30 はじまりの教室、揺れる気持ち(前編)
春の陽差しがやわらかく差し込む朝、私は昨日よりもほんの少しだけ軽い足取りで学院へ向かっていた。
はじめての登校、はじめての教室、そして――はじめての、名前を呼んでくれる誰か。
(マリナさん……今日も、いてくれるかな)
胸の奥にほんのりと灯った温もりを大切に包みながら、私は学院の門をくぐった。
◇
教室に入ると、すでに何人かの子たちが席に着いていて、昨日よりも少しだけ賑やかな空気が広がっていた。
私が扉を閉めると、すぐに弾んだ声が響いた。
「おはよう、シオンさん!」
振り返ると、蒼い髪のマリナさんが、机の上に身を乗り出すようにして手を振っていた。
思わず、私の顔にも笑みがこぼれる。
「……おはようございます、マリナさん」
「ふふ、“さん”づけだとよそよそしいなぁ。昨日あんなにいっぱい話したのに~」
「えっ……じゃあ、マリナ……ちゃん?」
呼んでみたその響きが、口の中でやけに新鮮だった。
普段は兄さまや姉さまたちのように、年長者を敬う呼び方が身についていて、「ちゃん」付けなんて、ほとんど使ったことがない。
「うん、それでいいよっ!」
マリナちゃんは目を細めて、うれしそうに笑った。
けれど――
(“ちゃん”って……やっぱり、少しくすぐったい)
慣れない呼び方に、舌先がもぞもぞする。
心の中では「ちゃん」って呼びたい気持ちもあるのに、口にするとどうしても照れてしまう。
だから結局そのあとも、私はつい、いつも通り「マリナさん」と呼んでしまっていた。
けれど、マリナさんはそんな私の戸惑いをまるで気にした様子もなく、変わらず明るく話しかけてくれる。
それが、とても嬉しかった。
無理に近づこうとしなくても、すっと隣にいてくれるような安心感。
話すたびに、少しずつ氷が溶けるように、心の奥がやわらかくなっていく。
私はこっそり、制服の胸元につけたリボンにそっと指を添えた。
そこに結ばれたぬくもりを、そっと確かめるように――小さく、ぎゅっと握りしめた。
◇
やがて教室の扉が開き、担任のエルシア先生が入ってきた。
「おはようございます、皆さん」
先生の柔らかな声に、教室がぴんと静まり返る。
「今日からいよいよ、授業が始まりますね。まずは“魔法”について、少しずつ理解を深めていきましょう」
そう言いながら、先生は黒板にゆっくりとチョークで文字を書いた。
『魔法とは、感情と共鳴する力である』
その言葉を見た瞬間、私の胸に静かに波紋が広がった。
(……やっぱり、“気持ち”が大事なんだ)
まだ誰にも話していないけれど、私が“歌”に乗せて出す魔法も、きっと感情と深く関わっている。そう、思った。
◇
「魔法は、詠唱や属性といった構成要素だけではありません。皆さんの“心”と“想い”が、魔力をどのように流し、形づくるか――それがとても大切なのです」
エルシア先生は教卓に置かれた魔石を手に取り、やさしく手をかざした。
「私は風属性ですから、これを見本にしますね。風はとても繊細で、心の揺れをよく映します」
先生の手元から、ふわりと風が巻き起こった。教室に飾られた小さな花が、そっと揺れた。
「皆さんには、属性に合った魔石を配っています。焦らず、自分の中の感情に寄り添うように、そっと魔力を通してみてください」
私の机には、風属性の魔石が置かれていた。
(風……やさしい流れ、広がっていくような……)
手をかざして、集中しようとする。でも――魔石はまったく反応しなかった。
まわりの席からは、ぽつぽつと成功の声が上がり始める。
「わ、ちょっと火花出た!」
「水が浮かんできたよ!」
そして、マリナさんの声も。
「うーん、ちょっと湿っただけって感じかな。水ってむずかしい〜」
苦笑まじりだったけど、ちゃんと反応している。
(私も……少しでいい。あたたかく……)
そう願っても、何も起きない。
◇
授業の後半、エルシア先生が各机をまわって声をかけていた。
「マリナさん、水の魔石が反応していますね。とても安定しています」
「えへへ、ありがとうございます!」
マリナさんが照れたように笑っている。
そして、先生は私の机の前にやってきた。
「シオンさん……大丈夫ですか?」
「……はい。でも、火が……ぜんぜん、出ませんでした」
私は視線を落としたまま、そう答えた。
エルシア先生は少しだけ目を細めて、それからやさしく言った。
「人によって魔力のかたちは違いますからね。すぐに火として現れなくても、焦る必要はありませんよ」
その言葉に、私は小さくうなずいた。
先生の言葉はあたたかくて、心に染みた。だけど同時に、どこか申し訳なさのようなものが胸の中に残った。
◇
授業が終わると、フィリーナ様が静かに立ち上がり、自分の魔石をそっと置いた。
魔石の表面には、たしかに光が生まれていた。
それは強い輝きではなかった。
でも、淡く揺れるその粒子は、水面に陽光が反射したように美しくて、静かで、清らかで。
まるで彼女自身の内面を映し出しているかのようだった。
「……さすがだね」
隣にいたマリナさんが、私に小さくささやいた。
私も、そう思った。
言葉にはしなかったけれど、魔法を“ちゃんと使いこなしている人”が目の前にいる、という事実に、胸の奥がふっと沈んだ。
その時だった。
フィリーナ様がふとこちらを振り向いた。
まっすぐに、私の目を見て――静かに、ひとことだけ。
「……努力すれば、誰にでもできることよ」
声は落ち着いていて、感情を込めたわけではなかった。
その目に、責める色も、優しさも、特別な意味も宿していなかった。
けれど――それでも、その言葉は、まっすぐに胸に刺さった。
(……私、努力が足りないのかな)
思ってしまった、その瞬間がつらかった。
フィリーナ様の言葉は、私に何かを強いたわけではない。
でも、“できていない”自分がいる今、その言葉は、どうしようもなく心に響いてしまった。
私は机の上の自分の魔石を見つめた。
そこには、何の光も浮かんでいなかった。
静かに、手を膝の上に置く。
何も言わずに、ただ――肩の奥に、小さな重みが積もるのを感じていた。
◇
昼食を終えた私たちは、食堂を出たあと中庭でしばらく芝の上に腰を下ろしていた。
さっきまで賑やかだった食堂のざわめきが、遠くにかすかに聞こえる。
食後の風が、ほんの少し眠気を誘うようにやわらかく吹いていた。
「ねえ、食堂のパン、今日はなんだか焼きたてだったよね。ちょっとだけ、ふわふわだった気がする」
「そう……だったかも。あまり気にしてなかったけど」
「え〜っ? 気づいてなかったの? もう、ちゃんと味わわなきゃ損だよ〜」
そんな他愛もない話が、どこか心をほどいてくれる気がした。
でも、私はぽつりとこぼしてしまった。
「……みんな、すごいなって。魔法、ちゃんと出てて……私だけ、何もできなくて……」
マリナさんはしばらく黙って、それからゆっくり口を開いた。
「でも、シオンさんって……たぶん、ふつうとはちょっとちがう気がするんだ」
「……え?」
「うまく言えないけど、昨日も思った。なんだろう……話すと、心がやわらかくなるっていうか。きっと、“得意なこと”が、ちがうだけなんじゃないかなって」
「得意なこと……」
(それが、歌……だったら)
でも、私はうなずくことができなかった。
だって“歌”が魔法になるなんて、まだ誰にも知られていない。うまく説明できる自信もなかった。
「……ありがとう、マリナさん」
そう言うのが精いっぱいだった。
マリナさんは芝に寝転がるようにして、雲を見上げた。
「見て、あれ……パンみたいじゃない?」
指差した先に浮かぶ、ふわりと丸い雲。私は思わず吹き出してしまう。
「本当……」
「ほら、朝のパンに似てない? 中に甘い実とか入ってそうで、ちょっとおいしそう」
「……マリナさん、おなかすいてるんですか?」
「ううん、ちがうよっ。ただ、見てたらね。そういうふうに思っちゃっただけ」
彼女の言葉に、私はふっと力が抜けた。緊張していた肩が少しだけ楽になって、ほんの小さく笑うことができた。
「ねぇ、シオンさん」
「はい?」
「昨日から思ってたんだけど、あなたって……なんか、空気がやわらかいんだよね。あったかくて、静かで、そばにいると落ち着くっていうか」
「私が……?」
「うん。なんだろう、陽だまりみたいな人」
その言葉は、私の中にすとんと落ちてきた。驚きもあったけれど、それ以上に嬉しくて、胸がじんわりとあたたかくなっていく。
「……そういうふうに思ってもらえるなんて、初めてです」
「うふふ、私はけっこう人を見る目あるんだから」
マリナさんの笑顔は、まるで春の陽のようだった。
私の中にあった「できなかったこと」や「届かなかった魔法」の焦りが、ほんの少しずつ、ほぐれていく。
「ね、午後もいっしょに頑張ろうね」
「……はい」
私は心からそう答えた。
◇
午後の授業が始まる直前。
私は一人、校舎の外に出て、静かに空を見上げていた。
春の青空は、どこまでも高くて澄みわたり、雲ひとつないその広がりは、まるで“未来”のようだった。
まだ何も描かれていない、けれど、確かにそこに続いているもの。
太陽の光はあたたかくて、肌にふれる風はやさしかった。
けれどその光も風も、胸の奥にある小さなざわめきを、すべて拭い去ってくれるわけではなかった。
(私には……まだ、何もない)
魔法は出なかった。
周りの子たちは、次々に何かを手にしていくのに、私はまだ立ち止まったまま。
だけど。
(……それでも、あの時の歌が――誰かのためになるのなら)
あの春の日。
広場で、声が自然にこぼれたあの瞬間。
私の中からあふれた“うた”が、人の痛みを癒し、心に光をともしたことを――私は忘れない。
風が、頬を撫でていく。
まるで「それでいいよ」と、言ってくれるみたいに。
私は目を閉じて、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。
胸の奥に、ひとしずくのあたたかさが灯る。
そして、まっすぐに顔を上げた。
(もう一度だけ、やってみよう)
この気持ちがあれば、たとえすぐに何もできなくても――
私は、私のままで、少しずつ進んでいける。
私は制服の裾をそっと整え、校舎の扉を押した。
午後の教室へ、歩き出す。
少しずつ歩き出した学院での毎日。
新しい教室、新しい仲間、新しい不安――でも、そのすべての中に、優しく差し込む光もありました。
魔法がうまくいかなくても、「陽だまりみたいだね」と言ってくれる誰かがいる。
それだけで、心の奥がほんのりあたたかくなるのです。
焦らなくていい。
うまくできなくても、うまく伝えられなくても。
シオンが大切にしている“歌”は、きっと少しずつ、誰かの心に届いていくはずだから。
次回も、そんな小さな一歩の続きを、どうぞ見守ってください。




