第四話 誰かの記憶の手順
夜がふけて、火は小さくなっていた。
窓の外には星もなく、風がときおり屋根をなでていく。
それでも、部屋の中はあたたかかった。
火が、まだ、消えていなかったからだ。
私は、冷めた皿を片づけながら、三人で過ごすこの沈黙を、なぜか心地よく感じていた。
ノイラは椅子の背に凭れながら、何も言わずに火を見ている。
ルオは石を握ったまま、目を閉じていた。
私も、湯気の立たないポットを両手で包み込んだまま、しばらく動かなかった。
語ることが許されないこの世界では、こうして沈黙のまま記憶を分け合う。
それが、私たちにできる唯一の“語り方”だった。
「……この手順、どこかで見た気がするの」
ノイラが、不意に呟いた。
私は目を開いた。
ノイラは火を見つめたまま、動かない。
ただ、その指先だけが、空中に微かな線をなぞっていた。
「林檎の切り方。鍋に入れる順番。火の強さ……全部、覚えてないはずなのに、わかるの」
私は静かにうなずいた。
その感覚は、私にもあった。
「それ、夢で見たんじゃない?」
ルオが言った。
目は閉じたまま。声だけが、石のように硬質で、静かに響いた。
「夢かもしれないし、記憶かもしれない。でも、確かに知ってたって、体が言ってる」
ノイラは、手を止めた。
「ねえ、セレア。あなたのお父さん、パイを作ってたって……本当?」
私は答えなかった。
いや、答えられなかった。
記憶が、揺らいでいた。
たしかに父と台所に立っていた気がする。
けれど、それが本当に“私の父”だったのか、今ではよく分からない。
あるときは、兄のように思える。
あるときは、まるで見知らぬ他人のように感じる。
それでも、火と香りだけは、いつも同じだった。
だから私は、火を灯しつづける。
言葉ではなく、手順で、記憶をなぞる。
「この手順は、私のものじゃないかもしれない」
そう呟くと、ルオが目を開け、ノイラが私を見た。
「でも、だからこそ、灯せるんだと思う」
ノイラが言った。
「私たちは、誰かの記憶の続きを、手で受け取ってる。言葉じゃなく、火と香りで」
レム・ステラが、震えた。
小さな音。けれど、確かに“語りの気配”だった。
ルオが石を軽く鳴らす。
私は薪を一本足す。
ノイラが目を閉じ、手を胸に置く。
その夜、私たちは名前を呼ばなかった。
けれど、誰かの記憶を、確かに感じていた。
そして、次の日もまた、私は火を灯す。
それが、私にできる唯一の語り方だから。