29 新たな一歩、学院への扉(後編)
担任のエルシア先生は、教卓の前に立ったまま、やわらかな口調で微笑みかけてきた。
「では、まずは自己紹介から始めましょうか。一人ずつ、お名前と、もし話したいことがあればどうぞ。順番に参りますね」
その一言で、教室の空気がふわりと張り詰める。
前の列の子から、ひとり、またひとりと、小さな声で名乗る声が響いていく。
「……レオン・ヴァレッタです。えっと、……剣の練習が、好きです」
「エリーゼ・ハーヴェルです。お母さまと同じ、火の魔法がつかえるようになりたいです」
緊張のにじむ声。でも、それぞれが一生懸命に、自分の言葉で何かを伝えようとしている。その姿に、私はじっと耳を傾けていた。
得意なこと、夢、家族の話、好きな色――話題はまちまちだったけれど、それがかえって温かくて、皆が“ここ”に居ることの証のようにも思えた。
そして――私の番が、来た。
立ち上がると、机と椅子の脚が小さく音を立てた。
(……だいじょうぶ。深呼吸……)
私は、胸の前で小さく息を整える。
見慣れない教室、見知らぬ子たちの視線が、一斉に自分に向けられている気がして、足元がすこしだけふらつく。
「……シオン・エルステリアです」
声が、少しだけ震えた。
でも、言葉にしてしまえば、少しだけ肩の力が抜ける。
「歌うのが……好きです。よろしく、おねがいします」
言い終えた瞬間、ふと周囲が静かになったように感じた。
視線が、自分の方へ集まった気がして、私は思わずうつむいた。
(へんに思われたかな……)
そんな不安が胸の奥をかすめたけれど、誰も笑ったりはしなかった。
むしろ、何人かの子がそっとこちらを見て、小さくうなずいたようにも見えた。
そして、何事もなかったかのように、次の子が名乗り始める。
その当たり前の流れに、私はようやく小さく息を吐いた。
(……よかった。変じゃなかった、よね)
胸の中の緊張が、ほんの少しだけ、ほどけていくのを感じた。
◇
全員の自己紹介が終わると、エルシア先生がぱちんと手を打った。
「はい、ありがとうございました。ではこのあとは、教室や校舎の簡単な案内をしましょう。ついてきてくださいね」
私たちは立ち上がり、列になって廊下へ出る。
窓の外には中庭が広がっていた。淡い緑と春の花々。吹き抜けていく風が、揺れる草花のあいだを縫うように流れていた。陽射しが射しこむたび、磨かれた床の上に柔らかな光の模様が浮かび、それが風とともに静かに揺れ動いていた。
石造りの廊下はまだ少し肌寒くて、空気がひんやりと感じられたけれど――それでも私の胸の奥には、じんわりと温かいものが満ちていた。
「ねぇ、シオンさん」
背後から声をかけられて、私は小さく振り返った。
そこにいたのは、蒼い髪をふわりと揺らしながら、小走りで追いついてきたマリナさんだった。
制服のケープが少しだけ揺れて、その下の顔には、朝と同じやわらかな笑顔が浮かんでいた。
「朝、ちょっとだけ目が合ったよね。……あれ、わたし、気のせいかなって思ったけど」
「……うん。私も、見た気がした」
素直にそう答えると、マリナさんは嬉しそうに笑った。
「やっぱりー。えへへ。わたし、人の顔を覚えるのは得意なんだ」
くすぐったくなるような笑みだった。けれどその笑顔には、どこか不思議な安心感があった。
「……はじめての場所って、やっぱり緊張するよね。でも、仲良くできそうな子がいるってわかると……ちょっとだけ、安心できるっていうか」
「……私も」
私はうなずいた。胸の奥が、ふわっとほどけるような感覚。
「ありがとう、マリナさん」
そう言った私に、マリナさんはにっこりと、まるで春の陽だまりのように笑ってみせた。
「うん、どういたしましてっ」
ただそれだけの会話だったのに、そのやりとりが、私の中の氷をひとつ――そっと溶かしてくれた気がした。
◇
校舎の一角、陽の差す渡り廊下。
列になって歩く足音が、石の床に小さく響く中、私はふと、前方へと視線を移した。
そこに――金糸のように輝く髪を、背中にすっと垂らした少女の姿があった。
フィリーナ様。
第三王女。その名を、知らない者はいない。
けれど今、彼女は何の飾り気もなく、ただひとりの生徒として、私たちと同じようにこの学院の廊下を歩いていた。
誰とも言葉を交わさず、けれどその歩みには一片の迷いもなく、背筋をまっすぐに伸ばしたまま前を向いて進んでいた。
凛としたその姿に、私は思わず息をのんだ。
光を反射するその髪が、風にそよいで揺れた瞬間――まるで本当に、光そのものがそこに立っているようにさえ思えた。
(……遠い人、だな)
同じ年齢のはずなのに、どうしてだろう。あまりにも眩しくて、まるで手の届かないところにいるように感じる。
けれど、ただの「遠い存在」ではなかった。
(あの背中、きれい……)
気づけば私は、言葉もなく、その後ろ姿を見つめていた。
ただ歩いているだけなのに、目を奪われてしまう。
堂々としていて、誰の目も恐れず、凛とした気配をまとっていて――でもそれは決して驕りではなく、強くて静かな意志のようにも見えた。
(話しかけるには……まだ、ちょっと勇気がいるな)
そう思う一方で、胸の奥がふっと温かくなる。
いつか、ちゃんと話してみたい。
あの真っすぐな背中に、もっと近づいてみたい。
それはまだ言葉にならないほど小さな想いだったけれど――たしかに、そこに芽吹いていた。
◇
昼食は、初日ということもあって簡易的なお弁当が支給された。ふわふわのパンに卵焼き、温かいスープに、小さな果物までついていて、心づかいが感じられる内容だった。
天気が良かったので、中庭で食べるようにと先生に勧められ、私はマリナさんと一緒に芝の上に座った。
木陰から差し込む光が揺れて、芝の感触がほんのり冷たくて心地いい。鳥のさえずりと、遠くから聞こえる笑い声が混じって、少しずつ緊張がほどけていく。
「シオンさん、パンひとついる? ちょっと多めにもらっちゃったの」
「ありがとう。でも、これで足りるから大丈夫」
「そっかー。でも、なにかあったら遠慮しないでね」
マリナさんはそう言ってにこっと笑った。私はその笑顔に、どこか救われた気がした。
こうして肩を並べて食べるのは、ほんのささやかなことだったけれど、誰かと一緒にいる温かさが、確かに胸の奥に届いていた。
◇
食後、クラスごとに学院内を簡単に巡る案内が始まった。
図書室や魔法演習場、練習用の中庭など、先生が場所ごとに説明をしてくれる。
「ここは皆さんが将来、魔法の授業で使う演習場です。安全管理には気をつけてくださいね」
エルシア先生の声に、皆が静かにうなずく。
私は周囲を見渡しながら、その一つひとつが自分のこれからの舞台なのだと実感しはじめていた。
(いつか、この場所で……)
胸の奥が、静かに高鳴った。
◇
帰りの支度が始まり、教室に戻って鞄を整えていると、エルシア先生がそっと声をかけてきた。
「初日、おつかれさまでしたね、シオンさん」
「……はい」
「今日のこと、どうでしたか? 楽しいと思える瞬間は、ありましたか?」
「うん……少しだけ、こわかったけど。でも、マリナさんと話せて、よかったです」
「それは素敵なことですね。ここは、あなたが歩いていく場所。ゆっくりでいいんです。あなたのリズムで、ここを好きになってくださいね」
その言葉に、私はそっと目を伏せて、うなずいた。
やっぱりこの先生、やさしそうな人だ――そう思った。
◇
車内に乗り込むと、朝とは違って、少しだけ落ち着いた気持ちになっていた。
(ルナちゃん、ちゃんと待っててくれてるかな……)
馬車の窓から見る街の風景は、朝よりも少しだけあたたかく見えた。
初めての一日。知らない人たちに囲まれて、不安でいっぱいだったはずなのに、今はその中に、確かな温もりがあった。
◇
屋敷に戻ると、家族が迎えてくれた。
「おかえり、シオン!」
玄関まで飛び出してきたのはリリカ姉様。
「どうだった? 楽しかった?」
「うん……少しだけ、でも……がんばったよ」
「それはよかったですね」
母様が穏やかな笑みを浮かべながら、そっと私の肩に手を置く。
「何かあったら、いつでも話してね」
「うん……あのね、マリナさんっていう子と、少しだけお話したの」
「マリナさん?」
リート兄様が興味深そうに顔を覗かせる。
「うん。最初に隣の席に座ってくれて……緊張してたけど、優しく話しかけてくれたの。たぶん……友達になれるかもって、少し思った」
「それは素敵ね、シオン」
母様が嬉しそうに微笑み、リリカ姉様もふわりと頷いた。
「大切な出会いになるかもしれないわね。ゆっくり仲良くなっていけばいいのよ」
「うん……」
私は自然と頬がゆるんでしまった。
「明日からも、焦らず一歩ずつ進んでいこう」
リート兄様の言葉に、私はしっかりと頷いた。
◇
自室に戻ると、ルナちゃんがベッドの上にちょこんと座っていた。
白くやわらかな毛並みがランタンの光をやさしく反射していて、その姿はまるで、ずっとここで私の帰りを待ってくれていたかのようだった。
「……ただいま、ルナちゃん」
私がそう声をかけると、ルナちゃんはふるりと耳を揺らし、じっと私を見つめ返してきた。
何も言わず、何も変わらず。だけどその視線には、言葉よりもずっと深いぬくもりが宿っている気がして――私は自然と微笑んでいた。
ただそこにいてくれるだけで、不思議と心が落ち着く。
この空間が、今日のすべての出来事をやさしく受けとめてくれるようで、私はゆっくりとベッドの端に腰を下ろした。
「今日はね……がんばったよ。マリナさんと、少しお話したの」
つぶやくように言いながら、私はそっとルナちゃんの頭を撫でた。
その柔らかさに触れた瞬間、胸の奥に積もっていた小さな緊張や疲れが、ふわっとほどけていくのを感じた。
◇
夜。
ベッドの上で、私はルナちゃんを胸に抱きしめていた。
静かに瞬く星々が、窓の向こうに浮かんでいる。昼間の賑やかさが嘘のように、部屋の中はしんと静まり返っていて、ランタンの明かりが壁にやわらかい影を落としていた。
私は毛布の中で身を丸めながら、そっと天井を見上げた。
(……私も、ちゃんと歩き出せたのかな)
胸の中で、今日一日の出来事がゆっくりと蘇ってくる。
勇気を出して名乗った自分の名前。初めて「歌うのが好き」と声に出せたこと。
マリナさんのあたたかな声。やさしく笑ってくれた表情。
エルシア先生のまなざし。何も責めず、ただ見守ってくれるような、やわらかな空気。
フィリーナ様の背中。近づきがたいほどにまっすぐで、でも、まぶしいほどに美しかったあの姿。
それらすべてが、私の中に少しずつ、確かに刻まれていた。
(こわくなかったわけじゃない。でも……)
それでも、一歩は踏み出せた。
誰かと目を合わせて、声を交わして、隣に並んで、ほんの少しでも心がつながった気がした。
それが、今日の私の“はじまり”だったのだと思う。
「……明日も、がんばってみる」
小さくつぶやいたその言葉は、誰に向けたものでもなかった。
けれど、自分自身の中に静かに響いて、心の奥に、あたたかくしみわたっていく。
その言葉を聞いたように、ルナちゃんがくるんと身体を丸め、喉を小さく鳴らした。
私はその背中をそっと撫でながら、目を閉じる。
毛布の中のぬくもりと、胸の奥に灯った小さな火が、今日という日をやさしく包んでくれていた。
学院という名の舞台で始まったばかりの“新たな一歩”。
その足音は、まだ小さくて、頼りないかもしれない。
でも、たしかに――私は、歩き出していた。
はじめての教室、はじめての出会い、そしてはじめての「ただいま」。
どれも少しぎこちなくて、でも確かに心に残る一日でした。
シオンが自分の言葉で名乗り、小さな会話を重ね、誰かの笑顔に触れる――
その一歩一歩が、きっとこの先の“歌の道”にもつながっていくはずです。
焦らず、ゆっくり。けれど、確かに前へ。
シオンの歩みが、明日もまた小さな光を見つけてくれますように。
次回も、どうぞお楽しみに。




