25 王都への旅立ち、新たな日々のはじまり
春の風が、静かに屋敷の庭を揺らしていた。
淡い若草色の芝生に、咲き始めたばかりの小さな花々が点々と彩りを添えている。冬の名残をわずかに残しながらも、季節は確かに新しい幕を開けていた。私は、開いた窓辺に立ち、頬を撫でていく柔らかな風に目を細める。
「……もうすぐ、王都に行くんだね」
ぽつりとつぶやいた言葉は、誰にも届かず、風に紛れて消えていった。
王都から戻って数日。エルステリア侯爵邸では、毎日のように荷造りや確認で賑わっていた。王の命により私は王都に滞在することとなり、王立セレナリア学院への入学も正式に決まった。新たな生活の場となる王都の館へ――いよいよ旅立ちの日が訪れる。
母様は使用人たちと共に荷物の最終確認をしており、リート兄様とリリカ姉様は、それぞれ王都で必要になる物の確認のために、何度も部屋と玄関を行き来していた。私はといえば、まだどこか実感が湧かないまま、自室の椅子に腰掛け、窓の外の景色をぼんやりと見つめていた。
(王都……)
それは、ずっと憧れてきた場所だった。広くて、きらびやかで、たくさんの人が行き交う街。けれど今、その憧れが現実として迫ってくると、胸の奥がそわそわとして、少しだけ不安にもなる。
同行するのは母様、そしてリート兄様とリリカ姉様。二人はすでに王立学院に通っているが、領地からの馬車通学は時間がかかるため、共に王都の館へと移ることになった。王都の方がずっと近くて、そして、なにより私が心配だからと。
父様は領地の政務のため、しばらく本邸に残ることになっている。
「王都での暮らしには、慣れるまで時間がかかるだろうが、焦らずにな。お前はお前のままで、しっかり進んでいけばいい」
旅立ちの朝、父様はそう言って、私の頭に手を置いた。その掌の温もりは、優しさと共に、背中を押してくれるようだった。
「うん。がんばってくるね。お父様も、体に気をつけてね」
小さく手を振った私に、父様は静かにうなずき、目を細めて見送ってくれた。
その眼差しは、まるで何かを託すように、深く、あたたかかった。
◇
馬車の窓の外に見える景色が、少しずつ変わっていくのが分かった。
のどかな田園風景から、徐々に石造りの家々が増え、人の気配も濃くなる。舗装された石畳の道を通るたび、車輪の音が軽やかに響き、遠くから鐘の音のようなものが微かに聞こえてきた。
私は思わず背筋を伸ばし、胸元のブローチにそっと触れる。
(大丈夫。きっと、ちゃんとやっていける)
そう自分に言い聞かせるように、ひとつ息を吸い込んだ。馬車の揺れが、心の奥にあった小さな不安までも揺らすようだった。
隣に座る母様が、ふと私の手にそっと手を重ねる。
「不安なときは、無理に笑わなくてもいいのよ。シオンの歩幅で、一歩ずつでいいからね」
その声は、どんな教えよりも優しく、力強かった。
やがて、馬車は王都の外縁に差しかかる。
道は石畳に変わり、建物も少しずつ高く、色鮮やかになっていく。木製の看板を掲げた店舗、広場を彩る屋台、行き交う人々の衣装も多彩で、見ているだけで胸が躍るようだった。
「すごい……あれ全部、お店なの?」
思わず身を乗り出してしまった私に、リリカ姉様が優しく頷いた。
「ええ。あの通りは“花咲き通り”と呼ばれているの。季節ごとのお菓子や飾りが揃う、王都でもとびきり人気の商店街よ」
リート兄様が補足するように続ける。
「衛兵や使節もよく通る道だからな。王都の顔って呼ばれる場所の一つだ」
通りには、果物や焼き菓子、花束の香りが風に乗って流れてきた。人々の笑い声や呼び込みの声が重なり合い、王都の賑わいがひしひしと伝わってくる。
私は窓から顔を出して、街の景色を目に焼きつけた。ひとつひとつの音、色、匂い――そのすべてが、新しい生活の始まりを告げている気がした。
そうして馬車は商業区を抜け、貴族街へと入っていった。街の中心部から少し離れた高台には、由緒ある邸宅が静かに佇んでいた。
それが、私たちエルステリア家の王都の館だった。
◇
馬車の揺れが止まり、扉が静かに開かれた。
玄関前には、既に使用人たちが整列して待っていた。中庭の花壇には、春の花が咲き誇り、噴水の水音が風に乗って心地よく耳に届く。
「ようこそお帰りくださいました、アリエッタ様、リート坊ちゃま、リリカお嬢様、そして……シオンお嬢様」
一人ひとりに名を呼びかけるその声は、しっかりと響いていて、けれどどこかあたたかかった。王都の館で働く執事や侍女たちは、領地の本邸とはまた少し雰囲気が異なる。誰もが洗練された動作で、それでいて丁寧に接してくれる。
私は緊張した面持ちで、お辞儀を返した。
「ただいま戻りました。……よろしくお願いします」
使用人の中に、年配の女性が一歩前に出て、にこやかに頭を下げた。
「改めまして、私は館の家政を預からせていただいております、レーネと申します。お嬢様の王都での生活を、精一杯お支えさせていただきますね」
やわらかな声音が、心の内の緊張をそっとほどいてくれる。
「……はい。よろしくお願いします」
母様が私の背に手を添え、そっと押し出してくれた。
「さあ、シオン。中を見ていきましょうか」
館の扉が開くと、磨き上げられた石床に光が反射し、優しい日差しが玄関ホールを満たしていた。飾られた花瓶には、王都でしか見かけない薄紫の花が活けられている。天井のレリーフや壁に掛けられた織物――どれも格式を感じさせるけれど、不思議と落ち着く空間だった。
案内された部屋は、私だけの新しい部屋。
白を基調とした壁紙に、薄い紅色のカーテン。奥の窓を開ければ、王都の街並みが一望できた。
ふかふかのベッドの上には、すでにルナちゃんが座らせてあった。リリカ姉様が気を利かせて、そっと置いておいてくれたのだろう。
「……ここが、わたしの部屋、なんだ」
静かにつぶやいた声が、やけに響いた。
旅の疲れを感じる暇もなく、胸がどこかふわふわしていた。ここから始まる日々のことを考えると、期待と少しの不安がまぜこぜになって、胸がざわざわと波立った。
「不安なことがあれば、なんでも相談してちょうだいね」
母様の言葉に、私は小さくうなずいた。
「……ありがとう、母様」
◇
荷解きを終えたあと、私は母様と共に館の中を案内してもらうことになった。
「ここが応接室。そして、この奥が家族の食堂よ。使用人の方々の動線とは別に、家族専用の回廊もあるの」
母様は落ち着いた足取りで、一つひとつ丁寧に教えてくれる。館は広くて、初めての場所ばかりだったけれど、母様の声が道しるべのように感じられて、少しずつ安心が芽生えていった。
途中、リート兄様とすれ違った。
「迷ったら、すぐ人を呼ぶこと。部屋で困ったことがあったら、あの呼び鈴を鳴らすといい」
そう言って指差したのは、壁際に取り付けられた金の装飾が施された小さな鈴だった。軽く触れると澄んだ音が鳴る。
「……うん、わかった」
「慣れないうちは無理をするなよ」
兄様の言葉に私は小さくうなずき、胸の中にじんとするものが広がった。
◇
夕食は家族そろって、王都での初めての晩餐となった。
食卓には、領地では見かけなかった料理も並んでいて、野菜のマリネや白身魚のハーブ焼き、甘く煮た果物のソースがかけられたデザートなど、王都の風を感じるものばかりだった。
「どう? 王都の味は」
リリカ姉様が微笑んで聞くと、私はフォークを置いて、ほっと息を吐いた。
「うん、美味しい……けど、少しだけ、緊張する」
「ふふ。最初はみんなそうよ。だけど、食卓はおしゃべりの場所でもあるの。安心して楽しみましょう」
母様がそう言って微笑むと、気が緩んで、私はようやく一口分だけ大きく息を吸うことができた。
◇
夕食のあとは、リリカ姉様の勧めで中庭を少しだけ歩いた。昼間とは違い、街の光が遠くにちらちらと見え、夜の王都には静けさの中に凛とした美しさがあった。
「明日は、学院の準備ね。制服をもう一度着てみるといいわ。慣れておくと、朝が少しだけ楽になるから」
「……うん。着るたびに、背筋が伸びる気がするの。制服って、不思議だよね」
そんな私の言葉に、リリカ姉様はふっと笑って言った。
「きっと、少しずつ“学院生の顔”になっていくのね、シオンも」
私は、うん、と頷いた。
◇
自室に戻り、ベッドに身を沈めたときには、頭の中がいっぱいだった。
王都の道、館の中、母様の言葉、兄様の手、姉様の笑顔――そして、新しく始まる“学院での生活”。
私は枕元に置かれたルナちゃんをそっと抱き寄せた。そのぬくもりのような存在に、胸の奥がふわりとほどけていく。
「……ちゃんと、できるかな。友達、できるかな……」
小さな声でぽつりとつぶやくと、ルナちゃんは黙って微笑んでいるように見えた。
窓の外に目をやると、夜の王都の灯りが星のようにまたたいていた。昼の賑やかさとは違って、静かで、どこか神聖な雰囲気が漂っている。
私は毛布を引き寄せ、まぶたを閉じた。
(だいじょうぶ。私なら、きっと……)
その思いは、小さな祈りとなって心に灯り、ゆっくりと夢の世界へと導いていった。
――こうして、王都での新たな日々が、そっと幕を開けたのだった。
小さな旅立ちは、きっと大きな一歩。
王都という新しい世界に触れながら、シオンの物語は少しずつ広がっていきます。
不安も希望も胸に抱きながら、彼女がどんな未来を紡いでいくのか――
この先も、そっと見守っていただけたら嬉しいです。
また、次のお話でお会いしましょう。
もし、少しでも心に残る場面がありましたら……
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