第八話 その香りを、知っている気がした
火の匂いがする。
懐かしいような、さみしいような。
けれど、名前のない香りだった。
僕は家の外れで、ひとり座っていた。
この村では、あまり声を出してはいけない。
小さな頃にそう言われた。
でも僕は、その理由をちゃんとは知らない。
ただ、みんなが静かに暮らしているのを見て、
何となく“そうするもの”だと思ってきた。
でも今、どこかから漂ってくる香りが、
どうしようもなく心をざわつかせる。
それは、火の匂いと、果物の甘さ。
焦げる寸前の皮の香ばしさと、バターのあたたかい重さ。
僕は、知らないはずだった。
この香りなんて、嗅いだことないはずだった。
けれど、なぜか涙が出た。
身体のどこかが、
「これは、知っている」と、言っていた。
ふらふらと立ち上がって、香りのするほうへ歩いた。
小さな家の前に、人影があった。
火のそばに、三人の人がいた。
一人は火を見ていた。
一人は石を手にしていた。
もう一人は、器を拭いていた。
誰も、話していなかった。
でも、そこには、言葉よりも確かな“何か”があった。
僕は、なぜだか、立ち止まって見ていた。
火に吸い寄せられるように、風のなかに立ち尽くした。
そのとき。
石が一度、鳴った。
カン。
火が揺れた。
風が止んだ。
誰かの手が、器を差し出した。
僕のところにではない。
でも、その手の動きが、なぜか胸に残った。
なにも語られていない。
なのに、確かに“受け取った”気がした。
僕は、その場を離れた。
何も言わず、何も求めず。
けれど、あの香りは、胸の奥に残っていた。
まるで、それが“僕の記憶だった”かのように。
――その香りを、知っている気がした。
言葉にはならない。
でも、忘れたくないと思った。
火と香りが、今日もまた、誰かの中で灯っている。