第九話 火は、誰かの胸で燃えていた
火の色が、今日は少し違っていた。
薪は昨日と同じ。
火の組み方も変えていない。
けれど、炎の輪郭が、なぜか柔らかかった。
セレア、と誰かが呼んだような気がした。
けれど、もちろん誰も呼んでいない。
私は、火のそばでしゃがんだ。
昨日までと同じように、器を整え、布でふちを拭いた。
ルオが、石を手のひらで回している。
ノイラは、窓の外をじっと見ている。
「……誰か、見てた」
ぽつりと、ノイラが言った。
私は、顔を上げた。
ノイラのまなざしの先には、何もなかった。
でも、その言葉は真実だった。
「わたしも……少しだけ、感じた気がする」
風の向こうに、誰かの気配。
それは音でもなく、姿でもない。
ただ、そこに“誰かがいた”という実感だけが、空気に残っていた。
火が、それを運んだのだろうか。
香りが、記憶を揺らしたのだろうか。
それとも、私たちの沈黙が、誰かの沈黙と重なったのか。
私は、昨日と同じようにパイの準備をした。
林檎を刻みながら、何度も手を止めたくなった。
でも、止めなかった。
この手順は、わたしのものではない。
けれど、今はたしかに、誰かに届いた。
それが、火を灯しつづける理由になる。
ルオが、小さな音を鳴らした。
カン。
今日は、一度だけ。
ノイラが、器をそっと置いた。
それは、誰かのための席のように見えた。
誰かがここにいた。
今はいないけれど、たしかに、この火のそばにいた。
レム・ステラが、微かに震えた。
記録ではない。
ただ、そこに“感じた”という揺れ。
それだけで、十分だった。
私は、火を見つめた。
「誰の記憶かは、わからない。
でも、ここにあるって、わかる」
言葉にならない思いが、私の胸に灯った。
語らないことは、失うことじゃない。
むしろ、そこに残っていく。
火は、誰かの胸で、まだ燃えていた。