33 ささやかな声、はじめての“共鳴”《後編》
学院の中庭。夕方の空気は、昼間の陽気とは違って、ほんのりと冷たさを含んでいた。
でも、風は優しかった。花壇の花がささやくように揺れ、落ち葉の擦れる音が、静かな背景音のように広がっている。
マリナさんは芝生に腰を下ろすと、ちらっと私を見て笑った。
「ここ、落ち着くんだ。よく一人で来てたんだけど……今日は、シオンさんと一緒がいいなって思って」
「……ありがとう」
その言葉だけで、十分だった。
二人で並んで座り、沈む陽をぼんやりと見上げる。空は少しずつ、橙から茜へ、茜から紺へと変わりゆく。
沈黙が続く。でも、不思議と居心地は悪くなかった。
やがて――マリナさんが、そっと口を開いた。
「今日のこと、だけどね」
私はびくりと肩を震わせた。
「わたしが転んだ時……あれ、シオンさんが、何かしてくれたんだよね?」
問いかけは、優しかった。詰め寄るような勢いは一切なく、ただ確かめるように。
「……っ」
私は少しだけ視線を落とした。
あれは、偶然だったのか。それとも意図して発動した“魔法”だったのか。自分でも、まだはっきりわかっていない。
けれど。
「……小さい頃から、時々……歌うと、光が出たり、空気がやわらかくなったり、草花が揺れたりすることがあって……。でも、それが何なのかわからなくて」
私は、ゆっくりと話し始めた。
「もしかしたら魔法かもしれない、って思ってたけど……魔石も反応しないし、属性も決まってないし……ずっと、誰にも言えなかったの」
マリナさんは、黙って聞いてくれていた。途中で口を挟むことも、表情を変えることもなく、ただ、私の言葉を受け止めるように。
「でも、歌うことだけは……好きだったの。誰かの心に、届くような、あたたかい歌を歌いたくて……」
そこまで話すと、マリナさんが小さく息を吸い――
「じゃあ、今ここで。その“歌”を、わたしだけに聴かせてくれない?」
私は、思わず顔を上げて彼女を見た。
その瞳は、真っ直ぐだった。好奇心でもなく、疑念でもなく――ただ、私の歌を“聴きたい”という願いが宿っていた。
私は、ほんの少しだけ迷った。
でも、彼女の目を見た瞬間、胸の奥に小さな光が灯るのを感じた。
「……じゃあ、ほんの少しだけ」
私は深く息を吸い込んだ。
(だいじょうぶ。ここには、マリナさんしかいない)
私の中に浮かんだのは、幼い頃にひとりで口ずさんでいた、あたたかい旋律だった。
それは子守歌のようで、祈りのようで、でも誰かのために歌いたいと、心から願った“想い”だった。
「……ほしの きらめき やさしく つつむ……」
声はとても小さく、震えていたかもしれない。
けれど、紡ぐたびに、胸の奥にある何かが少しずつほぐれていく。
風が、止まった。
空気が静まり返る。
私の歌声は、さざ波のように、静かに周囲に広がっていった。
そして――
マリナさんの足元に咲いていた、小さな草花が、ふわりと揺れた。
誰も触れていないのに。風も吹いていないのに。まるで、優しく手のひらで撫でられたように。
花弁の端が、かすかに光を反射していた。水面に落ちた一滴の雫のように、静かに波紋を広げるように。
「……いま、なにか……」
マリナさんが、息を呑む声が聞こえた。
「私……魔力が、少し動いた気がした。自分では、なにもしてないのに」
私は、はっとして彼女の顔を見た。
その目には、戸惑いと、かすかな興奮が混ざっていた。
(まさか……)
これまで、誰かに影響を与えられたことなんて一度もなかった。
歌うことで自分の心が少し楽になることはあっても、周囲に“変化”が起こったことなんて。
でも、いま――たしかに、マリナさんの魔力が、私の歌に反応していた。
(これが、“共鳴”……?)
これまでだって、風が動いたり草花が揺れたりしたことはあった。けれど――“誰かの魔力が動いた”って感じたのは、これが初めてだった。
「……すごい」
マリナさんが、ぽつりとつぶやいた。
「シオンさんの歌、ちゃんと届いてるよ」
「……ありがとう」
その言葉が、胸の奥にあたたかく染みわたっていく。
(……でも、“魔法”って、こんなにも曖昧で、あたたかいものだったのかな)
わたしの“声”が揺らしたのは、風か、草花か、それとも……マリナさんの“心”だったのか。
私は、いま――何かが、少しだけ変わった気がした。
◇
夕日が完全に沈む前、私たちは中庭をあとにした。
並んで歩く帰り道。マリナさんは、変わらず明るい声で話しかけてくれた。
「ね、今度また歌ってね。今度はもう少しだけ長く聴きたいな」
「……うん。ちょっとずつ、練習してみる」
私の声は、ほんの少しだけ強くなっていたかもしれない。
(もしも、あの歌が“魔法”なら――)
(私は、誰かのために、その力を使いたい)
(……そしていつか、ちゃんと“名前”をつけてあげられるように)
中庭から校舎へ戻る途中、ふと足を止めたマリナさんが、そっと振り向いた。
「シオンさん」
「……うん?」
「わたしね……今日、ちょっとだけ泣きそうになった」
突然の言葉に、私は目を見張る。
「歌を聴いて、じゃないよ? ……でも、誰かがまっすぐに“気持ち”を込めてくれたのって、たぶん初めてだったから。なんだか、あったかくて……」
彼女の笑顔は、少しだけ泣き笑いみたいだった。
私は、言葉にならない何かがこみあげてきて、うなずくことしかできなかった。
(この声が、心に届くなら――)
(私は、きっと、大丈夫)
そんな確信が、胸の奥にそっと灯った。
◇
そのあと、私たちは無言で並んで歩いた。けれど、その沈黙は居心地の悪いものではなかった。
夕暮れの光は、もう建物の端にだけ残り、廊下の影を長く伸ばしていた。窓ガラスには橙の残光が映っていて、それがどこか魔法のように見えた。
私は、さっきマリナさんが言ってくれた言葉を、何度も胸の中で繰り返していた。
(あったかかった、って……)
あのとき、歌を口にするのは怖かった。知らない誰かに見られること、また変に思われること、それが何より不安で。
でも――私は、歌った。
誰かのために、歌った。
そしたら、ちゃんと届いた。
“共鳴”した。
マリナさんの魔力が、私の声に応えて揺れた。
(魔法は、想いと響き合う力……)
エルシア先生が、そう言っていた。
なら――この“歌の魔法”は、私がずっと探していた、私にしかできない魔法なのかもしれない。
◇
その夜。私は、いつものようにルナちゃんを抱いて、窓辺に座っていた。
でも、昨日までとは違う気持ちだった。
不安もある。戸惑いもある。けれどその奥に、確かな“手応え”がある。
外の空には星が広がり、夜風がカーテンをそっと揺らしていた。
「……今日ね、ルナちゃん。私、はじめて、“届いた”って感じたの」
ルナちゃんは、何も言わずに膝の上にいてくれる。
「マリナさんの魔力が、私の歌に反応したの。ふわっと風が起きて、草花が揺れて、それだけじゃなくて……ほんの少しだけ、彼女の魔力が震えたの」
あの瞬間の手応えを、私は忘れられない。
心が触れ合ったような、不思議な感覚。
「たぶん、これが“共鳴”なんだと思う。魔力と、想いと、声が繋がる……そんな感じの」
窓の外を見上げると、遠くの空にひときわ大きな星が輝いていた。
それを見ていると、自然と胸の中から言葉が溢れてくる。
「……でも、私、ただ魔法を使いたいんじゃないんだと思う」
心の奥から浮かんできた本音。それは、これまで誰にも話せなかった、けれどずっと抱えてきた想い。
「私は、“歌いたい”んだ。心を、誰かに届けたくて――だから、歌いたいの」
それは、いつか見た“アイドル”という存在への、強い憧れだった。
この世界にはまだ存在しない概念。“誰かに笑顔を届ける存在”。“歌で想いを伝える存在”。
「……私、アイドルになりたいんだ」
その言葉を口にするのは、ほんの少しだけ怖かった。
けれど同時に、これほど素直に言えたことも、初めてだった。
その瞬間、胸の奥で何かが静かに灯るような気がした。
(これは、本当に“魔法”だったのかな……)
でも、私の声が触れた“何か”は、確かに存在していた――そう信じたくなるほどに。
――それでも、夢は、まだ誰にも話せない。
今日のことも、きっと誰にも信じてもらえないかもしれない。
でも、それでも……私は信じていたい。
あの歌が、たしかに光になったこと。
マリナさんの魔力が、ふわりと揺れたこと。
そして、私の“声”が、誰かに届いたということ。
(この気持ちを、忘れないようにしよう)
私はそっと机に向かい、ノートの端に小さく書きつける。
「――アイドルになりたい。
歌で、誰かの心に触れたい。
笑顔を届けたい。
それが、私の“夢”」
ページを閉じた指先が、少しだけ震えていた。けれど、その震えは恐れからではなかった。
“初めて、はっきりと夢を言葉にした”――その確かさが、全身に伝わっていた。
窓の外の星が、瞬きをひとつ強めた気がした。私はそっとルナちゃんを抱き直し、静かに微笑んだ。
「……おやすみ、ルナちゃん。明日も、がんばるから」
そして私はベッドに入り、ふわりと毛布をかけた。目を閉じると、あの時の歌の残響が、まだどこかに残っている気がした。
それは小さくて、かすかだけれど、確かな光の粒。そして私は、その小さな“ひかり”を胸に、眠りについた。
――明日もまた、歌えるように。
誰にも知られず、誰にも届かないと信じていた“歌”が、はじめて誰かの心に触れた日。
それは、シオンにとっての小さな奇跡であり、確かな“第一歩”でした。
歌に応えて動いた魔力、優しく揺れた草花、そして「届いたよ」と伝えてくれたマリナさんの言葉。
“歌の魔法”というまだ名もなき力が、想いを繋げる力になりはじめています。
彼女はまだ、夢を口に出せません。
けれどその胸には、たしかに「歌で誰かを笑顔にしたい」という願いが灯りはじめています。
この想いが、いつか“夢”と呼べるものになるように――
そんな彼女の歩みを、これからも見守っていただけたら嬉しいです。




