41 希望の朝、胸に咲く灯火
学院の廊下を渡る春の風は、どこか少しだけ優しくなったように感じた。
昨日までと何も変わらない景色。石造りの校舎、陽光を受けて輝く窓。けれど、胸の奥には――まだ言葉にならない、確かなぬくもりがあった。
あの日、確かに何かが変わった。三人のあいだに、はじめて“友情”と呼べる絆が芽生えた。そして……“歌の魔法”が、誰かのために発動した瞬間でもあった。
(……でも、私は、逃げなかった)
怖かった。けれど――あのとき、ちゃんと前を向けた。
それだけでも、きっと意味があったと、今は思える。
朝の教室には、すでに数人の生徒が登校しており、事件のことがひそひそと話題にされていた。けれど、それは「噂」ではなかった。野外実習の現場にいた生徒たちにとって、あの出来事は“現実”であり、“体験”だった。
「おはよう、シオンちゃん」
教室に入った瞬間、マリナちゃんが明るく手を振って迎えてくれた。
いつもの笑顔。けれど、その瞳には、確かに強さが宿っている。
「おはようございます、マリナちゃん」
挨拶を返しながら、シオンは自然と周囲を見渡す。
……その姿は、まだなかった。
(フィリーナさん……今日は、来ないのかな)
ルガンベア――あの熊型の魔物に襲われたとき、フィリーナさんは足を痛めた。致命的な怪我ではないと聞いているけれど、それでも数日は学院を休むだろうと、先生たちが言っていた。
「シオンちゃん、ちょっとこれ見て!」
マリナちゃんがそっと小声で差し出したのは、学院の掲示板から写したという紙片だった。
《【臨時通達】中等部剣術科・魔法科の野外実習は一時中止となりました。関係生徒の安全を第一とし、再開は未定といたします。初等部においては、当面の間、森への立ち入りは禁止とします。》
その文字列が、事件の余韻を確かに物語っていた。
そのとき、教室の扉が静かに開いた。
一瞬、空気が揺れる。
差し込む陽光の中に、ひときわ凛とした姿が現れた。
「……おはようございます」
やや控えめな声。その主は、長い金髪を軽くまとめ、制服の裾を丁寧に整えた、あの第三王女――フィリーナ・ノルディアだった。
一部の生徒たちが小さくざわめく。けれど、それは驚きというより、無事に登校してきた安堵の色を含んだものだった。
王族とはいえ、同じ学院の仲間。その姿を見て、シオンも胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
(フィリーナさん……)
しばらく見ぬ間に、どこか表情が和らいでいるように見えた。
歩み寄ってきた彼女と、視線が合う。
「……おはようございます、シオンさん、マリナさん」
丁寧に頭を下げるフィリーナの姿は、どこか昨日までとは違って見えた。表面的な礼儀ではなく、そこにほんの少しだけ“自分からの歩み寄り”が滲んでいるような。
「おはようございます! フィリーナ様!」
マリナちゃんの返事は、いつもどおりの明るさだった。
一方、シオンは自然に口を開く。
「おはようございます、フィリーナさん」
その呼び方に、マリナちゃんが一瞬だけ目を見開いた。
けれど、フィリーナさんは――少しだけ頬を染めながら、穏やかに口を開いた。
「……あの、マリナさんも。“様”づけは、もうやめていただけると嬉しいですわ」
「えっ、私も……?」
マリナちゃんが戸惑いをにじませると、フィリーナさんは少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「わたくし、昨日、シオンさんにもお願いしましたの。お二人とは……友達として、お話ししたくて」
マリナちゃんは、ぱっと表情を明るくし、にっこりとうなずいた。
「うん、もちろん! それじゃあ改めて――おはようございます、フィリーナさん!」
「ふふっ……ありがとうございます」
三人のあいだに、目には見えないけれど、たしかな変化が生まれていた。
昨日とは少しだけ違う空気。けれど、それはきっと“いい方向”の変化だと、誰もが感じていた。
まだ始まったばかりの、小さな絆。でもそれは、確かに昨日よりも強く、温かいものになっていた。
やがて、三人は並んで席についた。
フィリーナさんが席に着くと、周囲の生徒たちも自然と話題を控え、ちらちらと視線を向けていた。でも、フィリーナさんは気にする様子も見せず、静かに教科書を開いている。
視線をそっと向ける
(……私、まだ全然強くなんてないけど。それでも――あのとき、フィリーナさんのために動けた。あの一歩が、今につながってるんだ。
でも、あのとき“治す”ことまではできなかった。あんなに必死に歌ったのに、足の痛みは残ったまま……。私の力は、まだその程度なんだ。もっと……もっと強くならなきゃ)
小さく息を吐いて、机の上で手を握りしめる。
すると、隣から小さな声が聞こえた。
「ありがとう、シオンさん」
フィリーナさんが、ほとんど唇だけでそう言った。視線は教科書のまま。けれど、その言葉には――確かな想いが込められていた。
「……ううん。私こそ……フィリーナさんが無事でよかった」
声を潜めるように返すと、フィリーナさんはほんのわずかに頷いた。
◇ ◇ ◇
午前の授業が終わり、学院の鐘が昼休みの合図を告げる。
教室の扉が次々と開かれ、生徒たちは思い思いに廊下へと歩み出していった。
「今日も、食堂行きましょうか?」
マリナちゃんの言葉に、シオンは小さく頷いた。
「はい……そうしましょう。フィリーナさんも、ご一緒に」
「……ええ、ぜひ」
フィリーナさんはほんの少しだけ微笑みながら応じた。
そのやりとりに、マリナちゃんがぱっと明るい表情を浮かべる。
三人は連れ立って学院の食堂へ向かった。
◇
昼の食堂は賑やかだった。華やかな制服姿の生徒たちが行き交い、銀の器に盛られた香ばしいパンや温かなスープが並んでいる。厨房の奥では、給仕係の人々が慌ただしく動きながらも笑顔を絶やさず、手際よく料理を供していた。
「わぁ、今日のメニュー、春の野菜のポタージュだって。美味しそう~!」
マリナちゃんは列に並びながら、小さく歓声をあげる。
シオンもその香りに自然と顔をほころばせた。隣を見ると、フィリーナさんも、ほんのわずかに口元を緩めていた。
「……こうして並ぶのも、なんだか新鮮ですわ」
「うん。でも、ちょっと楽しいかも」
小さな会話を交わしながら、三人は食事を受け取り、窓際のテーブルについた。
ガラス越しに差し込む昼の陽光が、スープの表面を優しく照らす。誰かが話す声、笑い声、カトラリーの音。それらが心地よく混ざり合い、今ここにある“日常”を彩っていた。
「……なんだか、こうして一緒に食べるのって、いいですね」
フィリーナさんの言葉に、マリナちゃんがうんうんと頷く。
「ですね! こういう時間、大好きです」
「私も……なんだか、ほっとします」
シオンも、心からそう思った。
それぞれが静かにスープを口に運ぶ中、温かな時間がゆっくりと流れていく。
◇
食事を終えた三人は、トレイを返却してから教室へ戻る途中、ふと足を止めた。
「ねえ、ちょっとだけ外に行かない?」
マリナちゃんがふと思いついたように言った。
「外……ですか?」
シオンが首をかしげると、マリナちゃんはにっこりと笑った。
「うん。実はね、私、このあいだすごく気持ちいい場所を見つけたの。中庭なんだけど、木陰もあって落ち着けるの。どうかな?」
「……素敵ですね。行ってみたいですわ」
フィリーナさんが静かに頷き、シオンもそれに続いた。
三人は連れ立って学院の中庭へと向かって歩き出した。
春の陽差しが降り注ぐ中庭には、ほかにも何人かの生徒たちが訪れていたが、マリナちゃんが言っていた場所――その小さな芝生の一角は、まるで三人を待っていたかのように空いていた。
「ここです! 風も気持ちいいし、すごく落ち着くんですよ」
マリナちゃんが嬉しそうに芝生に腰を下ろす。
シオンもその隣に腰を下ろし、フィリーナさんも、ほんの一瞬迷ったあとに静かに輪に加わった。
シオンもその隣に腰を下ろし、フィリーナさんも、ほんの一瞬迷ったあとに静かに輪に加わった。
――並んで座るのは、これが初めてだった。
けれど、不思議と違和感はなかった。
ここまでに積み重ねてきた時間と想いが、見えない糸のように三人をそっと結んでいた。
「……来てよかったって、思えましたの。だから……ありがとう、ふたりとも」
フィリーナさんが、そっと口にした言葉に、マリナちゃんが不思議そうに首をかしげる。
「え? どうして?」
「わたくしがここに来ても……誰も、何も言わなかったから。……でも、それが嬉しくて。
ずっと“特別扱い”されることに慣れていたからこそ、普通に接してもらえるのが……なんだか、とても安心できましたの」
少しだけ迷いを含んだ声だったが、それは間違いなく本音だった。
その言葉に、マリナちゃんがぱっと笑顔を咲かせた。
「だって、もう友達ですもん。それに、来てくれてよかったです、フィリーナさん!」
「……ふふっ。ありがとうございます」
その微笑みは、ほんのりと柔らかく、以前よりもずっと自然で素直だった。
木々の間を抜ける風が、三人の髪を優しく揺らす。
花壇の花々も静かに身を揺らし、まるでこのひとときを祝福しているかのようだった。
しばしの沈黙が訪れたが、それは気まずさではなく、心が寄り添うような静けさだった。
やがて、シオンがふと空を見上げる。
(……あのとき、逃げなかった。フィリーナさんを助けられて、本当によかった。私……ちゃんと、誰かの力になれたんだ)
そう思えたのは、いま目の前で微笑み合う二人がいてくれるからだ。
けれど――
(“治す”までは、できなかった)
その事実が、胸の奥に小さく引っかかっている。
あれほど必死に歌ったのに、足の痛みを完全には癒せなかった。
(まだまだ……私は、力不足だ)
でも、だからこそ――
(もっと強くなりたい)
その願いは、迷いなく、彼女の胸の内に灯っていた。
それはもう、ただの夢なんかじゃない。
誰かと過ごした“今日”という日が、確かにその願いに形を与えてくれている。
「……また、こうして三人で過ごせたら嬉しいですわ」
フィリーナさんの穏やかな声に、シオンとマリナちゃんが同時に頷いた。
「うん、私もそう思う!」
「もちろんです、フィリーナさん」
春の中庭に、三人の声が重なる。
ほんの少しずつだが、彼女たちの輪は、確かに“友情”という名の花を咲かせていた。
そして――
「……あの、今度の休みに、三人で一緒に……街へ行ってみませんか?」
ぽつりと、マリナちゃんが口にした。
「街へ、ですの?」
フィリーナさんが少し驚いたように目を見開く。
「うんっ。私、今まで家族と一緒にしか行ったことがなくて。だから、友達と歩いてみたいなって……思ったんです」
マリナちゃんは少し恥ずかしそうに笑った。
「私もそう。家族とだけだったし、三人で行けたら――絶対楽しいと思う!」
シオンも笑顔で頷き、声に明るさをのせる。
「そう……ですのね。わたくしは、王都に住んでいても外に出る機会などほとんどなくて……」
フィリーナさんはふと窓の向こうへ視線を向け、静かに言葉を紡いだ。
「街の風景を、ゆっくりと眺めたことすら、ほとんどありませんの」
「じゃあ、決まりですね!」
マリナちゃんが弾けるように笑う。
「三人で、楽しい時間にしましょう!」
「……はい」
「ええ、楽しみにしていますわ」
小さな約束が、三人の心にあたたかな光を灯す。
春の陽射しが、その背中をやさしく包み込んでいた――。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
少しずつ変わっていく関係、芽生えたばかりの友情、そして未来へとつながる想い。
シオン、フィリーナ、マリナの三人が“初めて本当の友達”として並んで座る場面は、私にとっても特別な瞬間でした。
友情は、特別なきっかけがなくても育っていくもの。
けれど、時に“特別な何か”が、背中をそっと押してくれることもあるのかもしれませんね。
次回も、物語の続きをお楽しみいただけたら嬉しいです。
ほんの小さな一歩かもしれません。
でも、その一歩が、確かに夢や希望につながっている。
そんな彼女たちの日常と成長を、これからも丁寧に描いていきたいと思っています。
次回も、どうぞよろしくお願いいたします!




