26 音のしずく
王都での暮らしにも、少しずつ慣れてきたある日のことだった。
朝の光が王都の街を照らし、石畳の道には行き交う馬車と人々の活気が満ちていた。貴族街の一角にある我が家の館も、春の風に包まれてどこか軽やかに見える。
「今日は、王都の街を少し歩いてみましょうか」
母様の優しい声に、私はぱっと顔を上げた。
「ほんとに? 行ってもいいの?」
うれしさが胸の奥から広がっていくのが分かる。
「ええ。王都の暮らしに慣れるには、実際に歩いてみるのが一番ですもの」
その言葉に、私は胸をそっと押されたような気がして、ゆっくりとうなずいた。
リボン付きの帽子を手に取り、少し緊張しながら身支度を整える。鏡の前に立ってみると、ワンピースの裾を整える指先がほんの少し震えていた。王都の街を歩くのは、王城での謁見以来。だけど、今日はあのときとは違う。母様やリリカ姉様と一緒に、ただ歩いて、ただ見て、ただ感じる。そんな一日が、とても特別に思えた。
玄関へ行くと、リリカ姉様が待っていて、やわらかな笑みを向けてくれる。
「王都には、美味しいお菓子やアクセサリーのお店がいっぱいあるのよ」
「どこから行くの?」
「まずは、“花咲き通り”かしら。お母様もお気に入りの場所よ」
その言葉に、胸がふわっと高鳴る。私はこくりとうなずいて、馬車に乗り込んだ。
革張りの座席の感触が心地よくて、窓の外の景色が動き出すと、胸の奥がそわそわしてきた。何かが始まる、そんな予感に包まれていた。
◇
貴族街を抜けて、馬車はゆっくりと進んでいく。石畳の道沿いには格式ある邸宅が並び、やがて風景はにぎやかな商業区へと変わっていった。建物は少しずつカラフルに、通りの幅も広くなっていく。遠くから音楽のような人の声が近づいてきて、胸の奥が自然と高鳴った。
花の香り、果物の香り、そして焼き菓子の甘い香り――風がそれらを運んできて、私の鼻先をくすぐった。
「ここが“花咲き通り”よ。王都でもとびきり人気の商店街なの」
リリカ姉様が目を細めて言った。
「季節限定のお菓子や、貴族向けの工芸品も多くてね。私も昔はよく母様に連れて来てもらったのよ」
「すごい……ほんとに夢みたい」
目の前に広がる景色は、どこまでも色鮮やかで、きらきらと輝いて見えた。王都って、こんなににぎやかで、こんなに色に満ちていたんだ――そんな思いが、胸いっぱいに広がっていく。
私の視線は屋台に並ぶ花束や、窓辺に吊るされたガラスの飾りに吸い寄せられる。街を歩く人々の表情も、それぞれに生き生きとしていて、まるでひとつの大きな舞台を眺めているようだった。
(わたしも……この場所の一部になれるのかな)
ふとそんなことを思いながら、私はそっと手のひらを胸元に添えた。
◇
馬車を降りて、私たちは通りを歩くことにした。足元に広がる石畳の模様さえ、どこか物語の中にいるようで、歩くたびに新しい発見がある気がした。
花の屋台では、青や赤の小さな花束が並び、香水店の前ではガラス瓶が陽の光にきらめいている。焼きたてのパイを売る店の前では、甘く香ばしい香りが漂い、お腹がきゅるりと鳴った。
「ねえ、母様、あれ……!」
目を奪われたのは、ガラス細工の店だった。小さな鳥や花の飾りが回転台に乗って、光を受けて輝いている。陽の光が色とりどりのガラスに差し込み、足元に小さな虹を描いていた。
「綺麗……!」
声に出た感嘆は、自分でも驚くほど素直で、心の底からのものだった。
「気に入ったものがあれば、記念に一つ選んでもいいわ」
「本当? ……じゃあ……」
私は迷いながら、小さなしずく型のペンダントを手に取った。透明な雫の中心に、微かな波紋のような文様がきらめいている。それを見つめていると、不思議と心が落ち着いて、どこか懐かしささえ感じた。
「これにする。“音のしずく”って名前がついてるみたい」
店のご主人がにこにこと微笑みながら、小さな革の小箱に包んでくれた。箱のふたには銀糸で「しあわせの雫」と刺繍が施されていて、その文字を見た瞬間、胸の奥にふわりと温かいものが広がった。
私はそっと指先でなぞりながら、これが王都での最初の宝物になるかもしれない、と思った。
(この雫の中に、小さな音が閉じ込められているみたい……)
そう思ったら、胸がほんのり震えた。
◇
昼食は、街路に面した小さなレストランでとることになった。テラス席でいただいたのは、焼きたてのハーブパンとスープ。それに野菜と果物のサラダ。素朴だけどどこか贅沢な味に、私は思わず目を細めた。
「王都の味、気に入った?」
「うん、とっても美味しい……」
風の匂いと人の声と、パンの香り。それが全部混ざって、この街の空気をつくっているみたいだった。
(こんなふうに、“美味しい”って心から思えたのは、いつぶりだろう)
そう思いながら、私はふと空を見上げた。高く澄んだ空には、小さな雲がいくつか漂っていて、どこまでも自由に、どこまでも優雅に流れていた。
店内では、吟遊詩人らしき人が静かにリュートを奏でていた。旋律は柔らかく、けれどどこか芯の通った響きで、私はいつまでも耳を傾けていた。
その音に、心が自然と共鳴する。
(歌って、こんなふうに、誰かの気持ちを包みこむことができるんだ……)
ふと、あの時の光を思い出した。初めて、歌が魔法になった瞬間。あのときも、こんなふうに心の奥が熱くなっていた気がする。
◇
午後は、“音の小道”と呼ばれる地区へ足を延ばした。そこは楽器店や劇場が並ぶ、音楽好きの人々が集まるエリアらしい。通りのあちこちから楽器の音が聴こえ、小さな広場では演奏会が開かれていた。
初めて見る楽器、初めて聴く音――それなのに、どれもが自然に心の中に染み込んできた。
「ここは季節ごとに催しがあるの。吟遊詩人の競演や、魔法歌劇もよく開かれるのよ」
母様の説明に、私は胸をどきりとさせた。
「歌劇……見てみたいな……」
「そのうち一緒に来ましょう」
風の中に、歌が混じって聴こえた気がした。知らない誰かの声なのに、なぜか懐かしくて――それが少し、不思議だった。
リリカ姉様は、その音に合わせて軽く足を止め、目を閉じた。
「……この街では、思いがけず素敵な音と出会えるの。私、それがすごく好き」
その言葉が、胸にそっとしみこんできた。
私は、目を閉じてみた。聞こえてくるのは、風に運ばれてきた誰かの鼻歌、劇場から漏れる音階の練習、通りの楽器店から奏でられる旋律。どれもがそれぞれに命を持っていて、私の中で響き合っていた。
(この街でも、いつか私の歌が届く日が来るのかな……)
その想いは、夢ではなく、小さな決意へと変わりつつあった。
◇
陽が傾き始めた頃、私たちは仕立て屋に立ち寄った。制服の最終仕上げの確認と、受け取りのためだ。
「こちらが、初等部女子用の標準制服でございます」
紺色のワンピースに、深い色合いのケープを重ね、胸元の白いリボンタイがふわりと揺れる。袖や裾、ケープの縁には金糸で繊細な葉模様が刺繍されていて、上品さと柔らかさが絶妙に調和していた。
それはまるで――森に響く音色を衣に写したような、学院生だけの特別な制服だった。
鏡の前に立つと、不思議な気持ちが胸の奥からあふれてきた。
(これが、わたしの新しい毎日を支えてくれる制服……)
「まあ、シオン。やっぱり似合うわ」
母様の言葉に、私は照れながらも嬉しくなった。
「ありがとう……なんだか、ちょっとだけ、大人になったみたい」
鏡に映る私は、少しだけ背筋を伸ばしていて、昨日の私とは違って見えた。
◇
馬車に戻り、屋敷へと帰る道すがら、私はルナちゃんを抱いて窓の外を見つめていた。夕暮れの王都は、昼の喧騒を包み込むように穏やかで、尖塔の影が長く伸びていた。
「すごかったね……王都って、こんなにたくさんのものがあるんだね」
「まだほんの一部よ」
リリカ姉様の声が柔らかく響いた。
(この街で、私は始めるんだ)
“歌”で、誰かの心に触れる未来を。
まだ何ができるか分からない。だけど、きっと、少しずつでも進んでいける。今日の“音”や“香り”、触れた“景色”は、全部わたしの中に積もっていく。そして、いつか――
(この胸の震えが、歌になったら)
そのとき、私はきっと、もう一歩進んでいける。
あの日、初めて光を放ったあの“歌”のように。
小さな勇気が、胸の奥でそっと芽吹いていた。
その音は、きっと、まだ誰も知らない未来の扉を――やさしく叩いていた。
王都の街にあふれる音、色、香り――
シオンにとって、それはすべてが初めてで、どこか懐かしくもある出会いでした。
ガラス細工の小さな雫、路地裏から聴こえる歌声、制服に袖を通したときの心の震え。
それらはきっと、これから始まる日々の中で、そっと背中を押してくれる“音のしずく”になるのでしょう。
少しずつ、自分の“歌”を見つけていくシオン。
その歩みの先に、どんな音色が生まれていくのか――
この先も、どうかあたたかく見守っていただけたら嬉しいです。




