32 ささやかな声、はじめての“共鳴”《前編》
朝の教室は、いつもより静かに感じた。
廊下には元気な声が響いていたのに、扉をくぐった瞬間、空気がぴたりと澱んだような錯覚に包まれた。
――昨日の魔力共鳴実験で、私が触れた感応水晶が放った、七色の光。
六属性が常識のこの世界で、それは決して起こるはずのない現象だった。誰も説明できず、けれど確かに「何かが違う」と感じさせる、そんな色だったのだと思う。
私は、できるだけ目立たないように、そっと席に座った。椅子の脚が床を擦る音さえ気になって、動作を最小限に抑える。
(……大丈夫。気にしない。昨日より少しだけ)
そう心の中で唱えてみても、教室中に漂う沈黙が、私の小さな声をかき消していく。
そんな中――
「おはよう、シオンさん!」
ぱっと明るい声が飛んできた。
マリナさんだった。変わらぬ笑顔で、私に手を振っている。
「……おはよう、マリナさん」
私は少しだけ表情を緩めて返事をした。
マリナさんは、昨日のことを何もなかったように接してくれる。それが、どれだけ救いになっているか――うまく言葉にはできないけれど、私はその自然な空気に、何度も助けられていた。
でも、それでも。
(……私は、また“特別”として見られてしまったんだ)
一人一属性が常識のこの世界で、“七つすべて”の属性が同時に共鳴し、光を灯す――本来あり得ないはずの、重なり合う異常。
しかも、それが誰の力によってもたらされたのか、教室の誰もが知っている。
そして――私自身でさえ、その力の意味を、まだ理解できていなかった。
◇
午前の授業は、属性ごとの基礎制御訓練。
昨日と同じく、机の上に置かれた魔石に魔力を通し、反応を確かめるというもの。
私は火属性の魔石を前に、指先をそっとのせる。
少し冷たい感触。魔石は、私の手を拒んでいるかのように、まったく反応を示さない。
(お願い……ほんの少しでいいから)
昨日もまったく反応しなかった。今日は少しでも……と思っていたけれど、結果は変わらなかった。
私のすぐ隣で、マリナさんの水属性魔石が淡く揺れていた。
「うーん、やっぱり水って難しい……力を込めすぎると反発するし、抜くと沈黙するし……ちょうどよくって、ほんとむずかしい~」
苦笑しながらも、彼女の魔石はちゃんと応えていた。たとえ完璧でなくても、反応があるということは、それだけで安心をくれる。
「……でも、反応してるんですね。ちゃんと」
「まあね。ちょっとだけ、だけどね。シオンさんは?」
「……ぜんぜん、です」
言葉にするのが、少しだけ悔しかった。でも、嘘をつきたくはなかった。
私は、できることが、まだ何もない。
その時。
「うわ、ごめんっ!」
突然の叫び声が教室を走った。全員の視線が一斉に声の主へと向く。
斜め後ろの席で、少年が焦ったように身を引いていた。彼の火属性の魔石が、予想以上の反応を起こしたのだろう。魔石の表面が赤く脈打ち、小さな炎が弾けるようにして空間に飛び出した。
それは火の矢のように、一直線に前方へ――燃える帯が、まっすぐにマリナさんを目がけて走っていった。
「危ない!」
私が声を上げるより早く、マリナさんがとっさに腕を差し出して、炎の軌道を遮った。
直後、彼女の体がよろめく。
炎の熱で反射的に身を引いたせいか、机の角に腕をぶつけ、そのままバランスを崩して尻もちをついた。
「マリナさん!」
反射的に立ち上がった私は、椅子を後ろに倒しかけながら駆け寄った。
彼女は驚いたように私を見上げて、それからすぐに、いつもの笑顔を浮かべた。
「う、うん……ちょっと擦りむいただけ。大丈夫」
そう言って差し出した手の甲には、小さな傷――赤く擦れたようなあとがあった。
火傷というほどではないけれど、皮膚が赤くなり、かすかに熱を帯びている。
彼女が無理に笑ってみせていることは、すぐにわかった。ほんのわずかに眉が寄っていて、声の端に、かすかな痛みの色が混ざっていた。
私の胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
(守ってくれたのは……マリナさんなのに)
その事実が、胸の奥で膨らみ、息を苦しくさせた。
(私には……何も、できない)
そう思ったとき。
手が、動いていた。
私はそっと、マリナさんの手を自分の両手で包み込んだ。
その瞬間、胸の奥から、何かがこみ上げてきて――自然と、声が漏れた。
「……だいじょうぶ……痛く、なくなりますように……」
それは、旋律でもなければ、詠唱でもない。ただ、願いを込めた“声”だった。
でも――その声が、空気を震わせた。
私の手のひらから、淡い光がにじみ出す。
透き通った、ほんのり揺らぐ温かな光。それがマリナさんの手にふわりと流れ込み、赤く腫れた傷を包み込んでいった。
数秒の静寂ののち。
「……あれ?」
マリナさんが、自分の手を見て、目を見開いた。
そこには、傷がなかった。
ほんの数秒前まで痛みを帯びていたはずのその場所が、まるで何事もなかったかのように元通りになっていた。
教室が、凍りついたように静かになった。
「いまの……何?」
「魔法? でも、詠唱してなかったよね……」
「光の癒し系? でも属性合ってないし……」
「歌、みたいな……響きだった」
生徒たちの戸惑いが、さざ波のように広がっていく。
私は、何も言えなかった。自分が何をしたのか、私自身が一番わからなかったから。
(これが……私の“魔法”……?)
自分の手の中に、まだ微かに光の余韻が残っているような気がした。
顔を上げると、マリナさんが、真っ直ぐに私を見ていた。
その目には、驚きと、それ以上に何かを受け止めようとする意志が宿っていた。
責めるでもない、怖がるでもない。
ただ、「知りたい」と言ってくれているような――そんなまなざしだった。
◇
午後の授業が始まっても、教室の空気はどこか落ち着かないままだった。
ざわめきはすぐに収まったけれど、静けさの裏に隠された「視線」は消えていなかった。
ふと誰かが紙をめくる音、椅子を引く小さな動作――そんな些細な音さえ、私の神経を尖らせていく。
(……誰も、声には出さないけど)
(やっぱり“変だ”って、思われてるのかもしれない……)
表向きは静かだったけれど、視線や息遣いの温度が、いつもと違う。それを肌で感じるたび、私はどんどん小さくなっていくような気がしていた。
――“特別”に見られること。
それは、決して誇らしいものじゃない。少なくとも、今の私にとっては。
七つの属性すべてが共鳴したかのような光。詠唱のない癒しの光。歌うような響き。
どれも、誰もやっていない。誰も知らない。だからこそ、“違い”として注目されてしまう。
私は目を伏せ、教科書のページをめくった。何が書いてあるのか、頭に入ってこない。それでも、ページを進めるふりだけはした。
(また、“変わった子”って思われたかもしれない)
その考えが、ずっと胸の奥に居座っていた。
でも。
隣に座るマリナさんだけは、まったく変わらなかった。
それどころか、いつもよりも少しだけ近くに椅子を寄せて、ちょっとした間違いを指差してくれたり、小声で「ここって、さっきのとこじゃない?」なんて笑って話しかけてくれたりして。
――ずっと、同じだった。
その自然さが、なによりも嬉しかった。
ほっとする時間。普通でいられる時間。
それがどれだけ尊いものか、初めて知った気がした。
(マリナさん……ありがとう)
心の中で、そっとつぶやいた。
◇
放課後。教室に残っていた私は、一人で鞄の紐を直していた。
少しほつれていたので、結び目を作り直そうとしていたのだけれど、なかなか上手くいかない。手元がふるふると震えているのは、気のせいではなかった。
頭の中では、先ほどの出来事が何度も繰り返されていた。
マリナさんの手を包んで、祈るように声をかけた瞬間。あのとき、確かに――光が、私の中から生まれた。
(本当に……私の中から出た、魔法?)
そうだとすれば、それは誰とも違うかたちの魔法だった。
それを、もう一度誰かに伝えてもいいのか。歌ってもいいのか。そう思ったとき、胸の奥がそっと震えた。
その瞬間、教室の外から足音が響いた。
「待って、シオンさん!」
廊下から駆けてくる軽やかな足音。振り返ると、マリナさんが息を切らしながら駆け寄ってきた。
制服の裾を押さえ、頬を赤くして、まっすぐにこちらを見ている。
少し呼吸を整えると、彼女は真剣な顔で言った。
「……少しだけ、話せる?」
その声に、私は――小さく、うなずいた。
マリナさんと目が合った。
その瞳に浮かぶまっすぐな光が、胸の奥の不安をそっと溶かしていく気がした。
夕暮れの教室に、柔らかな風が差し込んでいた。
誰かと気持ちが重なった瞬間、それはきっと、魔法よりも不思議で、あたたかな奇跡になるのだと思います。
うまく言葉にできなくても。
自分の力が何なのか、まだ分からなくても。
それでも――想いが誰かに届いたとき、そこには確かに“共鳴”が生まれる。
たとえ小さな声でも、大切に紡いでいけたら。
そんな願いをこめて、この一歩を描きました。
続きも、ゆっくり見守っていただけたら嬉しいです。




