第五話 語ったとたん、消えたこと
火を見ていたら、ふと、思い出した。
子どものころのこと。
私は、父と一緒に台所に立っていた。
まだ言葉を覚えたての頃。
私は「りんご」と言って、父が笑った。
「そうか、覚えたんだな」
その声を覚えている。
だけど――。
その次の瞬間、何かが壊れた。
父の顔が、輪郭から崩れていった。
私は何度も「りんご」と繰り返した。
けれど、言えば言うほど、父の顔が遠のいていった。
気づいたときには、もう、どんな顔だったか思い出せなかった。
言葉にしただけで、記憶がこぼれていく。
それが、この世界の“語りの代償”。
あの日から私は、言葉を口にするのが怖くなった。
それでも、火は覚えてくれていた。
香りは、すべてを忘れていなかった。
私は、手で記憶を継ぐようになった。
焼き加減、切り方、火の順番。
すべてを、繰り返すことでしか伝えられない。
思い出せないはずの記憶が、指先だけは覚えている。
それが、私の語り方。
そのことを、誰かに話したことはない。
けれど、たぶん――
ノイラも、ルオも、同じように感じている。
語ったとたんに、記憶は壊れる。
だから、語らない。
でも、語らないからといって、忘れたわけじゃない。
むしろ、忘れられない。
私は、目を閉じた。
薪のはぜる音が、優しく耳を打つ。
炎の揺らぎが、肌に触れる。
そっと、手を動かしてみる。
林檎の皮を剥く動作。
鍋に水を注ぐ手の角度。
生地を折りたたむリズム。
それは、誰にも教えられていない。
なのに、手が勝手に覚えている。
この記憶は、きっと、語ってはいけないもの。
けれど、忘れてしまうには、あまりにあたたかい。
そう思った瞬間、レム・ステラが震えた。
火の色が、かすかに変わった気がした。
まるで、レム・ステラが“肯いた”ように感じた。
語ってしまえば壊れてしまう。
それでも、この火と、この手と、この沈黙が、
誰かの記憶を継いでくれるのなら。
私は、今日もまた、火を灯す。