35 祝福の箱庭、心ふれあうひととき
王都の春は、静かに、けれど確かに季節の訪れを告げていた。
高台に建つエルステリア侯爵家の館にも、やわらかな陽光が差し込み、庭の花々が一斉に咲き始めている。中庭では白い花びらが風に舞い、小鳥たちのさえずりが、まるで誕生日を告げる前奏曲のように響いていた。
「ふふっ……今日は、特別な日」
私は自室の鏡の前で、ふわりとスカートの裾を揺らしてみる。
今日はお誕生日。お母様が用意してくださった、淡い桜色のドレスは、小さなリボンと花の刺繍がちりばめられていて、ふんわりとした袖と銀糸のレースが春の光を柔らかく反射していた。
リリカお姉様が整えてくださった髪は、後ろでふんわりと結われ、小さな花飾りがゆれている。
「もう、シオンったら……自分の姿に見惚れてるんじゃない?」
背後から、くすくすと笑う声がした。
振り向くと、ドアの向こうにはリリカお姉様とリートお兄様が並んで立っていた。リリカお姉様は白いドレス姿で、リートお兄様は珍しくきちんと礼装を着ていて、どこか照れたような笑みを浮かべていた。
「そりゃあ見惚れもするさ。今日は、主役だからな」
「えへへ……ありがとう」
照れくさくなって、私は思わず笑ってしまった。
◇
朝食を済ませたあと、お母様の手を引かれて向かったのは、一階のサロンだった。
そこはいつもより少し広く、そして今日は――一面に花が飾られていた。
ピンクの花束、白いユリ、小さなデイジーに色とりどりの春の花々が、机の上にも、壁にも、そしてカーテンのタッセルにさえあしらわれている。窓から差し込む光がそれらをやわらかく照らし、空間全体が夢のようにきらめいていた。
「わぁ……!」
思わず声を上げてしまった私に、お母様がにっこりと微笑んだ。
「シオンのために、みんなで準備したのよ。誕生日は一年に一度の、特別な日でしょう?」
私はうなずいて、胸元のリボンをそっと押さえた。
そのときだった。玄関の扉が開く音がして、誰かの足音が廊下を駆けてきた。
「シオン!」
低く、あたたかな声が響く。その声を聞いた瞬間、私はぱっと顔を輝かせた。
「……お父様っ!」
次の瞬間には、私はドレスの裾を気にする暇もなく駆け出していた。
廊下の向こう、背の高い人影。肩幅が広く、凛々しい顔立ちの男性――クラヴィス・エルステリア。私のお父様だった。
「間に合ったか?」
「うん! すっごく間に合ってる!」
私は勢いよくその胸に飛び込んだ。お父様は驚いたように少しだけ息を詰め、それからゆっくりと私の背に腕を回してくださった。
「大きくなったな、シオン……もう五歳か」
「うん。……来てくれて、ありがとう」
お父様の胸は広くて、ぬくもりがあって、どこか懐かしい匂いがした。
私はその中で、ぎゅっと目を閉じた。
◇
午前中は家族だけで、ゆったりと過ごした。
お父様とリートお兄様が庭で軽く剣の素振りを披露してくださったり、お母様が焼いてくださった小さなクッキーを囲んで、サロンでお茶を飲んだり。
そして昼食後、私は思いがけないプレゼントを手渡された。
「これは、王都で今とても流行っている魔道具よ。“ミニホログラム箱庭《歌う庭園》”っていうの。シオン、気に入ると思って」
お母様が差し出したのは、小さな透明の箱。両手にすっぽり収まるくらいのサイズで、中には何もない、けれど底面に精巧な魔術回路のような模様が刻まれている。
「魔力を流すとね、小さな庭が現れるの。春の野原だったり、秋の森だったり、日によって出る景色が変わるんですって」
リリカお姉様が嬉しそうに説明してくださる。
「しかも、“歌”に反応して、中の風景が動くこともあるらしいぞ。蝶が飛んだり、花が咲いたりするって」
リートお兄様の言葉に、私は胸がどきどきしてきた。
「……試してもいい?」
私が尋ねると、お母様は微笑んでうなずいた。
「もちろんよ。みんなで見守ってるから、ゆっくりやってみて」
家族が見守る中、私は箱をそっと手に取り、膝の上に置いた。
そして、両手を添えて、心を静かに整える。
(お願い……きれいな景色が見えますように)
胸の奥で、ほんの少しだけ“歌”の旋律を思い浮かべながら、指先から魔力を流す。
すると――
箱の底が淡く光を帯び、透明だった空間にふわりと色彩が広がった。
咲き誇る春の花々、小さな泉、並木道に舞う花びら。ほんの一瞬で箱の中に広がったそれは、まるで絵本のように美しい箱庭だった。
「すごい……!」
私は思わず見入った。
箱の中の蝶が、ひとひら舞い上がる。その羽ばたきに合わせて、草が揺れ、泉にきらめきが走る。
その様子を見ていたリートお兄様が、ぽつりと呟いた。
「魔力の反応が……強いな。普通はここまで動かないぞ」
「……やっぱり、シオンの魔力が特別なのかしら」
リリカお姉様が、やわらかく笑った。
「ねえ、シオン。この庭園に……少しだけ、“歌”をのせてみない?」
お母様のその言葉に、私は小さくうなずいた。
家族の前で歌うのは、初めてだった。
でも、今日は――私の誕生日。大切な人たちが、そばにいる。
私はそっと目を閉じ、小さな声で歌い始めた。
「……春の 光に 揺れる 花びら……」
その瞬間だった。
箱の中の光景が、まるで命を得たかのように輝き出した。蝶が舞い、風が吹き抜け、泉がふわりと光を放つ――
そして、次の瞬間。
眩い閃光が部屋全体を包んだ。
部屋が一瞬で、色と風と光に満ちた幻想的な空間に変わっていた。
咲き誇る花々、舞う蝶、本物の風――サロンの壁が消え、目の前に広がっていたのは、箱の中にあったはずの“箱庭”そのもの。
「……これ、夢じゃないよね?」
リリカお姉様が小さくつぶやいた。
私は手元を見た。“ミニホログラム箱庭”はまだそこにあったけれど、今広がっている光景は、決して投影ではない。――本物だった。
「これ……“箱庭”の中に、入っちゃってる……?」
リートお兄様が、周囲を警戒するように見回す。
「いえ、逆……“箱庭”の方が、外に出てきているのよ」
お母様が、静かに呟く。
私は、不思議と、まったく怖くなかった。
ただ、胸の奥がぽかぽかしていて。
(私の“歌”が……この景色を、呼んだの?)
「……ありがとう。綺麗だね」
そうつぶやいたとき、花びらがふわりと宙に舞い、足元から小さな花の道が伸びていった。
そのとき――
腕に抱えていたルナちゃんの胸元が、ふわりと光った。
柔らかな金色のきらめきが、箱庭の光と呼応するように瞬いたのだ。
(……ルナちゃんも、感じてるの?)
シオンは驚いたように目を瞬かせたが、なぜかその光が、とても“やさしいもの”に思えてならなかった。
ルナちゃんの瞳はいつも通り、けれど――どこか微かに、笑っているように見えた。
父様は、ずっと黙ってその光景を見つめていた。
そして、ゆっくりと歩み寄り、私の頭に手を置いた。
「――お前が持つのは、“誰かを癒し、包む”魔法だ。……きっと、世界の在り方そのものを変える力だろう」
その言葉に、私は胸の奥で、静かに何かを受け取った気がした。
私の“歌”は、まだ誰にも理解されていない。けれど――
きっと、ここから始まる。
“魔法”とも、“技術”とも、ただの“感情”とも違う、“わたしだけの力”。
それはこの日、この瞬間に確かに芽吹いた。
五歳の誕生日は、ただの節目ではなかった。
“わたしの魔法”の存在が、初めて家族の前で“形”になった日。
新しい風が、そっと背中を押してくれた気がした。
私は、未来に向かって、ほんの少しだけ、まぶたを閉じる。
――これは、始まりの“歌”。
私だけの、“箱庭の奇跡”だった。
◇
箱庭の奇跡が静かに消え、サロンが元の姿を取り戻したころ――
日も傾き始め、館の空気に夕餉の香りがふわりと広がっていた。
ダイニングホールの長テーブルには、今日のために用意された特別な料理が並んでいた。
こんがり焼かれた仔羊の香草グリル、彩り豊かな野菜のグラッセ、鱒のムニエルにはレモンバターソースがかけられていて、皿の上で淡く湯気を立てている。
家族が揃い、席に着く。
「五歳のお誕生日、おめでとう、シオン」
お母様の声に続いて、お父様、リートお兄様、リリカお姉様が口々に祝福をくれた。
「ありがとう、みんな……」
私はちょっぴり照れながら、笑顔で答えた。
フォークを手に取り、料理に口を運ぶたび、どこか懐かしくてあたたかい味が広がる。
それが、家族と一緒に囲む食卓の魔法なのだと、今なら少しわかる気がした。
「それにしても……まさか、あの箱庭がここまで反応するとはな」
お父様が低く呟くと、リートお兄様もうなずきながら言った。
「空間干渉をあれほど自然に起こせる魔力……やっぱり、ただの感応魔道具とは思えない」
「ふふっ、でも、シオンだからこそよ。きっと、“歌”に込めた想いが、あの庭に命を与えたのね」
リリカお姉様が微笑みながら言う。
私は小さくうなずいて、胸に手を当てた。
(ううん、まだ上手く説明はできないけれど……)
(でも、あの時、たしかに“届いた”って思った)
今日、この一日がどれほど大切な意味を持つのか、きっと後になってもっとわかるのだろう。
そして、その“始まり”を、家族と共に迎えられたことが、何よりも嬉しかった。
◇
夕食のあと、デザートとして運ばれてきたのは、淡いピンクの花びらがあしらわれた誕生日ケーキだった。
「わぁ……!」
いちごの香りと、ふんわりしたスポンジの甘い匂い。
ろうそくの灯が五本、静かに揺れている。
「さあ、シオン。お願い事をしてから、吹き消しましょう」
お母様の声に、私はそっと目を閉じた。
(……これからも、みんなが笑顔でいられますように。私の“歌”が、誰かの力になれますように……)
そして、ふっと息を吹きかける。
ろうそくの灯がすべて消えた瞬間、テーブルの上から家族の笑顔がぱっと咲いた。
「おめでとう、シオン!」
「おめでとう!」
「よく吹き消せたわね、えらいわ」
拍手に包まれて、私は照れ笑いを浮かべながら、「ありがとう」を繰り返した。
この夜のことを、きっとずっと忘れない。
◇
夜――
お風呂に入って温まったあと、私はお気に入りのナイトドレスに着替え、ルナちゃんを抱いてベッドに入った。
カーテンを少し開けておくと、王都の夜空が窓の外に広がっている。
星がいくつも瞬いていて、そのひとつひとつが、今日の思い出を優しく見守ってくれているようだった。
私は目を閉じたまま、ふと、今日の出来事を静かに思い返す。
(“箱庭”の景色……あれは夢じゃなかった)
(“歌”が、本当に届いたんだ)
お父様の手、
お母様の微笑み、
リリカお姉様の驚き、
リートお兄様のまなざし。
全部、全部、嬉しかった。
「……ルナちゃん。今日は、とっても、素敵な日だったね」
ぬいぐるみの胸にそっと頬を寄せながら、小さな声でささやく。
「またいつか、あの庭に行けるかな。……今度は、もっと上手に、歌えるようになってるといいな」
胸の奥がほんのりと温かくなった。
私はそっと毛布を引き寄せ、まぶたを閉じる。
静かな夜風が、カーテンの隙間からそっと吹き込み、ルナちゃんの耳を揺らした。
春の王都の夜――
“歌”の魔法が、芽吹いた一日。
その余韻を胸に抱きながら、私は眠りについた。
夢の中で、もう一度あの箱庭が、そっと花開いているような、そんな気がした。
五歳の誕生日は、
ひとつの節目でありながら、
見えない想いがかたちになった、
かけがえのない“はじまり”でした。
花ひらく箱庭、ぬくもりの言葉、
胸に灯る小さな光。
それは“魔法”と呼ぶにはまだ幼く、
けれど、確かに心を揺らすものだったと思います。
この一日が、
未来へと続く静かな道しるべとなりますように。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
また次の物語で、お会いできますように。




