38 はじめての共鳴、ほどけた心 (フィリーナ)
翌朝。
学院の廊下は、昨日よりも少しだけ賑やかだった。初日の緊張がほぐれ、生徒たちの声があちこちで飛び交っている。
わたくしは制服の袖を整えながら、教室へと向かっていた。
ふと前方に目をやると、数歩先を歩く小柄な背中が目に入った。
(……シオンさん)
白銀の髪が、朝の光を受けてふわりと揺れていた。
彼女はこちらに気づくことなく、静かに歩みを進めている。
話しかけることも、歩調を合わせることも――わたくしには、まだできなかった。
けれどその背中を見つめるだけで、胸の奥にほんのわずかな温もりが灯る。
(今日も、一緒に学びましょう)
それは、王女としてではなく――ひとりの少女としての、小さな願いだった。
◇
午後の授業は、昨日と同じく魔法の実技演習だった。
昨日よりも落ち着いた雰囲気の中、生徒たちはそれぞれの属性に合わせた魔石に向かって立っている。
わたくしも、光の属性を持つ者として、与えられた魔石に手を添えた。
魔力を通し、感覚を研ぎ澄ます。
昨日の緊張が嘘のように、今日は心が澄んでいた。
(……昨日の彼女を見ていたから、かしら)
まるで、自分の魔力すら、少しだけ変わったように感じる。
ふと視線を横にやれば――そこに彼女がいた。
シオンさんは、風の魔石の前に立っている。
けれど、今日の彼女は肩の力が抜け、表情にも不思議な安らぎがあった。
隣にはマリナさんの姿。
二人の間には、言葉にしなくても通じ合う空気が流れていた。
その様子を見て、思わず胸の奥がじんわりと温かくなる。
(……いいわね。あんな風に、誰かと笑い合えるのって)
わたくしには、まだないもの。
けれど、これから――
(ほんの少しずつでも、あの輪の中に近づいていけたら)
それは、王女としての“監視”でも、義務でもない。
わたくし自身の、ささやかな願い。
やさしさに触れたい。
ぬくもりを知りたい。
その想いを胸に抱いたまま、いくつかの日々が静かに過ぎていった。
◇ ◇ ◇
魔力共鳴の授業が始まると聞いたとき、心のどこかがざわめいた。
けれど――わたくしは、フィリーナ・ノルディア。
王族として、誰よりも“完璧”であらねばならない。
それは誇りであり、義務であり……そして、孤独という名の仮面でもある。
「三人一組での実習になります」という声が教室に響いたとき、
わたくしは何も言わずに席に座ったまま、教室の空気を眺めていた。
周囲の子たちは、舞踏会のように軽やかに動き回り、楽しげにグループを作っていく。
わかっている。
誰も、わたくしに声をかけようとはしない。それが当然なのだ。
気安く近づけない存在。
第三王女――その肩書きは、名前より先に距離を生む。
(……別に、一人でも構わないわ)
そう、思っていたはずなのに――
小さな声が、わたくしの名を呼んだ。
「フィリーナ様……」
その声音は、思っていたよりもずっと柔らかくて、そしてあたたかかった。
顔を上げれば、そこにいたのは――シオンさん。
少し不安そうに、それでも真剣なまなざしでわたくしを見つめていた。
「あの……私と、マリナさんと、一緒に組みませんか?」
その申し出に、わたくしは息を飲んだ。
――どうして? どうして、彼女たちは……。
わたくしは、その問いにすぐに答えることができなかった。
不意に差し出された手に、戸惑いと――そして、胸の奥にぽっと灯るような感覚が広がっていく。
……わたくしは、嬉しかったのだ。
誰かに“選ばれる”ということが、こんなにも心を揺らすものだったとは、思いもしなかった。
けれど、それを素直に受け入れるには――まだ、ほんの少しだけ勇気が足りなかった。
だから、わたくしは言葉を選び、できる限りいつもの調子で返した。
「……よろしいのですか?」
その問いは、わたくしのためのものだった。
“ほんとうにわたくしでいいのか”という、不安と、望みと、遠慮が入り混じった一言。
けれど、マリナさんの元気な声が、その問いを打ち消してくれる。
「もちろんです!」
その笑顔は、太陽のように明るくて、まぶしくて。
(……どうして、この子たちは、こんなにも眩しいのだろう)
気づけばわたくしは、自然と頷いていた。
「……では、ぜひ」
その瞬間、心の中で何かがそっとほどけた。
――それは、きっと初めてだったのだと思う。
自分の意思で、誰かの輪の中へ足を踏み入れたのは。
緊張と不安、そしてほんの少しの期待を胸に、わたくしはその手を取った。
◇
静かな光が、魔石の中心からゆらりと立ち上る。
その中心に、わたくしは――いる。
けれど、それは孤独ではなかった。
わたくしの魔力に、誰かのぬくもりが触れている。
澄んだ水音のような優しさと、やわらかく包み込むような旋律の気配。
(これが……共鳴?)
魔力の流れに意識を傾けると、まるで三つの音色がゆっくりと交わっていくような感覚があった。
わたくしの中の“光”が、誰かの“歌”に引かれるように、そっと脈を打つ。
(こんなふうに、誰かと魔力を通わせるなんて……)
初めてのことだった。
魔力は、王族にとって“誇示”の対象であって、誰かと“合わせる”ものではなかったから。
けれど今は――違った。
この共鳴の中で、わたくしは誰かとつながっている。
(あたたかい……)
胸の奥が、少しだけ痛くなった。
それは、懐かしいような、切ないような、でも確かに“嬉しい”と名付けられる感情だった。
(もし、これが……)
(わたくしにも“ともだち”と呼べる存在ができるなら)
その思いは、誰にも聞かれない心の中の呟き。
けれど、確かに流した魔力の奥に、その願いは乗っていた。
共鳴の光が、花のように咲いたとき――
わたくしは、ただ見惚れていた。
(……きれい)
心からそう思った。
この輝きは、三人で生み出した奇跡。
それだけで、今日はもう、十分だった。
◇
放課後。
夕暮れが近づいた教室で、最後に残っていたのは、わたくしと――シオンさんだった。
マリナさんは「お迎えが来てるから先に帰るね」と明るく手を振って教室を後にした。
その後、わたくしは窓辺に立ち、シオンさんは机で教科書の整理をしていた。
互いに意識はしていながらも、声をかけるには、まだほんの少しだけ勇気が足りなかった。
けれど、あの共鳴の余韻が、どこか心をほどいてくれていた。
「……あの時の共鳴、まるで光が……歌っているように、感じました」
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
心の底に残っていた、あたたかな感覚をどうしても伝えたかった。
シオンさんは少し驚いたようにこちらを見つめ――やがて、ぽつりと呟いた。
「歌って……?」
「はい。言葉にはできないけれど、心があたたかくなるような……そんな光でした」
我ながら少し気恥ずかしくなって、視線を窓の外へ逸らす。
でも、彼女はそっと笑って、小さく頷いた。
「……それ、うれしいです。私、歌うのが好きで……」
その言葉の先は、口にはされなかったけれど――なんとなく、伝わってきた気がした。
彼女の“歌”が、ただの趣味などではなく、心そのものだということが。
「それが、きっと魔力にも表れるのですね。……あなたの魔力、とても優しかったです」
その想いは、わたくしの本心だった。
するとシオンさんは、ほんの少し顔を赤らめて、かすかに目を逸らす。
「……ありがとうございます」
その姿があまりにも素直で、どこか無防備で、思わず微笑んでしまいそうになる。
やがて、わたくしは鞄を手に取り、立ち上がった。
「では、また明日。……ごきげんよう、シオンさん」
名前を呼ぶと、彼女は一瞬驚いたように瞬きをして――それから、そっと微笑んだ。
「また明日、フィリーナ様」
わたくしは、その言葉を背に、そっと教室を後にした。
扉の前でふと振り返ると、シオンさんは席に戻り、何かを取り出していた。
白い紙の上に、そっとペンを走らせる姿が見える。
(……手紙かしら?)
確かめるつもりはなかった。
けれど、その横顔が、どこかやさしい光に包まれているようで――
わたくしは、もう一度だけ微笑んで、静かに扉を閉じた。
◇
(きっとこの先、わたくしの心はもっと揺れる)
けれど、その揺れを恐れずにいたいと思う。
それこそが、人を知るということなのだと。
――第三王女、フィリーナ・ノルディア。
使命ではない、想いの物語が。
静かに、でも確かに始まろうとしていた。
あの白銀の光に導かれるように。
わたくしは、歩み始めた。
(願わくば――その光が、決して曇ることなく、未来を照らしてくれますように)
お読みくださり、ありがとうございました。
フィリーナにとっては初めての“輪”への一歩、そして誰かと魔力を重ねるという体験。
その中で芽生えるやさしい感情や、小さな憧れが、未来へと続く道を照らし始めます。
静かだけれど確かな想いの物語。
これからの三人の関係にも、どうぞご注目くださいませ。




