34 やさしい午後に、心ふれた日
春の陽差しが、学院の白い校舎をやわらかく照らしていた。まだ朝の光は淡く、空気に混じる冷たさの中に、確かな温もりを感じる。
私は、昨日とは少し違う足取りで、王立セレナリア学院の正門をくぐった。
胸の奥に、ほんの小さな光が灯っているような感覚――それは、マリナさんと過ごした昨日の午後、あの庭で交わした言葉の余韻だった。
(今日も……話せるといいな)
自然と視線が、初等部の教室が並ぶ方へと向かう。
◇
教室の扉をそっと開けると、登校している生徒はまだまばらだった。けれど、その中に見慣れた蒼い髪を見つけて、胸の奥がふわりと温かくなる。
「おはよう、シオンさん!」
マリナさんが、笑顔で手を振ってくれた。
「……おはようございます、マリナさん」
自然と返せた挨拶。昨日より少しだけ、声が軽やかだった気がする。
昨日の午後、彼女の手を包んだ時――私の“歌”が、ほんの少しだけ痛みを和らげた気がした。その感覚は、魔法というよりも、感情そのものがふわりと重なったような、不思議な感覚。
(あのとき、ほんの一瞬だけ――でも、確かに光が生まれた)
あれが、私の“魔法”だとしたら――。
まだ確信は持てない。でも、その可能性が、胸の奥をそっと温めていた。
私は静かに自分の席につき、筆記用具を取り出す。
「昨日……その、最後に話したあのこと、ずっと考えてて」
マリナさんが、そっと視線を落とすように言った。
「……私もです。あの時、ほんの少しだけ、何かがつながったような気がして」
そう答えると、彼女はほっとしたように微笑んだ。
「そっか。じゃあ、よかった」
それだけのやりとりでも、心の距離が少しずつ近づいていくのを感じる。
◇
午前一時限目は、魔法理論。
教壇に立つエルシア先生が、今日の授業内容を黒板に記していく。
「さて、今日のテーマは“魔力の流れと個人差について”。魔法というのは、単に属性を持っていれば使えるというものではありません」
先生は、黒板に描いた魔力の流れ図を指しながら続けた。
「大切なのは、どのように“自分の中の魔力”を意識し、外に導けるか。そして、それがどのように“自分らしさ”と結びつくかということです」
(……自分らしさ、か)
私は昨日の出来事を思い出していた。
あの時、確かにマリナさんの足にふれたとき――私の“声”が反応した気がした。目には見えない何かが彼女の痛みを包んだような、優しい光のような感覚。
(私にしかできない“何か”が、あった……のかも)
けれどそれは、教科書にあるような魔法の型とは違う。詠唱も、構えも、集中も――なかった。
ただ、感情と声が自然に重なった、その瞬間。
「属性魔法だけにこだわらず、自分の魔力の“質”や流れを知ることも重要です。焦らず、じっくり探っていきましょうね」
先生の柔らかな声が、教室全体に静かに染みわたった。
ノートの隅に、私は小さく“歌の魔法”と書き足す。
まだ確信はない。でも、心の奥にある“なにか”が、そこに向かって手を伸ばそうとしていた。
そのあと、授業は魔力量のイメージ訓練へと移り、生徒それぞれが自分の属性に意識を向ける時間が続いた。
(私の魔力って……どんな“色”なんだろう)
思い浮かぶのは、昨日、マリナさんの足元にふわりと舞った光。
あのやさしい“光”を、もう一度、感じることができたら。
◇
次の授業は、実技演習。
広々とした演習場には、属性ごとの魔石が用意され、生徒たちはそれぞれの持つ属性に応じて練習に入っていく。
私は列の最後で、静かに風の魔石の前に立った。
「無理はしなくていいからね。呼吸を整えて、風の流れに心を重ねてみて」
エルシア先生の声にうなずき、私はそっと手のひらをかざす。
(……風の流れ)
ゆっくりと息を吸って、吐いて。風のように、軽やかに――。
でも。
手のひらには、何も起こらなかった。
周囲の生徒たちは、微風を起こしたり、小さな渦を生み出したりしている。
マリナさんの前では、小さな水泡がぽとりと浮かんでいた。
その様子を見て、私はそっと視線を落とした。
(やっぱり……私には、できないのかな)
焦れば焦るほど、魔力は遠ざかっていくような気がする。
先生の目を感じた。でも、何も言わず、ただ静かに見守ってくれている。
私は結局、何ひとつ反応を起こせないまま、その時間を終えた。
(……ごめんなさい)
心の中で、誰にともなくそう呟いた。
だけど――
演習が終わった後、マリナさんがそっと近寄ってきた。
「大丈夫、シオンさん?」
「……うん。ちょっとだけ、難しかった」
私がそう答えると、マリナさんはふわりと笑った。
「誰でも最初はそうだよ。私も、水の感覚をつかむまでに何年もかかったもん」
「……ありがとう」
その言葉が、胸の奥の硬さを、少しだけやわらかくした。
◇
昼休み。
食堂の扉をくぐると、暖かな香りが鼻をくすぐった。
高い天井と大きな窓からは陽光が注ぎ、磨かれた木の床に光が踊っている。
「シオンさん、あっち、空いてるよ!」
マリナさんが笑顔で手を振ってくれる。
「……うん、ありがとう」
配膳を終えた私たちは、窓際の席に並んで座った。
今日の昼食は、焼きたてのパンにハーブバター、鶏肉と根菜のスープ、それに甘酸っぱい果物のジュレ。
「いただきますっ」
「いただきます」
二人で声を合わせて手を合わせ、食事を始めた。
「午前中、演習どうだった?」
マリナさんが口元をぬぐいながら、こちらを見た。
「……うまく、できなかった」
私は正直に答える。
「でも、あせらなくていいよ。私も最初の頃、魔力が全然集まらなくて、何回も泣いたことあるんだ」
「……えっ、マリナさんが?」
「うん。だって、期待されてたし。でも、そういう時に“誰かがそばにいてくれた”ってことが、すごく支えになったの」
その言葉に、私は静かに息をのんだ。
(私にも、支えてくれる人がいる……)
それが、どれほど大きな意味を持っているのか。
じんわりと胸に広がる感情を抱えながら、私はもう一度、マリナさんの顔を見つめた。
「ねぇ、シオンさん。あのね……」
マリナさんが少しだけ声を低くして、そっと身を乗り出した。
「今日の演習の時、隣で見てて思ったんだけど……シオンさん、魔力の感覚、普通のやり方じゃない気がするの」
「……え?」
「うまく言えないんだけど、私、シオンさんの“歌”を聴いた時、何かがふわって流れたような気がして」
「それって……昨日の?」
「うん。昨日の庭で、転んだ時に。あの時の“声”が、私の中にすっと入ってきて……なんて言うのかな、魔法じゃないけど、魔法より温かくて、やさしい」
私は言葉を失った。
(……歌の魔法)
やっぱり、あれは偶然なんかじゃなかった。
「だから、普通の魔法に合わせる必要、ないんじゃないかなって思って」
マリナさんは笑った。その笑顔は、どこまでも真っ直ぐだった。
私の胸に、じんわりとした何かが広がる。
そしてその時、ふと――
「……ありがとう、マリナちゃん」
自分でも気づかぬうちに、“さん”を外していた。
マリナちゃんは、目をぱちくりとさせた後、ぱっと笑った。
「えっ、いま……“ちゃん”って呼んだ?」
「……うん。なんか、その方が、しっくりくる気がして」
「今の、すごく嬉しいかも!」
頬を赤らめながら笑うマリナちゃんに、私も小さく微笑み返した。
「……なんか、ちょっと恥ずかしいけど……嬉しい」
「ねえ、私も、シオンちゃんって呼んでもいい?」
「えっ……もちろん」
「じゃあ、これからは“ちゃん”で呼ぶね。なんか、もっと仲良くなれた気がする!」
その言葉は、確かに私の中の何かを、優しく溶かしていった。
(“ちゃん”で呼び合うだけで、こんなにも嬉しくて、胸があたたかくなるなんて……)
(これが、本当の“友達”ってことなのかな……)
昼休みが終わるチャイムが鳴り、私たちは食器を返して教室へと戻った。
廊下を並んで歩くその距離が、昨日よりもほんの少しだけ近づいている気がした。
マリナちゃんの横顔は、春の光に照らされて、とても優しく見えた。
「午後の授業、また魔法の演習っぽいね」
「……うん、がんばってみる」
「無理しないでね。また、帰りに一緒に復習しようよ。ふたりならきっと、できるよ」
「……ありがとう、マリナちゃん」
その名前を呼ぶことが、こんなにも心に灯をともすなんて思わなかった。
◇
午後の授業は、より実践的な魔力操作だった。
私はまた手をかざして、風を起こそうとした。けれど――
(やっぱり、難しいな……)
でも、今日は昨日と違っていた。
隣に、マリナちゃんがいる。
誰にも負けない魔法がまだ見つからなくても、少しずつ自分を信じられる気がした。
(私の魔法は、きっと……)
思い出すのは、あの時の歌。共鳴した想い。
それが、私の歩むべき道に繋がっていると、今なら少しだけ信じられる。
◇
夕方。授業を終えた私は、マリナちゃんに見送られて学院の門を出た。
迎えの馬車は、石畳の通りに静かに停まっていた。
御者が扉を開けてくれると、私はそっと中に乗り込む。
「ただいま戻ります、お嬢様」
「ありがとう」
扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き出す。
窓の外には、王都の夕暮れが広がっていた。
陽が傾き、花咲き通りの店先にはランタンが灯され始めている。
ガラス越しに見るその光景は、朝に見た景色とはまた違って、どこか夢のようだった。
(……今日も、色んなことがあったな)
思い返すのは、演習でうまくいかなかったことよりも――
マリナちゃんと“ちゃん”で呼び合えた、あの瞬間のこと。
あのやりとりは、きっと私の中にずっと残っていく。
◇
王都の高台にあるエルステリア家の館に到着すると、扉の前で執事が待っていてくれた。
「お帰りなさいませ、シオン様」
「ただいま戻りました」
玄関を抜け、廊下を歩いて自室へと戻る。
扉を閉めると、ルナちゃんがいつもの場所で待っていた。
「ただいま、ルナちゃん」
私はベッドに腰を下ろし、ぬいぐるみをそっと抱きしめた。
誰にも言えない想い。けれど、胸の中では確かに芽生えていたものがある。
「……私、ちゃんと前に進めてるのかな」
窓の外、王都の空には、早くもいくつかの星が瞬いていた。
(明日も、ちゃんと歌えるように)
小さく心の中でそう願いながら、私はゆっくりと目を閉じた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
今回の物語では、シオンとマリナの関係が、少しだけ深まる一日を描きました。
“ちゃん”で呼び合えるようになる、ただそれだけのことかもしれません。
でも、それがどれだけ勇気のいることで、どれほど心を近づけるものなのか……シオンにとっては、きっと大きな一歩だったはずです。
魔法としてはまだ形を持たない“歌のちから”。
けれどそれは、誰かの心に触れ、共鳴し、やさしく寄り添うものかもしれません。
焦らず、少しずつ――。
そんなシオンの歩みを、これからも見守っていただけたら嬉しいです。
次回も、どうぞよろしくお願いいたします。
もし、少しでも心に残る場面がありましたら……
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