40 沈黙の森、囁く影
深く静かな森の空気が、どこか重たく感じられた。
学院裏の森。その入り口からしばらく進んだ場所に設けられた仮設の観察拠点では、初等部の生徒たちが先生の指示のもと、各班ごとに分かれて準備を進めていた。
中等部の訓練が本格化する中、初等部はその様子を見学しながら、実際の魔力の流れを観察する訓練に入る段階にあった。
「各班、これより森の中での感知観察に入る。三人一組で行動し、列を乱さぬように」
整った声が、仮設の拠点に響いた。初等部の担当を受け持つエルク先生は、穏やかながらも威厳のある話しぶりで、自然と生徒たちの注意を引く人物だ。
「観察中は、決して他の班と離れすぎないように。万一、異常な気配を感知した場合は即座に報告を。……では、行動開始」
その言葉に、各班が一斉に動き出す。
シオンたちの班――シオン、マリナ、フィリーナの三人も、先生の合図に従って森の奥へと歩き出した。
先ほどまでは、陽の光が木々の間から差し込み、森の緑を明るく照らしていた。だが、奥へ進むごとに光は薄れ、葉の重なりが濃くなるにつれて、辺りの空気も徐々にひんやりとしてくる。
足元には湿った落ち葉が敷き詰められ、遠くの方で鳥のさえずりが一瞬だけ聞こえたが、すぐに静寂が戻った。
「なんだか、ちょっと暗くなってきた気がするね」
マリナが、少し不安そうに言った。
「……木々の密度が高くなると、光が遮られやすくなりますの」
フィリーナが静かに応じる。
その声音には、以前のような硬さはない。ただ、慎重さと、どこか守るような響きが込められていた。
シオンは少しうなずきながら、二人の間を歩いていた。
(……フィリーナ様とも、まだうまく話せるわけじゃないけど)
それでも、あの共鳴のとき――ほんの少しだけ、心が触れた気がした。
ぎこちなさはある。けれど、少しずつ距離は縮まりつつある――そう思えるくらいには。
三人は、森の中にある朽ちた倒木のそばで立ち止まった。観察拠点から一定の距離を保ちつつ、個々の魔力感知を行う地点だ。
「この辺りで魔力の流れを感じ取ってみましょう」
フィリーナがそう提案すると、マリナは「了解っ」と元気よく返事をしてしゃがみ込んだ。シオンもそっと木の幹に手を添え、目を閉じてみる。
……静かな森の中、風に揺れる葉の音が耳に心地よく響いていた。
けれど、その背後には、ほんのわずかに違和感のような“ざわめき”がある。魔力が揺れている――そんな印象だった。
「……なんとなく、だけど」
シオンが呟く。
「この辺、空気が少し……違う、かも」
「うん、私もそう思った。地面もなんだか湿ってて、冷たいし」
マリナがそう言って立ち上がる。服の裾にはわずかに湿った土がついていた。
フィリーナは、倒木の表面に手を当てて目を細めた。
「魔力の残滓がありますわ。自然のものとは思えないほど濃く……乱れている」
その声は静かだったが、どこか張りつめていた。
森の奥から、低い唸り声が、じわりと這い寄るように響いてきた。
カサ、カサ――落ち葉を踏む音。それが数回、そしてふいに止まる。
三人が顔を上げ、音の方向を見つめる。
だが、そこには何もなかった。
「……動物?」
マリナが呟くように言う。
「もしくは、他の班の誰かかもしれませんわ」
フィリーナが少しだけ表情を引き締める。
けれど――シオンには、何かが引っかかっていた。
(あの足音……途中で止まった。どこかへ行ったんじゃなくて、ぴたりと“止まった”)
まるで、こちらの動きを伺っているかのように。
風が木々の隙間を抜け、ほんの一瞬だけ冷たい気配が肌を撫でた。
(なんだろう……この感覚)
だが、何も起こらなかった。
音も、動きも、それ以上は。
シオンは胸に手を当て、小さく深呼吸をした。
まだわからない。ただ、心のどこかに、小さな違和感の種が残る――
森の奥へと進むにつれ、周囲の空気がわずかに重くなっていくのを、シオンは肌で感じていた。
木々の葉擦れの音は次第に静まり、代わりに小さな虫の羽音や、枝のきしみが不規則に響く。朝の清々しさが薄れ、目に映る緑の色もどこか沈んで見える。
「……ここから先は、地形も複雑になります。慎重に進みましょう」
フィリーナ様の声が響く。表情はいつも通り冷静だが、そのまなざしは鋭く、辺りに向けられている。
「うん……気をつけよっか」
マリナも頷きながら、背筋をしゃんと伸ばす。その横で、シオンも静かに呼吸を整えた。
初等部の見学班は、先生たちの指示で三人一組に分かれ、それぞれ森の中へと散っていった。シオンたちの班は、倒木や根の露出した地帯を巡りながら、森の中での魔力の流れや気配の変化を、注意深く観察するようにと教えられていた。
足元の落ち葉を踏みしめながら、三人は慎重に進んでいた。ときおりマリナが葉をめくったり、フィリーナ様が手を翳して魔力の流れを感じ取ろうとしたりする。シオンも、耳を澄ませながら周囲の“響き”を意識した。
(森の音が……少ない)
ふと、そんなことを思った。
鳥の声も、小動物の気配も、あまり感じられない。代わりに、ときおり風が木々の間を抜け、低くうなるような音を立てていた。
「ねえ、あそこ……少し光の加減が違わない?」
マリナが指をさした先、木漏れ日の揺れる一角に、何かが動いたように見えた。
フィリーナ様が素早く視線を向け、手を軽く掲げる。
「――あれは、魔力の濃度が違うせいです。あの辺り、流れが不規則になってます」
「見に行ってみる?」
マリナが提案し、三人は慎重にそちらへと足を運ぶ。
近づくにつれ、空気が確かに変わった。重たい。どこか、湿気を含んだような、肌にまとわりつくような感覚。
倒木の根元に、小さな魔力の痕跡があった。土がわずかに焦げたように黒ずみ、周囲の草がほんのりと萎れている。
「これは……?」
「おそらく、小型の魔物が通った痕跡です」
フィリーナ様が答える。声は落ち着いていたが、その眉間には緊張が浮かんでいた。
そのとき――
「おーい! そっちで何か見つけたのか?」
やや離れた場所から、声が飛んできた。中等部の剣術科の先輩たち数名が、木立の向こうから顔を覗かせている。
彼らは訓練中のはずだが、その様子はどこか緩慢だった。
「初等部がビビってるのかと思ったら、けっこうしっかり見てんだな」
「お嬢様方も偵察とは、お勤めご苦労様でーす」
軽口まじりに手を振るその態度に、フィリーナ様が眉を寄せた。
「訓練中ではありませんの? 魔力の流れに乱れがあると警告も出ています。ふざけている余裕など、どこにも――」
森の奥から、不意に音がした。
誰かが枝を踏んだのか、風が木々を揺らしたのか――わずかなざわめきに、周囲が一瞬だけ静まり返る。
「……今の、なに?」
マリナが小さくつぶやく。その表情には、不安の色が浮かんでいた。
「風……じゃないわね」
フィリーナ様が言った。目を細めて、森の奥に視線を送る。
――ズシン。まるで大地が呻いたように、足元がわずかに揺れた。
もう一度、そしてまた一度。
やがて、その“正体”が現れた。
木立の向こうから現れたのは、全身を黒い毛で覆われた、巨大な熊型の魔物だった。
「ルガンベア」――学院の森には本来、出現しないはずの、強力な個体。
その巨体が一歩踏み出すごとに、周囲の空気が震える。獣臭とともに、濃密な魔力が空間を包み込んでいく。
「っ……! な、なにあれっ……!?」
マリナが後ずさり、倒木の陰に身を隠す。シオンもまた、息を呑んだまま硬直していた。
(どうして……こんな魔物が、ここに?)
思考が追いつかないまま、叫び声が響いた。
「中等部の生徒が襲われてる! 先生――!」
見学班にも避難指示が飛ぶ。
「全員、森の入口へ退避! 三人一組、はぐれるな!」
初等部の先生が叫ぶ声が、緊張の空気を引き裂くように響いた。
まさかの瞬間だった。
――ズシン。
地面が、かすかに揺れた。
「きゃっ!」
転倒する音。走り出した直後、フィリーナ様が足をくじいて倒れた。
「フィリーナ様っ!」
マリナの叫びも届かず、混乱の中で他の生徒たちは避難を優先し、既に動き始めていた。
フィリーナ様はうずくまりながらも、必死に立ち上がろうとしていた。けれど、右足に力が入らず、その場から動けない。
(このままじゃ――!)
シオンは迷わなかった。
「マリナさん、先に行って!」
「えっ……!? でもっ――!」
「お願い!」
叫んで、シオンはフィリーナ様のもとへと駆け出した。
後方には、ルガンベアの唸り声と、木々をなぎ倒すような音が響いていた――
マリナは一瞬迷ったが、他の初等部生の避難が始まっているのを見て、唇を噛んで頷いた。
シオンはすぐにフィリーナ様の元へと駆け寄る。倒れた彼女は足を押さえていた。
「くっ……足を……ひねってしまったようです……!」
息を荒げながら、フィリーナ様は悔しげに唇を噛んでいた。
「大丈夫、動かないでください。……今、助けますから」
シオンの声は震えていた。怖い。魔物はすぐそこにいる。けれど、足が止まることはなかった。
音がする。魔物の咆哮が近づく。
――絶体絶命の瞬間が、迫っていた。
獣の咆哮が、森を震わせた。
ルガンベアの巨体が、ゆっくりとこちらに向かってくる。その姿は、木々を圧倒するように大きく、黒い毛並みの隙間から、わずかに蒸気のような魔力が立ち昇っていた。
フィリーナ様は倒れたまま、立ち上がろうとする素振りも見せずに、シオンを見上げて言った。
「逃げなさい……! わたくしのことは……!」
「できません!」
シオンは強く言い返す。怖さも、不安も、胸の奥で渦巻いている。けれど、それ以上に――。
(見捨てるなんて、できない)
「怖いのは……私もです。でも、私――“歌う”って、そういうことだって思ってるんです」
フィリーナ様の目が、見開かれる。
次の瞬間、シオンは一歩前に出た。
風が吹く。魔物の唸りが響く中、彼女はゆっくりと、唇を震わせながら、声を発した。
「……届いて、お願い」
それは、まるで祈りのように。震える声が、空気を揺らす。
魔力が、彼女の身体の奥からこぼれはじめる。胸の奥に灯った想いが、ひとすじの光となって“歌”へと変わっていく。
「――♪」
とどいて とどいて このおもい
ゆれるひかりに 手をのばす
こわくても ふるえても
あなたを まもりたいの
やさしい風が ゆびさきにふれて
ちいさな願いが 羽になる
飛んで 飛んで あなたのもとへ――
シオンの声が、風に溶けていく。
一音ごとに、心がほどけて、空へ舞い上がっていくようだった。
透明な旋律が、森の中に広がっていく。
言葉にするには足りないほどの想いが、“歌の魔法”として空へと放たれる。
一筋の光が、空へ弾けるように放たれた。
それは単なる魔法ではなかった。
シオンの心――フィリーナ様を助けたいという“願い”が形となったものだった。
……そのときだった。
世界が、息をひそめた。
その“歌”が、あまりにも澄んでいて、美しかったから。
世界そのものが、耳を澄ませたように
一切の音が――すべて、消えた。
風の音も、鳥の羽ばたきも、虫の声さえも。
ただ、透明な“静寂”だけが降り積もる。
その中で――
シオンの声が、森に“届いた”。
ルガンベアの動きが止まる。唸りがやみ、その瞳に一瞬だけ――迷いの色が差した。
けれど、それは刹那のこと。
「うっ……!」
咆哮が、再び森を揺らす。怒りに満ちた巨体が、大地を踏み鳴らす。
だがその瞬間――
「後退!」
鋭い声とともに、光が森を裂いた。
中等部の魔法科の先生が到着したのだ。いくつもの防御魔法が展開され、ルガンベアとの間に結界が張られる。
「無事か! すぐに退避を!」
初等部の先生、エルク先生も駆け寄ってくる。彼の腕の中に、フィリーナ様が抱き上げられた。
シオンは、その場にへたり込んだ。全身の力が抜けるようだった。だが、不思議と――涙は、出なかった。
むしろ、胸の奥にあったものが、少しだけ晴れていた。
命を懸けた“歌”が、誰かのために届いたこと。
その“想い”が、誰かに届いた気がして――
それだけで、胸が満たされた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、初等部の生徒たちは全員無事に学院へと戻された。
森での実習は、急遽中止。中等部の訓練も一時中断され、ルガンベアの出現は王宮にも報告されたという。
シオンは保健室のベッドで毛布にくるまりながら、静かに窓の外を見つめていた。
扉の向こうから、控えめなノックが響く。
「失礼します」
入ってきたのは、包帯を巻いた足を引きずるようにして歩くフィリーナ様だった。
「フィリーナ様……!」
思わずベッドから起き上がろうとするシオンに、フィリーナ様は小さく手を振って制した。
「どうか、横になったままで」
その声は、やわらかだった。いつものような距離を感じさせるものではない。
「……あなたが助けてくださらなければ、わたくしは、あの森で……」
「私……本当に助けられたかどうかは、わからないです。結局、助けたのは先生たちで……」
「いいえ。最初に動いたのは、あなたです。わたくしのために、歌ってくれた」
沈黙が、ふたりの間に降りた。
けれど、それは重いものではなかった。
「……あの、フィリーナ様」
シオンが、少しだけ躊躇してから言った。
「その……本当に、助けたいって思っただけで……うまく言えませんけど、あの時、心が動いたんです」
その声に、フィリーナは静かに頷いた。
「ええ……ちゃんと、伝わってきました」
しばしの沈黙ののち、フィリーナはふっと微笑んだ。
「それから……シオンさん」
「はい?」
「もう、“様”は……つけないでくださる?」
「え……?」
思わずシオンが目を見開く。
「わたくしは、あなたに命を救われました。だから、ではなくて……それだけではなくて。あなたとは、もっと……対等に、話したいのです」
そう言って、フィリーナはほんの少しだけ、はにかむように笑った。
「友達として、ね」
シオンの胸に、温かい何かが広がっていった。
「……はい。嬉しいです、フィリーナさん」
シオンの頬が、ふわりと紅くなった。
そう応える声には、たしかな喜びと、少しの照れくささがにじんでいた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました!
今回は、学院の裏森を舞台にした野外実習の中で、初めての“本当の危機”が訪れる回でした。
魔物の出現、足の負傷、恐怖の中での決断――シオンが踏み出したその一歩は、単なる勇気ではなく、“想いを届けるための行動”だったと思います。
彼女がフィリーナを救うために選んだ手段は、“歌うこと”。
それは、誰かを助けたいという祈りが形になった瞬間であり、彼女自身の魔法が“誰かのために”使われた、はじめての奇跡でした。
そして、フィリーナがシオンを「友達」と呼ぶ場面は、これまでの距離と立場を超えた、とても大きな変化だったのではないでしょうか。
次回から、三人の関係は新たな段階へ。
共に過ごす日々が、少しずつ「夢」へとつながっていく予感を感じながら――
これからも、どうぞ彼女たちを見守っていただけたら嬉しいです。
もし、少しでも心に残る場面がありましたら……
感想やブクマ、いいねなど頂けたら、とても励みになります。




