれた。
三人で過ごした午後のカフェは、やわらかい紅茶の香りと、静かな笑い声で満たされていた。
そして、少しだけ名残惜しさを感じながら、私たちは再び歩き出した。
春風に揺れる花のように、小さな一日が静かに咲きました。
シオンの瞳が見つめた街、ふたりと交わした笑顔、心に灯ったやさしい光――
それらは、物語のなかで確かに息づき、読んでくださったあなたの心にも、そっと寄り添ってくれたでしょうか。
特別ではないけれど、忘れられない時間があります。
言葉にすればこぼれてしまいそうな、とても小さな想い。
この物語が、そのひとしずくのように、あなたの日々にそっと沁み込んでいたなら、これ以上の幸せはありません。
ページを閉じても、春の光はそこに在り続けます。
どうか、あなたの世界にも、優しい風が吹きますように。




